月明かりが楽しい季節になってまいりました。
理屈はさておき、秋冬は月明かりが「よく届く」気がする。
それが太陽由来だってかまうものか。
「夜が明るい」ってだけで楽しいもの。
夜の森で背伸びをすると、とても気持ちがいい。
しかし、客観的に考えると「夜の森で背伸びをしている人」は気持ち悪い。
「これからあたい、木になります」
そんなイメージで、なんだか演劇のテクニック。
そう考えると、夜は「止まっていてはだめ」だ。
動いていなくては。
背伸びもそうだが、止まっていることは闇夜にまぎれようとしている、と解釈されてしまう。
闇にまぎれなくてはいけないのは泥棒と暗殺者だけで、まとめると悪いやつ。
止まっていてはだめだ。
だが、一方で動きすぎるのもどうかと思う。
動きすぎるのは闇夜を利用して見つからないようにしている、と解釈できるからだ。
闇夜を利用して見つからないようにしているのは泥棒と暗殺者で、あら不思議。
まとめると、夜は泥棒と暗殺者だった。
誰しも夜から逃れられないことを考えると、毎日みんな泥棒と暗殺者にいいようにされているようなものだ。
「ということで、明日くらいは夜から逃げたいと思います」
飲みにいこうぜ!!。
カテゴリー: 雑文
筆跡
昨日からのつづき。
【あらすじ】
ヘビ文字、うなぎ文字でこれ書かれてもなあ。
※ヘビ文字とは、ヘビの長い体を利用して文字を書くことで、ほぼ「マムシ」と書くための文字。
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例えばヘビ文字で「うなぎ」と書かれていたら、その店に対する不審はどれほどのものになるだろうか。
「ヘビ文字」で何を書くといいのかというのは、結果的にはこの感じに収束する。
「スキンケア」
これが「ヘビ文字」で書かれていたとすると、多くの人はこう想像する。
「ヘビの生皮を貼るタイプのスキンケア」
そんなタイプがあるのかどうかは疑わしいが、ひとつだけ注意することがあるならば、ヘビには寄生虫がいるため、生皮を貼るならちゃんとそれを除去した方がいい。
「龍」
これは2つばかり、ぱっと思いつく。
まずは「ヘビ文字」として、必要なヘビの数がかなり多いという点。
ヘビ文字の特性上、画数とヘビの数が必ずしも一致しないが、どちらにせよ多い。
そしてヘビが使われていることからの「龍じゃないじゃん!!」という点。
どうせなら「龍」で文字を書けばいいはずなのだが、「ヘビ文字」。
多少狙いました感があるが、そこは礼儀として。
「押」
これだけでは何かわからないが、要は「押しボタン式」全般にあるボタン。
その表面に印字されている「押」である。
「押したくない」
誰しもそう思うはずだ。
面白いのは「引くタイプのドア」などにある「引」。
これが「ヘビ文字」だったとしても、それは「押」よりも恐怖度が低そうな気がするところ。
「∞ (無限大の記号)」
この記号のモデル説の一つである、ウロボロスという変なヘビを思い出した。
何が変かって、彼は自分のしっぽを自分でくわえているらしいから。
自分のしっぽをくわえたヘビの話は世界各地にある。
それはヘビ独自の自慰行為であるとか、クラインのつぼをめざしたのだとか、様々な意見。
本当かどうかはさておき、「自分のしっぽをくわえたヘビ」というのは人の関心を得やすいのだろう。
で、何の話だっけ。
ヘビ文字
先日に続き、サイクリングの話。
とは言っても自転車ぜんぜん出ません。
河川敷をうろついていると、必ず目にするのが「マムシ注意」の看板ではないだろうか。
事実、マムシは注意しなければならない。
というのも、毒を持っているからだ。
確かに、極めて致命的な毒というわけではない。
ただ、それも時と場合が関わってくるわけで、患部がひどくただれて壊死してしまうケースもある。
マムシ注意だ。
看板を遠目にこぎまくっていると、また同じ看板が出てきた。
「マムシ注意」だ。
そこで気づいた。
「マムシ注意」の「マムシ」が、ヘビが体を曲げるさまで書かれているのである。
ここに、今まで当たり前のように見てきたものがまた一つ、奇妙な意味を持つこととなった。
「長い体を持つ動物は、それを利用、文字にされてしまう」
すぐに思い出したのが「うなぎ」だ。
「うなぎ」は自身を表す「うなぎ」という文字ひとつずつを、その長い体で表現されてしまうことが非常に多い。
夏、スーパーの広告で確認できるだろう。
特に「う」だ。
「う」の「つ」っぽいところが、うなぎになっていることが非常に多い。
