放題・2

昨日からのつづきです。
【あらすじ】
「リフト乗り放題」という広告は、「本当の意味での滑り放題」(滑り放題 + それを実現するリフト乗り放題)を、素晴らしく端的に表現している。
他にそういうの、ないかねぇ・・・。
適当に挙げてみる。
◆スケート靴はき放題
意図:滑り放題 + それを実現するスケート靴はき放題
スキーと似ているので挙げてみたが、スケートは「滑り放題」と言うことで事足りそうだ。
むしろ「スケート靴はき放題」では、足をくじくイメージが先行してしまう。
よりスキーの議題と近づくようなことを考えると、「スケート場行きバス乗り放題」とかか。
◆寿司回り放題
意図:食べ放題 + たくさんの種類の寿司
これでは意図が汲み取れない。
だが、単に「食べ放題」でも「種類少ないんじゃないの?」とか、邪推の余地がある。
何かいい案がないだろうか。
意図は「食べ放題 + たくさんの種類の寿司」である。
「寿司選び悩み放題」なんて、どうだろうか。
・・・店に入らなくてもできそうだな、「寿司選び悩み放題」。
◆「この肉、すげー口ごたえだよ」
意図:硬い(歯ごたえがある) + 出した人に少し文句を言いたい
趣向を変えてみた。
シチュが限られるが、使ってみたいところである。
◆フォーク落とし放題
意図:よく落ちるフォーク + 持久力がある
いくらでも落とせるということは、持久力もあることになるような気がしたので挙げたが、ちと無理があるか。
また、何よりも「キャッチャー取り損ね放題」が懸念されそうだ。
まぁ、こんなもんで、勘弁してください。

放題

いつだったか。
電車の中でスキーの広告を見たとき、少し感心した。
「リフト乗り放題」とあった。
スキーを一度しかやったことのない僕にとって、一見その広告の見出しは、それほど目を惹くものではなかった。
「滑り放題」ということなんじゃないか。
そう思った。
でも、すぐにそうではなさそうだと感じた。
スキー場の料金システムがどのようなものなのか、知らないのだが、スキーやスノボの板に万滑計(発音とか、いろいろと!)がついていて、滑った分だけ料金を払う、という感じではないだろう。
多くの人にとって「滑り」はタダ。
「滑り放題」は当たり前なのだろう。
だが、その放題も、滑るための傾斜があってのものだ。
上から滑ってきて、傾斜がゆるくなっているところで停止する。
その状態でじっとしていても、それは「滑り放題」には含まれない。
停止し放題だ。
その点、広告がウリにしていた「リフト乗り放題」という言葉は、かなり積極的に「滑り放題」を謳っている。
実のところ、お客さんは「リフト乗り放題」だからってずっとリフトに乗り続けるわけではないだろう。
やりたいのは「滑り放題」だ。
「お客さん。滑り放題したいのはわかりますがね。ほら、滑るには、坂が必要でしょ。ね。そうなるとほら、リフトか何か、必要じゃない?。そこで、今回はなんと、リフト乗り放題ですよ。乗り放題。」
「リフト乗り放題だと、坂の上に行き放題じゃない?。そんなところにスキー板をはいて行くと、どうなると思います?。」
「そう。まずは滑り始め放題ね。そして、加速しだし放題。そしてついに、滑り放題ですよ。」
「滑り放題」の、強力な代名詞なのだ、「リフト乗り放題」。
先ほども書いたが、スキーをしない者は、ちょっとリフトのことを忘れがちだ。
なんかスキーをしたくなっているときなんかに「滑り放題スキー場!!」とか書かれたチラシを見たら、「うそ、滑り放題じゃん!!」と喜んでしまうかもしれない。
無論、リフト料金は別になっていたりするのだ。
その点、「リフト乗り放題」は、かなり美しく端的に「滑り放題で、しかもリフト乗りまくりだよ」を表現していると思う。
次回、そんな表現の仕方(リフト乗り放題→滑り放題で乗り放題)が他にもあるのかを考える。

