口頭に向くやつ「落差」

昨日からのつづき。
【概要】
***口頭に向くやつのあけぼの***
大昔、人々はしゃべることで人をおもしろがらせる、いわゆる「口頭に向くやつ」を手に入れるどうこう以前に、そもそもしゃべることが出来なかった。
***初歩的な口頭に向いてるやつの発祥***
哲学者が大声で「おつかれさまでーす」と言ってみたところ、くたびれた格好のくせに何言ってんだ、と受けた。
***初歩的な口頭に向いてるやつ「写実主義」***
それのあるがままを言葉にすることによって、おもしろくする。
もしくはおもしろくなった体でやり過ごす。
*****
***口頭に向くやつ「落差」***
ヨーロッパでは、「あるがままをそのまま表す」という写実主義の流行は17世紀末まで続いた。
しかし、あまりにそのままであるため、人々はマンネリを感じずにはいられなかった。
そんななか、ある若者の変則「口頭に向くやつ」がちまたで話題となった。
ニギ
「かすみうまっ!!」
かの有名な「かすみうまっ!!」の誕生である。
この「口頭に向くやつ」が優れている点は、写実主義におけてさけられない冗長化が見当たらないこともさることながら、本来ありえない組み合わせの落差をぐいぐい楽しもう、という攻撃性だった。
それは写実主義ではありえなかった図式だが、飽きていたせいもあり、新たな「口頭に向くやつ」の風潮「落差」はまたたく間にヨーロッパ全土に広がった。
「かすみうまっ!!」の影響で、フランスではユニコーンの角の粉末と共に「霞」の缶詰が販売されていたことは有名。
今日において面白さの一角ともなっている「落差」は、このように生まれたのである。
当時流行した「口頭に向くやつ 落差」を見てみよう。
・小錦ほそっ
・ビルひくっ
・サンタクロースくろぐろっ
・トンボ走るっ
・デッドアンドアライブっ
・秒針はやっ
・その日は朝から夜っぽっ
・トイレットペーパー強靭っ
・広辞苑かるっ
・とめはねっ
・東京スカイツリー湯通しした菜っ葉みたいっ
こんな感じだった。
そして「口頭に向くやつ」の風潮として、この「落差」の派生、「印象派」が登場するのに、それほど時間はかからなかった。
次回
口頭に向くやつの近代化 「印象派」

口頭に向くやつ「写実主義」

昨日からのつづき。
【概要】
***口頭に向くやつのあけぼの***
大昔、人々はしゃべることで人をおもしろがらせる、いわゆる「口頭に向くやつ」を手に入れるどうこう以前に、そもそもしゃべることが出来なかった。
***初歩的な口頭に向いてるやつの発祥***
哲学者が大声で「おつかれさまでーす」と言ってみたところ、くたびれた格好のくせに何言ってんだ、と受けた。
*****
***初歩的な口頭に向いてるやつの例***
何はともあれ、言葉がおもしろがらせる要因となることを発見した哲学者エトークは研究を重ね、現在の口頭に向いてるやつの基盤となる法則を発見した。
「写実主義」
驚くべきことに「口頭に向いてるやつ」は、美術、文学などの芸術がたどってきた流行、風潮の変遷と似ているところがある。
冒頭の「おつかれさまでーす」も見た目そのものがおもしろさの起因となった。
エトークは現実そのままを言葉にすることが、おもしろがらせることであるとした。
「右手に持った携帯電話を、左に耳にあてていますね」
おもしろくしようとした人の動作をそのままに言葉に表すことで、「口頭に向いてるやつ」に見事変換できた、写実主義初期の口頭に向いてるやつである。
「そんなところに立っていては、クイズに間違ったときに床が開いて落ちてしまいますよ」
上記のものと同じような変換が行われているが、さらに冷静さを持った言葉にすることでおもしろさを増した例である。
「この、イカリングの鎖を、どのように作ったのか教えてください」
変換は完璧なうえ、本当にどう作ったのか知りたくなるような題材にまで昇華されている例。
「口頭に向いてるやつ」の写実風潮は、大いに流行した。
しかし、その歯に衣きせぬ言動は、時として人間関係を悪化させる原因ともなった。
そんななか、あまりに直接的な言動に飽きた若者たちが、また別の方向性を見いだそうとしていた。
次回
第二世代口頭に向いてるやつ 「落差」