そして点は、さばかれて用済みになった頭部。
見たことはないが、おそらくそのような意味を持つに違いない。
そして「マムシ」。
面白いことに、ヘビについて「うなぎ」的な扱いを考えるとき、それはほぼ「マムシ」のことだけを考えればよい。
というのも、善し悪しあれ注目されるヘビというのは、日本ではとにかくマムシなのである。
「しまへび注意」
このような看板を、僕は見かけたことがない。
考えるに、それはしまへびが毒を持たないからであって、けっこう注意するほどでないからであろう。
日本で毒蛇というと、他にはハブが挙げられる。
ハブにはいろんな種類がいるが、恐ろしいことに全ての種類がヘビの形状をしている。
強弱あれ毒も持つ。
よって、怖い。
しかし生息地がマムシよりも限定されているから、マムシ看板の数よりは少ないだろう「ハブ注意」。
他に生息地の少ないものに「ヒャン」「ハイ」というヘビがいる。
これらも毒を持っているらしいが、それよりもどうしたことなのだろう。
「ヒャン」「ハイ」「ハブ」。
ちょっと命名に楽しすぎではないだろうか、暖かい地方の人。
生息地の点では「ヤマカガシ」はハブよりも広い。
その毒は古傷からまた血が出るというホラー映画みたいな作用を持っていて、しかも東京にいるヤマカガシは赤と黒のチェック柄だ。
怖い。
しかし昔は無毒と思われていたくらいで、確か奥歯が毒を持つからひどく深く噛み付かれなければ毒は入らないらしい。
他にもウミヘビ系も毒を持つが、まず噛み付かないらしいので、これも「マムシ」よりは注目されない。
むしろ食材として注目される。
ともかく、日本でヘビ文字(ヘビで書かれた文字)とくれば、「マムシ」と書かれているはずだ。
もちろん日本でうなぎ文字(うなぎで書かれた文字)は、「うなぎ」と書かれているはずなのである。
次回
絵はないが、ヘビ文字、うなぎ文字でこれ書かれてもなあ、をちぇけらっちょ。
古武術介護2
昨日からの続き。
【あらすじ】
ユーキャンの生涯学習講座を見ていたら、「古武術介護」というものがあった。
「介護」というのは思いのほか範囲が広い、と思った。
他にどんな「介護」があるのだろうか。
「介護」に僕たちは、何をしてあげられるのだろうか。
(便宜上、介護される人を一律お年寄りとさせていただいている点に注意)
=====
・制動介護
「制動」とは物が急に止まることの意味だが、ここでは「動きを制する」。
「制動介護」は「お年寄りが能動的に取ろうとした行動を利用して、介護の労力を抑える」ことを目的としている。
見かけは「動きを制御する」などと威圧的。
しかしその内容はそうでもない。
例えば、なんとなく暇になったお年寄りが「暇だからそれ、たたんどくよ」と言ってくれたとき。
「じゃあお願い」と頼めば、これは「制動介護」の一例である。
さんぽが嫌いなお年寄りに「あっちに孫が来てるよ」と言えば、そちらに行こうとする。
その動きにあわせてさんぽをしてしまえば、これも「制動介護」なのである。
このような方法は名前がついていなかっただけで、結構行われているのではないだろうか。
ただし、一方で「お年寄り側が画策、介護者を操作しようとする」、別のタイプの「制動介護」もありそうで、お年寄りもやるもんだね。
・なわとび介護
「なわとび介護」には、先日の「古武術介護」のくだりの疑問は生じない。
疑問というのは「介護者」と「お年寄り」のどちらがそれをやるの?というもの。
「なわとび介護」は、「介護者」が「ビニール製のなわを利用して、お年寄り介護者両方の負担が少ないような移動を行う」ことだろう。
というのも、「お年寄り」がなわとびをしようとする。
その手伝いをするのが「なわとび介護」だとすると、「なわとびをしようとするお年寄りに介護はいらなそう」という前提がその仮定を邪魔するのである。
「古武術介護」を初めて聞いたとき、「お年寄りが古武術をたしなもうとする、その補助を行うこと」を想像しなかったように、「なわとび介護」では「お年寄り」を抱えて飛び上がろうとする介護を想像してはいけない。
さて、「なわとび介護」の内容については先ほど触れた。
しかしこういう使い方も考えられる。
「介護者をなわとびで亀甲縛りにし、それをお年寄りに見てもらう」
あの、人間としての尊厳を打ち砕く亀甲縛り。
それを見たお年寄りは、長年忘れかけていた自尊心や向上心を思い出すのである。
したがって、「縛られると映える肌を持つ介護者」は、先天的に介護者に向いていると言えるかもしれない。
「亀甲縛りが好評でよくやっていたら、もう体中にそのミゾができてしまいました」