マスクと棒

この季節、花粉症との相性の悪さに辟易するチュッパチャプス好きが多くなるのではないだろうか。
要は、マスクとチュッパチャプスについている棒について、である。
マスクをしているときに、チュッパチャプスを舐めることはできない。
チュッパチャプスについている棒が、口から突き出てしまうからである。
マスクは、口から何か突起しているシーンは、想定していないのだ。
あの棒の役割を考えてみたが、なかなか思いつかない。
それでもひねり出してみると、
1.ときどき口から飴を取り出して、なめられ具合を確認するためのもの
2.小さい子に与えたとき、誤飲しないように、もしくは誤飲したときも喉につかえるようにするためのもの
3.遭難した際、手渡しで飴を交互に舐めあおうとすると手についた分が消耗してしまうので、それを防ぐためのもの
4.舐めを休みたいとき、とりあえず出しておく
などというものが出た。
しかし、それぞれ
1.飴のなめられ具合は、それほど確認しなくてもよい
2.誤飲してしまった場合、むしろ棒が危険なのではないか
3.遭難したとき、チュッパチャプスの包装のポップさはちょっと苦痛だ
4.立ち上がっている状態だと、片手のチュッパチャプスはちょうど子供の目の高さであり、歩きたばこ同様、危険なものとなる
との意見もあり、難しいところである。
とにかく、花粉症でマスクを着用しなくてはならない多くの人にとって、チュッパチャプスの棒はかなり邪魔くさい。
例えば、形の似た食べ物として串かつがあるが、多くの人は串かつを食すのにそれほど多くの時間は要しない。
ゆえに竹の串とマスクの競合は起きない。
野球漫画「ドカベン」には、いつも葉っぱをくわえているキャラクタ「岩鬼正美」がいるが、葉っぱは柔軟性に富むため、葉っぱとマスクと岩鬼正美の間に競合はない。
しかし、チュッパチャプスについては、その棒部分とのジョイント部分を重点的に攻めたとしても、脱・棒に10分くらいは必要だ。
その間、鼻は花粉にさらされることとなるのだ。
今のところ、チュッパチャプスの棒について、詳細なことは知らない。
そして、あの棒がないとチュッパチャプスのチュッパチャプスたる部分が、かなり喪失することもわかる。
だが、最近やたらマスクの人が増えてきた。
マスクの中心から白いプラスチック棒が突き出ている。
そんなシュールっぷりもいいが、どうにか他の方法でマスクとチュッパチャプスの棒の共存がはかれないだろうか。
追記
先ほど「なんだ、マスクをするとき、あの棒で飴を口から取り出せばいいじゃないか」とか思ってしまった。
そもそも、棒がなければ飴を取り出す必要はないのである。ざんねん。

苦労

「さざんがくろう」。
今作った言葉。
詳細は「3×3が苦労」とでもいうべきか。
検索でもサーチされないようなので、作った感が少しだけ、訪れております。
ところでこの「さざんがくろう」ですが、使えるシーンがほとんど浮かばないかわりに、使ってはいけないシーンがたくさんある言葉となっています。
医者「もう、手の施しようがありません」
子「お母さん!!」
母「みちこ、お前にも本当に、さざんが苦労かけたね・・・」
母は本当は、そう思っていないのである。
むしろ、お前(みちこ)はやたら手のかかる子だったよ、くらいのことを行間に含んでいる風すらただよう。
ということで、そう言われたみちこは
「そんなことないわ。むしろ、私のほうがお母さんには、さざんが苦労かけたんだから」と返すべきだ。
白を基調とした、清らかだが厳粛な雰囲気の部屋に巻き起こる濃厚なオトギリソウのかおり。
花言葉は「復讐」だ。
いうことで、冒頭の一文には修正が必要となった。
「さざんがくろうを使えるシーンはほとんどなく、むしろ使ってはいけない場合が多いですが、相手に使われたら、その限りではありません」