口頭に向くやつのあゆみ

***口頭に向くやつのあけぼの***
大昔、人々はしゃべることで人をおもしろがらせる、いわゆる「口頭に向くやつ」を手に入れるどうこう以前に、そもそもしゃべることが出来なかった。
初期の人類は、しゃべることはおろか声を発することも出来ず、一様にぴちぴちしているだけの生き物だった。
よって、声を発するには相応の喉の構造改革が必要であったし、さらに意味をなす声、言語の獲得には長い年月を要したのである。
図:ぴちぴちしていた頃を思い出して描いたと思われる壁画
  ぬぬぬ   ||| 共互
    ● 煮真面目● ●
   ぬ   ●
     ===●
***初歩的な口頭に向いてるやつの台頭***
16世紀頃になると、人類はだいたいしゃべれるようになってきた。
そして一方で、笑うという表現方法も獲得していた。
しかし、しゃべることで人を笑わせるという方法は確立されていなかった。
笑うことのほとんどは、食べようとしたジャムパンからジャムがだだもれしていただとか、リップクリームを出そうと底をくるくる回していたら出てくる寸前で止まってしまっただとか、動作的な要因に付加してくる、さそい笑いのみだった
「あなたが動けば、私は笑う。あなたが動かなくなったら、私は泣くだろう」
16世紀の劇作家ヤキミソの言葉が有名である。
しかし17世紀初頭、哲学者エトークは、タンスを思いっきり閉めることで上の段が少し開く動きによる笑いを楽しんでいたとき、「笑うことの快感をもっと能動的に行えないか」と考えた。
そこで彼は以下のことを試した。
・タンスの上の段のところにセクシーランジェリーを詰め込んで、タンスを思いっきり閉めてみる
・大声で「おつかれさまでーす」と言ってみる
・手の甲に血管を浮き立たせる練習をしてみる
・赤信号に一回もひっかからずに駅まで着いたら、今日はいい日だと考えてみる
・雨の日、あたかも水たまりを避けるかのような動きで、全ての水たまりに着水していく
これらの方法はうまくいかず、夫婦生活に転機がおとずれるか、自分がいやになるかだけであった。
しかし奇妙なことに、それを見ていた人が笑ったものがあった。
意外にも「おつかれさまでーす」と大声で言ってみたものである。
それは本来、哲学者っぽいくたびれた格好のエトークが「おつかれさまでーす」ということで、周りの人が「おまえのほうがよっぽどだ」と感じたための、やはり「さそい笑い」だった。
ところがエトークは「動作ではなく、何かを言うことで人が笑うこともある」「それを利用すれば能動的に笑いの制御が可能ではないか」と勘違いしてしまった。
これが、初歩的な口頭に向いてるやつのはじまりであった。
次回
初歩的な口頭に向いてるやつの例と、第二世代口頭に向いてるやつ

対処法

日本のことなのだが、毒蛇に噛まれた対処法は「何もしない」が一番いいのだという。
それは日本に極めて強力な毒を持つヘビがいないこと。
そして素人発想による暖めたり冷やしたり切開したりというのが、むしろ症状を悪化させてしまう。
そういうことに起因した「何もしない」。
包帯で縛ることすらやらなくてもよい。
やるとしても患部と心臓のあいだに、幅を広く、しかも相当緩くやること。
そしてあせらず、すみやかに医者に行くことだそうだ。
となると、「毒蛇に噛まれた人に対し、やたらと自慢話をしてくる人」というのは、かなりのものであることがわかる。
通常、人はヘビがいただけであせり、それで噛まれたなどというとたいへんだ。
そんなときに「何もしない」というのはなかなか難しい。
「毒蛇に噛まれた大変だったけど、どうにか生還しました」という旨の自慢でさえなければ、噛まれた人を動揺させることもなく、しかも、どうでもいい自慢話はなんとなく相手の代謝を下げそうな気もする。
「何もさせないために自慢話を聞かせる」というのは、案外いい方法なのではないだろうか。
だから、キャンプなどへ出かけるときは自慢話ばかりするやつを連れて行くとよい。
料理中などには格好のいじられ役にもなってくれそうだし。
もちろん、自慢話ばかりをするやつが毒蛇に噛まれることもあるだろうが、安心してほしい。
彼彼女はそのとき、まさに「毒蛇に噛まれた大変だったけど、どうにか生還しました」を体得できるという気持ち一杯で、元気なはずだ。