これは肌のハリという点で、いわゆる老化。
介護するものとされるものというのは、実は何も変わらないのである。
古武術介護
昨日、ユーキャンの講座を見ていたら「古武術介護」というものがあった。
介護というのは人の体を持ち上げたりするため、力が必要である。
古武術から、その力が少なくても済むようなコツを得られたのだろう。
「古武術介護」とは、介護の場面において、介護者と利用者双方の負担を減らす方法を講義してくれるに違いない。
しかし「古武術介護」という言葉を、ミスマッチ方面の感覚を尖らせてから再確認してみると、よくない想像もできる。それが人間。
「車いすの人を守りつつも、その車いすで悪を討つ」
すごいテクニックである。
確かジャッキーチェンが映画でやっていなかっただろうか「古武術介護」。
車いすの人がすぽーんってならないところが、みそ。
そして、ミスマッチ方面の散策は、そもそも「何か」と「介護」があわさると面白そうだということを我々に気づかせる。
「ぶらさがり介護」
もともとの発想は「ぶらさがり健康法」である。
これは以前触れたことがあるため、正直違う健康法を採用したかった。
しかし、他に汎用的な「健康法」が見つからなかったため、ぶらさがりで勘弁していただきたい。
さて、当初の発想を踏まえてみても「ぶらさがり介護」は不明な点がある。
それはお年寄り(今回は便宜上、介護される人を一律お年寄りとさせていただく)がぶら下がっているのか、介護者がぶらさがっているのか、という点。
前者なら、「ぶらさがり介護」はぶらさがり健康法を行いたいお年寄りの補助をすることである。
一方後者なら、介護者がぶらさがっていることが何らかの形で、お年寄りの介護となっているということである。
一見、後者はむずかしい。
しかし「あの介護者がぶらさがっているときの面白さは異常だ」などの能力を持っているとすると、ぶらさがることでメンタルケアを全方位に発動できるのかもしれない。
そう考えると、後者もあなどれない介護方法である。
また「ぶらさがり介護」は、なんだか天下り的なニュアンスも持つ。
介護と銘打ってはいるが、その実際は他リソースへの丸投げ。
結構適当だった「ぶらさがり介護」は、なかなか奥深かった。
やっと眠いので、次回。
了承の秋
携帯電話を変えて少したつ。
今度はエクスペリアの小さいやつで、日頃よりケータイはでかいな、と思っていた自分にとっては最適と思える。
そう考えたらいてもたってもいられず、店先のモデルも余り見ないうちに、まあ小さいのならこれにするかと選んだのだ。
こういう「これ買うか」と決めたときの僕ほど、いさぎよいことになっている人間はあまりいないような気がする。
というのも、何でも「はいはい」言ってしまうから。
いつもなら人が注文している間の時間まで利用して何を食べるか熟考するし、基本的に優柔不断で一芸入試を受けたくらいであるから、要はいさぎよくない。
しかし決まってしまえば早い。
ぜんぜん知らないなんとかプランもすいすい加入する。
もちろん店員さんに全幅の信頼を寄せているのである。
よくわからない月額100円くらいの何かも、全く使わないだろうがすいすい加入する。
料金から「これはいかん」と判断したとき、やめればいいのだ。
何か資料が出てきた。
一応目を通す風にするが、基本は「はいはい」だ。
よくないとは思っているのだが、まあ自分の使うケータイだし、まあよかろう。
「中身の確認を行いますが、指紋がすごく付くことがありますので了承ください」
こんなことは言われていないが、僕としてはこういうの、全く問題ない。
躊躇せず「はいはい」言う。
「ディスプレイをつばでお拭きいたしましょうか」
すっぱい臭いがするのなら嫌だが、このくらいですら、あとでどうにでもなると考える。
「はいはい」
「エロサイトをブックマークに登録しておいてもよろしいでしょうか」
これはいやかな。
でも流れ上、「はいはい」。
「通話口にカラスミをすりこんでおきます」
「はいはい」。
「とりあえず、飲んだらすぐ死ぬことで有名な毒薬をグラスで提供していますが、如何致しましょう」
「はいはい」。
考えのない承諾は、時として毒薬を置かれる、という事件になりかねないのである。
しかも毒薬、ダブルだ。
改行3
昨日からの続き。
【あらすじ】
どこかのおじいちゃんの自費出版人生録における、改行の考察をしてみる。
=====
人生録 ~人生五里霧中~ 我が人生に悔いなし
多田平 次三郎
それから、どのくらい時間がたったであろうか。