たぶ3

昨日からの続きです。
【あらすじ】
熱いものに触れたとき、最初に耳たぶを触った人は誰だ。
誰。
誰なんださわったやつは。
現状、あまり情報がないもしくは調べていないため、人に聞いてみることに。
その、耳たぶ関連についてを、初対面の方に話したところ、相手の人柄がよかったこともあり、そこそこ汎用的な話題として盛り上がった。
そこで気付いたこと。
歳が若くなるにつれて「え、熱いものに触れたとき、触ります?、耳たぶ。」という感じが強くなっていた。
※もう少し詳細にいうと、「自分は、熱いものに触れたとき、耳たぶを触ります」という人はおらず、そのようなハプニング時に耳たぶを触る文化があるのは知っている、ということだった。そして、その文化の知りように、差があったのだ。
「熱いものに触れたとき、耳たぶを触る」行為に違和感を持つ傾向が、年齢が下がるにつれて色濃くみられ、グラデーションを形成しているようだ。
こういう場合、ある時期に発信されていた情報を知っているかどうかで差異が生じていることが多い。
昔のテレビで、誰か触ったのである。
「奥さまは魔女」だったら、十中八九、お触りパイオニアはサマンサであり、対象はオーブンのグラタンだ。
「おしん」だったら、おそらくパイオニアは泉ピン子であり、対象はお釜だ。
昔のドラマ等をあまり知らないので具体案は出ないが、ここまでも「耳たぶを触るんだ」イメージを浸透させたのだ。
かなり有名なヤツに違いない。
僕としては「熱いものに触れたとき、耳たぶを触る」行為に「キッチン」属性は必要である、という感じだ。
(風呂だき中に、または焼けた砲身を触って等のシーンで耳たぶを触るのは、ちょっと考えにくいし、気持ち悪くもある)
このイメージも、何に関連したものなのか、気になるところではある。
このように、なんら解決せずに耳たぶを触ることについて終えるのは、少々心苦しいところがある。
しかし、今回の件を書いている上でさらに「怒られてどこかに連れて行かれるとき、耳をつままれるのか」という疑問が生じてしまった。
我々は、そのような状況では何もできない。
せいぜい「ねえさーん!!」としか、言えない。
この問題について、耳に何か痛点とかいったものが集まっているから、などの説明が可能であるかもしれない(確か、ウマは耳を傷つけられるとたいそう痛がるそうだ)。
だが、ここで「耳をつまむとき、実はみんな耳たぶをつまんでいるのだ」とかいうことになると、いよいよ耳たぶについての紙面が足らぬ。
ということで、終わり。
なんか思いついたら、いつかまた書く。

たぶ2

昨日からのつづき
【あらすじ】
熱かったとき、耳たぶを触る行為について。
「熱かったとき、耳たぶを触る」シーンを思い描くとき、我々日本人はまず「やかん」を思い出す。
流れとしては以下の感じ。
朝→目覚まし→止める→寝る→目覚まし→起きる→やかん→はみがき→沸騰→ピーッ→耳たぶ
しかし、だからといって「やかんが誕生してからほどなくして、人間は耳たぶを触りだしました。」
とは言えない。
熱いものはやかん以外にもたくさんあるからだ。
と、ここで新たな疑問が生ずる。
他の国の人も「熱かったとき、耳たぶを触る」のか、だ。
アメリカっぽくて熱いものといえば、バーベキューの串だ。
アメリカ人は、つまんだバーベキューの串が熱かったとき、どのような行動をするのだろうか。
中国っぽくて熱いものといえば、小籠包だ。
中国人は、なんらかの理由でふと小籠包をつまんでしまったとき、どのような行動をするのだろうか。
インドっぽくて熱いものといえば、ナンだ。
インド人は、ナンを焼いている釜みたいのからつまみ出したあと、どのような行動をするのだろうか。
調べたいところだが、あいにく僕はゲームをしたい。
ゆえに、調べたくない。
だが、もしかしたら他の国では、「熱かったとき、耳たぶを触る」ではなく、
「熱かったとき、頬をつねる」
「熱かったとき、手を振り回す」
「熱かったとき、指で鼻の先端に触れる」
とかなのかもしれない。
となると、僕が「熱かったとき、耳たぶを触る」行為についてどうこう書いているこの瞬間、
「誰だよ最初に頬つねったヤツ!!」と怒っているアメリカ人が、
「小籠包つままねーよ!!」とツッコんでいる中国人が、
「ナンの熱さくらいはどうってことない」と思っているインド人がいることになる。
世界は広い。
・・・話題としては問題ない内容であるとは思ったが、案の定まとまらないなぁ。
次回、やんわり濁して終わりの予定。