サルベージ

カメすくいって一体なんなんだ。
あるらしいんだ、金魚すくいと同じ感じで。
祭りで見たことがない。
というよりも気になるのが、あたかもみんな知ってるでしょという感じでカメすくいを持ち出されることがあるんだ。
想像がつかないわけじゃない。
金魚のときと同じように、すくって持ち帰るシステムだろう。
ただ、カメは衛生的に問題視されていた時期がある。
だから人気ないんじゃないだろうか。
また、カメは呼吸するために浮いている印象がある。
浮きすぎている心配がある。
だからすくいやすいんじゃないだろうか。
むしろ「カメしずめ」とかのほうが難易度高くできるんじゃないだろうか。
ふ菓子か何かでしずめるんだ、カメを。
ああ、ここで「カメを鎮める」ってしたい。
そうすればある人はガメラを思い浮かべるだろうし、ある人は「ふ菓子で鎮まるか」と思うだろう。
ふ菓子で鎮まるんだったら、少々の粗相はやむを得ないな、この神様は。
もちろん金魚ので「しずめる」はだめだ。
それは金魚にとって普段であり、今まさにそうですよ、という心境だ。
しずめるのはカメと動悸だけでいい。
動悸のことは忘れてくれ。
ともかく、カメすくいについてのこのような経営面での問題点もあるが、やはり気になるのはその存在だ。
なんなんだカメすくいって。
ということで、この流れなら「そもそも金魚すくいってなに?」も考えなければならないわけで、ただこれだけ見ると何のために「金魚をすくわなければならないのか」という気分にもある。
我々は祭りだからといって、律儀にも金魚をすくっているのである。
そうでもしないと祭りを楽しめないとでも思っているんだ。
そもそも「金魚すくい」っていうのが妖怪じみてる。
「小豆あらい」と同じじゃないか。
「金魚すくい」が「ゲリデバ」という名前だったら、そのエキセントリックな響きで本来の行動はぼやけ、日常生活においてより一般的なものになったかもしれないのに。
いや、本来の行動をぼやかす必要があるのなら、最初から生き物なんてすくわないほうがいい。
そもそも生き物というのはすくわれないものなのだから。
っていう勧誘の人が来ました。

モデり

いつだったか、「ガメラ」は「ワニガメ」という大きいカメをモデルにしたという話を聞いたことがある。
本当かどうかはわからないが、確かにワニガメは角張っていていかつく、大怪獣のようにも見える。
似たような話は他にもあり、例えば山手線は粒子加速器をモデルにしていて、より速くみたいなことを意識していた。
犬の多くはオオカミがモデルなのは良く知られているけど、そのオオカミのモデルがイーヌーなのは、あまり知られていない。
昔はイーヌーがたくさんいて、すぐに腱を狙ってきて困ったけど、今は全然見かけない。
そういえば、この世で一番モデルになっているものを知っているかい。
ハンガーなんだ。
有名なのはヌンチャクで、あれはハンガーから生まれた。
ハンガーにスーツを掛けようとしたとき、それを落としそうになったのを懸命に落とすまいとした行動の結果なんだ。
また、ブーメランもハンガーから生まれているね。
あれも、落としそうになったのを懸命に落とすまいとした行動の結果だ。
外骨格もハンガーだね。
あれはハンガーをぎゅってやってごちゃーってした結果だ。
あとは相模湾とかもだね。
もうあれ、ハンガーまんまなんだから。
モデル過ぎるよ。
ちなみに、特定保健用食品のマークは僕がモデルらしいよ。

グループ単位

昨日ゲームの話になったのでもうひとつ。
僕はRPGに関して、ひとつだけ確信している事がある。
「RPGは1グループまとめて攻撃できる手段をはじめて獲得した瞬間が一番面白い」
ドラゴンクエストならギラとかだ。
ギラ覚えた瞬間が一番楽しい。爽快だ。
メタルスライムを倒しただとか、おおばさみを買うお金が貯まったとかもかなりだが、ギラには勝てない。
ファイナルファンタジーはどうだろう。
昔のはいつ何時でも、火の魔法を複数指定できたりした。
いつでもできちゃう点だけだと、ギラの喜びには届かないかも。
でも爽快。
将棋も、1グループまとめて取るなんてことができればいいのに。
昔書いたかもしれないけど、僕は将棋や麻雀のルールを全然知らない。
定石を勉強する時点で、左のひざをつき、右のひざをつき。
左手の手のひらをつき、右手のてのひらをつく。
そして勉強しなくてよくなるまで、じっとしている。
そんな感じ。
でも素人でも一発逆転ができるような「1グループまとめて」ができるというのなら、やる気が出るかもしれない。
麻雀はきれいに絵柄がそろえばいいと聞く。
ときどき、1グループ分の絵柄を他の人から取っていいとか新ルールができないだろうか。
将棋は王将を取ればいいが、その前にいる他のやつが邪魔だ。
1グループという単位を考えると、歩を一網打尽にする魔法を桂馬とかが唱えていい季節とかできないだろうか。
もちろん、「1グループまとめて」は回復手段としても存在するだろう。
将棋のそれは、味方陣営の歩が全部ひっくり返る。
たしか、将棋はひっくり返ると強くなるのだそうだ。
麻雀のそれは、みんなで海水浴とかに行く。
たしか、麻雀は一度やりだすと廃人になるのだそうだ。