【改行①】
暗黒頭領ダークエレメントから地球を防衛して以来、私は何に対しても無気力になってしまった。お金に対しても、女性に対しても。
【改行②】
おそらく、人生に対しても。
そんなある日、平和の使者セントポリアンが合コンを企画してくれた。
【改行③】
彼の顔の広さもあるのだろうか。様々な場所のミス銀河系がそろっているという。
【改行④】
余り気が乗らなかったが、せっかくなので参加してみた。
【改行⑤】
そこで、のちに我が妻となるミツと対面することになるのである。
=====
考察
【改行①】
執筆中、ここでダークエレメントとの死闘を思い出していたと思われる。
時間にして2ヶ月ほど。
【改行②】
お金や女性だけではなく、もっと根源的な「生きること」にも無気力になってしまった。
そのことを強調するための改行。
【改行③】
平和の使者セントポリアンは小銭を財布にしまわないで鞄に直接入れてしまう癖がある。
【改行④】
様々な場所のミス銀河系が全員入ることのできる飲み屋は、数限られている。
【改行⑤】
まず目に留まったのが、クエサポ銀河系のラテン系美人、チョンさんだった。
しかし彼女の星は重力が地球の50倍だから、足首がザメルのように太い。
私自身もその重力に耐えられないため、あきらめた。
次に印象深かったのは、サス銀河系のラコステさん。
彼女の愛くるしい瞳は私の無気力さを癒してくれたが、彼女の星はつい先日超新星爆発を起こして中性子星となっており、その点チョンさんどころではないことになっている。
彼女自身はその爆発に巻き込まれており、本人もよくわからないエネルギー体としてこの合コンに参加しているとのことだった。
あきらめた。
ミス銀河系をもってしても、私の心の扉を開けてくれる人はいないのかと、考え始めていた。
改行2
昨日からのつづき
【あらすじ】
「改行」は2つの能力を提供する。
スペースの有効利用:1行でまとめるべき文章を、行を追加することでコンパクトにする。
アクセントや優劣:行の最初に任意の文章を置くことで、なんか意味ありげにする
「スペースの有効利用」目的で「改行」を使用した場合、「アクセントや優劣」能力はどうなるの、の巻。
=====
例を挙げてみる。
【例文】
朝のコーヒーがこんなにおいしいものだとは思わなかった。あ、ミルク入れるの忘れた。と、入れている間に家の壁がドリフのコントみたいに四面ばったーってなった。なんだか青空が気持ちいい、4月の土曜日なのである。
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【改行1】
朝のコーヒーがこんなにおいしいものだとは思わなかった。
あ、ミルク入れるの忘れた。と、入れている間に家の壁がドリフのコントみたいに四面ばったーってなった。
なんだか青空が気持ちいい、4月の土曜日なのである。
=====
【改行2】
朝のコーヒーがこんなにおいしいものだとは思わなかった。あ、ミルク入れるの忘れた。
と、入れている間に家の壁がドリフのコントみたいに四面ばったーってなった。
なんだか青空が気持ちいい、4月の土曜日なのである。
=====
ブラウザやウィンドウサイズによって異なるかもしれず。
そして例文が短いので目立たないかもしれないが、【改行1】【改行2】ともに改行を追加し行を増やすことで、結果的に横スペースの削減に成功している。
では「改行」の能力「アクセントや優劣」について考えてみる。
【改行1】は「ミルクを入れるくだり」から、新しい行になっている。
【改行2】は「ドリフのコント」から、新しい行。
どうだろう。
スペース有効利用のために改行を入れるとするなら、【改行2】のほうがいいのではないだろうか。
【改行1】は、ミルクとドリフが同じ行だから、なんだか「そりゃあミルクを入れれば家の壁は四方に倒れ込むよね」くらいのあたりまえ感すらある。
そして疑問を持つ。
ミルクにそんな機能はあったかな、と。
対して【改行2】は、理由こそわからないがドリフ的展開と、その結果の「青空が気持ちいい」には疑問はない。
この文章はミルクやドリフについて疑問を持ってもらいたいわけではないので、【改行2】のほうがいいと言える。
ただし、残念ながら僕は国語について明るくないので、「改行」の適切な挿入場所の定石という存在の有無を知らない。
「え、ミルクとドリフのあいだに、なんで改行入れるの?」と怪訝な顔をされれば、次回からは改行を挿入しないだろう。
加えて、人の感性というものもある。