たぶ

最初に「熱かったとき、耳たぶを触る」ことをした人は誰なのだろう。
==============
耳たぶはその「さらされっぷり」により、体の中でも温度が低くなりやすいところだ。
実際に「熱かったとき、耳たぶを触る」ことによりその低さを体感した人も多いだろう。
しかし、だからといって耳たぶは「冷たさが売りです」といった器官(あえて)ではないと思う。
冷えを売りにするなら、もっとありようがあったはずだ。
それに、人によってはこの器官の温度が他の部位よりも高まったりしてしまい、それを好意を寄せる相手に触らすどうこうと、武器になったりもする。
コイツにどのような機能があるか知らないが、温度が低いのは「たまたま」なのではないだろうか。
このような理由により「熱いものを触ったとき、耳たぶを触ることが最善策」である、とは一概に言えなさそうだ。
耳たぶよりはそこらのステンレス製の流し台などに指をあてがった方がひんやりしそうだし。
==============
だのに、やはり僕らは「熱かったとき、耳たぶを触る」のだった。
誰だ、刷り込んだのは。
次回、いろいろ考えてみる。

オーガスタ その3

昨日からの続き
【あらすじ】
もう、何だってんだオーガスタ。
前回、前々回と、ゴルファー達にとって「遥かなもの」を考えてきた。
それは
「ゴルフの聖地(?)、アメリカのオーガスタ」なのか、
「ゴルファーたちの光る汗、空を彩る虹、美しい弧を描くゴルフクラブのボールを当てるところ。8月(オーガスト)」なのか。
・・・僕は迂闊だった。
ゴルファーにとって遥かなもの。
それはルール的に、ボールを入れなくてはならない「穴」に他ならない。
そう。
「オーガスト」は「穴」だったのだ。
「遥かなる穴」
うわあ。
たいへんだ。
そういえばホールと言ったっけか。
とりあえず「遥かなるホール」のほうが汎用性が高い。
ところで、なぜ「穴」「ホール」という言葉があるのに、ゴルファー達はそれを「オーガスタ」と言い換えるのだろう。
※「オーガスタ」が「穴」であることが判明した以上、ゴルファー達は非ゴルファーにはわからない、隠語のような形で「オーガスタ」を使用していることは明白である。
言い換える理由。
それは、知りません。
ただ、僕が思うのは、ボーリングでストライクを3回出すことを「ターキー」と呼ぶ、そんな愉快な出来事がゴルフ界に起きたに違いないということだ。
ほぼ確実だろうが、ボーリングのターキーは「ストライク3回出たらターキーをごちそうするよ」という小話から生まれたものであろう。
(となると、ストライク1回ではベルマーク5点分、ストライク2回だとマックナゲットくらいだろうか)
「穴」を「オーガスト」と呼ぶ、その愉快な出来事とは、なんだろう。
ここで、話は「ゴルフの聖地(?)」に回帰する。
誰か、アメリカのオーガスタに行きたかった人が、穴を「オーガスタ」に見立てたのではないだろうか。
そうすることで、ゴルフ場で穴を狙うことは、ゴルフの聖地を狙うことになり、それはその地のゴルフ場の穴を狙っていることになり、ちょっと由来としてかっこいいのである。
全てのゴルファーは、アメリカのオーガスタにあるゴルフ場の穴を射止めようとしているとも言えるのだ。
ということは、ゴルフ場は世界そのものであり、そこを飛んでいくボールはゴルファー本人を意味するものとなる。
壮大だったんだな、ゴルフとオーガスタ。
遥か。
そりゃあ遥かだよ。
オーガスタ、おわり。
ちなみに、パターゴルフは小旅行気分となる。