ふり

僕はどうしても「見ぬ見てフリ」というものでひとつ何か書こうとしていたようだ。
メモに書いてある。
もちろん「見て見ぬフリ」があるのだったら、「見ぬ見てフリ」というのもある、ということなわけだが、つまるところそれは「知ったかぶり」と思われ、それほど話は広がらない。
じゃあどうしたらいいん?という気にもなるが、例えば「見ぬ見ぬフリ」だったらどうなるかと考えていくと、なかなか奥深く、ちょうどブログ1回分くらいはどうにかなるんじゃないかという今回である。
「見ぬ見ぬフリ」は、「見ないフリというのだから、実は見ている。よって「見て見ぬフリ」とほぼ同じ意味で、違うとすれば見てない風を装う頻度が比較的高いことだ」と思われがちである。
しかし違う。
「いやよいやよも好きのうち」と完全に同義の言葉だ。
なんかの辞書に載ってた。
「見て見てフリ」は何かを凝視しているさまを表していると誤って理解されている事が多いが、違う。
ぶりっこのことだ。
「見て見て」はそのまま、「フリ」は「フリル」に通ずる。
よって、「見て見てフリル」となり、ぶりっこである。
なんかの辞書に載ってた。
なお、類似語に「フリフリ見て」がある。
「見て聞くフリ」
さぼりのことで、ろくなものではない。
僕はよくやる。
ちなみに「見て言い聞くフリ」もあり、これは東照宮のほうのこと。
「見ぬ聞かぬフリ」
テスト前によく行われている詐欺のこと。
「俺全然授業聞いてなかったよー」で良い点を獲得してしまうこと。
ところでこちらにも「見ぬ言わぬ聞かぬフリ」があるとされ、これも東照宮、いわゆる「見ざる、言わざる、聞かざる」のことであるという説もある。
このことはその3猿がその名に反して、実は指の隙間から見て、もごもご言って、聞き耳を立てて聞いているという可能性を示唆している。
この猿たちは当時の教育理念を端的に表したものとされているが、それは全然関係なく、覗き見している猿は猿らしくてよいということを表しているのだという研究家も多い。
なんかの辞書に載ってた。