今回のように説明していくと、「ミルクとドリフを1行でまとめる」ことの面白さというものに気づかされる。
どちらがいいのかというのは、なかなか難しいことだ。
まとめると、改行を入れるとするなら、その場所は重要ですよ、ということでして、それにしても今回、わざわざ書く必要のある内容じゃあなさそうですな。
しかし少なくとも、「人生」というものを表現した文章においての「改行」がより重要だというのは間違いなさそう。
次回
どこかのおじいちゃんの自費出版人生録における、改行の考察
改行
ずいぶん前に「人の人生を勝手に創作してノートにまとめる」という遊びをしていた。
もちろん創作で「36歳 世界中のスプリンクラーをいっぺんに作動させるスイッチを任せられる」とか書いているので、そういった方向に耐性を持つ人たちには好評。
一方で、享年まで記していることを咎める人もいた。
その遊びのせいもあってか。
「改行」という概念に長年注目している。
というのは完全にうそで、ついさっき「改行」というものを思い出したくらいなのが申し訳ないのだが、けっこうそれは面白いような気がする。
というのも、例えば冒頭の「人生」。
人生には、あたりまえだが「改行」というものなく、それを文章におこすとしたら地続き、1行ずらーっとならべられるべきだ。
それは、「人生」というのが、内容としては分岐点、ターニングポイントがあるのだとしても。
結果的にはずっと1ルートしか通ることが出来ないものであるから。
段落分けや、アクセント、優劣などは全て「あとづけの補足情報」でしかない。
故に「人生」の正しい表現は1行。
コピー紙の余白がハンパないシロモノになる。
ここから「改行」のことを考えるべきだ。
「改行」はスペースの有効利用を提供する。
改行により、横の長さを抑えることができるのだ。
コピー紙の件はこの能力で解決する。
一方「改行」は、「アクセント、優劣」も提供する。
これはさきほど、人生に置ける補足だとないがしろにしたものであるが、なんと「改行のスペース有効利用能力」を使用する上で、「ついでに」付いてきてしまう能力なのだ。
次回
例を挙げて考えてみる
署名
何かはわからないが、朝起きたら「らくがきというものは署名だったんだな」と妙に腑に落ちた。
とは言ってもそれまで「らくがきとは何か」を重考していたわけではなく、最近らくがき自体もしていない。
「小学校の教科書のなかに、らくがきがない」
そんな人はいないだろう。
いるとしたら、それは小学校ラスト間際で教科書を紛失、新しく買いそろえたことを忘れている。
もしくは「ノートにらくがき派」だ。
まだ、海のものとも山のものとも空のものとも分からぬ小学生の自分らが、自分の所有物であることを確認するが故の稚拙な行動。
そうとも考えれば、教科書あるいはノートに対するらくがきの署名は、納得もできるもの。
らくがきはおそらく、「所有すること」の意味を十分に理解したころ、徐々に消えていくものなのだろう。
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まず、らくがき時の筆圧が少しずつ低下してくる。
同時にえんぴつをにぎる力も弱くなってくる。
らくがき時の躁鬱っぷりが激しくなってくる。
らくがきをしようとすると、急に寒気がしてくる。
夜中、1階の居間でお父さんとお母さんがらくがきのことで言い争いをしている。
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以上、必要ないパートが終了した訳だが、もちろん「徐々に消えていく」というのは「その頻度が少なくなってくる」ということに他ならない。
しかしながら、幼少のころのらくがきを署名として考えると、それはそもそもちゃんと署名されているのか、と思えるようなエントロピーの大きさだ。
それは例えば「大ファンの俳優のサインをもらったところ、サインという概念を越えて、字が汚かった」というような感じに似ているだろうか。
この教科書、本当に僕の?。
大ファンの人、本当にこんな字なの?。
そう考えると、人が「絵のうまい人」に憧れる理由というのが分かる。
あれは完璧な署名なわけだ。
絵の内容がうまいことで、法、実質的に見ても遜色ないことになっている。
それで所有できるものは紙一枚ということなのかもしれない。
しかし、そもそも僕らは紙一枚だって所有しきれているのだろうかという気もする訳で、長くなったので言いたいことを簡潔にまとめると、僕は絵がへたなのです。