アイキャッチのあゆみ4

昨日からのつづき。
【あらすじ】
アイキャッチが現在のかたちにいたるまで。
=====
現在アイキャッチは、番組とCMあるいはクレジットとの間を埋めるという重大な役割を持っている。
しかしそれにとどまらず、様々な進化も遂げているのである。
先日、2時間のサスペンスドラマを見ていたとき、ちょうど中盤時のCM前にて今までのダイジェストが行われていた。
これもアイキャッチの一種である。
単なる中継ぎだけでなく、1時間後でも視聴者を増やそうとする強い意識が見られ、好感が持てる。
ただひとつ気になるのは、「2時間後の事件の結果」は行われていない点である。
後半1時間の半分は犯人の諸々となるため、それをダイジェストにすると少々味気ない感じになるのかもしれない。
しかしここは是非、ドラマ最後の「事件解決までのダイジェスト」を考えていただきたい。
未来への課題である。
一方、サスペンスドラマ終了直前にみられる、主人公とサブキャラとのひとこまも、アイキャッチの一種である。
本来ドラマを終え、次の番組までの閑暇であるはずの時間帯でも視聴者を手放さない姿勢が、そこにはある。
ちなみにアニメではこの方法は「次回予告」という形になるようである。
ドラマ以外でも用いられるアイキャッチの一種に、CM前後で同じシーンを放映する方式がある。
これは一般的には視聴者の怒りの対象になりやすい。
しかし番組の理解度を高めるという点では、他のアイキャッチの追随をゆるさない。
番組ののりしろとして、CM間をつなぐことにより番組の理解がよりよく行われ、結果的に他チャンネルへの移行の防止、それに伴いCMもより見てもらえるという綿密な戦略なのである。
このように、我々の身の回りには数多くのアイキャッチが存在していることにある。
では、アイキャッチの今後はどのようなものであるだろうか。
考察されているものはいくつかあるようである。
・番組中で使用された雑貨などをアイキャッチにて紹介する。
すでに番組と関連づいたCMがされていたりするが、さらにそれを積極的に取り込んだアイキャッチである。
CMを自動的に除去する機能を持ってしてもこれは除去されない。
これが何らかの解決になるのか、あるいは新たな火種になるのかは今のところ不明である。
・その日のニュースを表示する。
番組の内容によっては、アイキャッチに関連づいたものを表示することが難しい場合もある。
そういった番組では、アイキャッチのタイミングにてニュースを表示する。
宝くじの当選番号、競馬の結果なども考えられ、非常に実用性に富んだ方式と言えよう。
・アイキャッチのたびに、じゃんけん。
アニメ「サザエさん」では番組ラストにて「じゃんけん」の要素を取り入れた。
これが各方面に多大な影響を与えた事は、もはや揺るがない。
将来、このたぐいの要素はアイキャッチにも取り入れられることだろう。
なお、由美かおるの入浴シーンや新人アイドルのPVなどもこの方式に含まれる。
・映画「トゥルーマンショー」のように、番組出演者がそのままCMをつとめる。
これは現在「はなまるマーケット」での生コマーシャルがそれに近いとされている。
けっこう、出演者の好感度があがりそうである。
考察されているもののなかでは特に「アイキャッチと称して、ちょい番組を進める」というものが現在注目されている。
より他番組へのチャンネル移行を阻止できるとして期待されているわけであるが、こうなるとCM自体が今まで以上に不要とされやすくなる。
アイキャッチとCMの共生を目指して議論していく必要があるだろう。
このように、未来に向けられたアイキャッチの話は事を欠かない。
これからもアイキャッチは、今まで以上に我々の目を楽しませてくれることだろう。
結論
「アイキャッチのあゆみ」って、なんかスナックのおねえさんみたい。

アイキャッチのあゆみ3

昨日からのつづき。
【あらすじ】
アイキャッチの近代化。
=====
その有効性が認められた「ゆび相撲によるアイキャッチ」だが、しだいに視聴者は混乱するようになってしまった。
すなわち、ゆび相撲のほうに注目が集まるがゆえの「ドラマを見ているのか、ゆび相撲を見ているのか、わからなくなった」というところである。
当初、視聴率さえあがっていれば問題なかった放送局でも、これを解決しないわけにはいかなくなってしまった。
ドラマとアイキャッチを両立させようとし、結果ともだおれになることを恐れたのである。
そこで2つの方針が取られた。
1:ゆび相撲中継の合間に、ドラマじみたCMを挿入する
2:あくまでドラマ本意とし、ドラマとCM間の合間(すなわち今日のアイキャッチ)はドラマと関連した内容を放映する
1については、いっそのことゆび相撲を主とし、ちょうどCM際の5秒ほどのところにドラマを行うというものである。
人気はあるが、そんなに長い間ゆび相撲だけを行うのは間が持たないのではないか。
そう懸念されたが、放送当時は概ね好評だった。
しかしすぐに問題が露呈する。
「5秒じゃドラマがわからない」というものだった。
実際はアイキャッチが計4回行われるため、20秒あるはずである。
以下、ある週のドラマ部位である。
「おいおい、今日はポトフじゃなかったかい?」
「ジェーン、ここに座りなさい」
「ほら、窓のところに靴のあと」
「まだ遠くには行っていない」
各5秒、計20秒でのやりとりであるが、これで「腕に青あざができていたジェーンだが、どうやらそれは狂言であるらしい。しかしジェーンに狂言をさせるほどに学校は荒廃しているのではないだろうか。次回につづく」という内容を網羅するのは、そして理解するのは無理があるというものである。
一部「5秒の方が想像力を働かせることができ、面白い」という意見もあったが、どちらにせよ期待した方向づけは、5秒ドラマではできなかった。
さらに都合の悪い事に、ちょうど上記5秒ドラマが放送された日のゆび相撲に、腕に青あざができていたスタッフも参加していた。
視聴者がさらなる混乱にさらされたのは、いうまでもない。
ちなみにこのときでも、ゆび相撲はスタッフが行っていた。
どちらにせよ、アイキャッチは2番。
ドラマとCM間の合間にドラマと関連した内容を入れ込むかたちとして、現代に至る。
それはその必要性というよりは消去法によって生まれたものなのであった。
つづく。