三羽がらす

三羽がらすの意味がわからないから、褒めてるのかどうかがわからない。
それは芸能界など、ある分野で有望視されている上位3人を示す言葉だったか。
しかし現在、その言い回し自体が聞かれず、しかもからすがそれほど良い印象を持っているわけではないことも手伝ってか。
たとえ「彼らが歌謡曲界での三羽がらすです」と聞いたとしても、電線にからすが3羽とまっている感じくらいしかとらえられないのだ。
確か、じゃんけん娘というのがあった。
これは三羽がらすと同じ意味で、当時ぐいぐい言っていた娘3人をまとめてそう呼んだのだろう。
本人たちはいやだったのではないだろうか。
愛称とはいえ、あまりにぞんざいだからだ。
三羽がらすだってそうだ。
何かわからないが、からす3羽でまとめられてしまったと思うだろう。
考えてみると、3でどうこうというのは昔からある。
三銃士。
北欧の神話には運命を司る3姉妹がいる。
妖怪としてのかまいたちは、突撃するやつと傷をつけるやつ、そして薬を塗るやつと、3人が一組だ。
どうも3というのはひとまとまりの最小単位のようなイメージが、昔のヒトにはあったようだ。
考えようによっては、三銃士は別に八銃士であってもよくて、策士や八兵衛枠も取り入れるとなかなか頼もしい連中になったはずだが、三銃士たる役割を果たせる最小単位は3人だったのだ。
かまいたちだって、他に「かまを研ぐやつ」「女形」「ムードメーカー」「トリックスター」などがいてもよさそうだが、かまいたちの機能を最小人数でやりくりすると3匹になるわけだ。
そして最小単位であるが故、そのひとつひとつの密度は濃い。
そんななかでの三羽がらす。
濃いからすって何だ。
せめてからす、わし、すずめとかなら一長一短があってドラマチックだったのかもしれないが、とにかく1?3までからすである。
有望視される3人がからす×3で表現できてしまうのは、ずいぶん寂しい感じのするわけで。

適切説明

「あれは、どんな調理法ですか?」
いいえ。あれは調理ではなく、サウナです。
「あれは、鬼太郎の指鉄砲の痕跡ですか?」
いいえ。あれは指鉄砲の痕跡ではなく、指サックです。
「あれは、キッチンドランカーですか?」
いいえ。あれはキッチンドランカーではなく、味見です。
「あれは、忍者ですか?」
いいえ。あれは忍者ではなく、催し物です。
「あれは、侍ですか?」
いいえ。あれは侍ではなく、長七郎江戸日記です。
「あれは、以心伝心ですか?」
いいえ。あれは以心伝心ではなく、様子見です。
「あれは、択捉島ですか?」
いいえ。あれは択捉島ではなく、水戸泉です。
「あれは、サボタージュですか?」
いいえ。あれはサボタージュではなく、療養です。
「あれは、つなみですか?」
いいえ。あれもつなみではなく、水戸泉です。

タブレット

なぜかは分からないが、この日と11月の29日。
何も書いてなかった。
今が2011年の9月だから、一見この日へさかのぼって何か書くというのは意味をなさない。
その一見、正解。
うちにはタブレットがあるのだが、これほど置き場所に困るものはあまりないのではないだろうか。
薄いが広々としている。
結構重い。
そして上に物を置いてはいけなそうだから、仕方なく机の横に立てかけているのだが、これも正解かは不明。
いつか、タッチペンも当ててないのに「たすけて」というイメージを、レイヤー2あたりに出力されやしまいかと戦々恐々である。
紙は、ものを末永く伝えるために開発された。
ほぼ同じ機能を持つだろうタブレットとそれが決定的に違うのは、ソフトとハードということだけではない。
同じものをどのくらい繰り返し使えるか。
これもだいぶ違う。
例えば紙は、消しゴムなどを用いて繰り返し使うことができる。
だが、その耐久性から考えると、限界というものがある。
それに繰り返しとは言っても、伝えられる情報の上限もある。
一方タブレットは、だいぶ繰り返せる。
紙をたくさん使わなくていいし、パソコンなどをよく使う人にとっては紙より都合もいい。
ただ、手軽さについては紙にも分がある。
ぱっと手渡しできたりするから。
タブレットでそれを実現しようとすると、ちょっとコストパフォーマンスがたいへん。
そしてもはや、それはタブレットではない。
人は、それを彫刻と呼ぶだろう。

ダウザーズ・ハイ

くるりと逃げたストローの先が異性に向かっていたとしても、それが金脈水脈である保証はどこにもないのであるが、それにしても「ストローをくわえようとした人の顔」はなんだか面白い。
それは本人もわかっていることで、見られてしまった事に気づくと恥ずかしい表情になるはずだ。
そこで毅然とした態度なんかをとられたりすると、そんなストローで毅然とされてもという気になる。
あるいはストローの先が逃げたことが引き金の事件、そのトラウマか何かがあるのかなと思う。
ある意味、せっかくストローの先は逃げてくれたのだから、礼儀としても「口を開けながらそれを追い続ける」しぐさはやっておきたい。
見た目の「ストローを使いこなせていない感じ」が面白いから。
「面白さとは差別のことである」
そう昔から言われているらしいが、ストローのくだんはまさにこれにあたる。
だからストローを逃がそうと、開けた口からそっと息を吹き続けることを悟られては、絶対にならない。

くじらについて2。

昨日からのつづき。
【あらすじ】
たいやき、へそまんじゅう、ねこじゃらし。
これに対して「くじらやき」「くじらまんじゅう」「くじらじゃらし」は何なんだろうか。
=====
くじらやき。
おそらくくじらの肉を焼いた料理だろう。
団塊の世代が「なつかしいなあ」という。
くじらまんじゅう。
おそらくくじらで有名な町で生産されるおみやげ品で、大きい。
くじらの形は、していないと思われる。
くじらじゃらし。
おそらくくじらの目の前を泳ぐ小さな魚のこと。
大きなくじらの前には誰も行きたがらないので、天敵に襲われないというメリットがある。
その事を知らないと、いつもくじらに追われているかわいそうな魚として見える。
まごのて。
背中をかく。
くじらのて。
実現しないことを表すことば。
「彼の身だしなみがきちんとしていることは、くじらのてを見つけるようなものだ」
まごのくじら。
自分の息子、娘が先見性の持ち主で、その子供にくじらと名付けた場合のこと。
あるいはおじいさんくじらから見て孫にあたるくじらのこと。
たこのまくら。
棘皮動物で、うにの仲間。
くじらのまくら。
内蔵されたスピーカーからくじらの鳴き声が聞こえるまくら。
よく眠れるというふれこみだが、うるさい。
たこのくじら。
たこが所有するくじらのこと。
例が少ない。
おおいぬのふぐり。
春先にかわいらしい青の花を咲かせる植物。
「おお」が「いぬ」にかかっているのか「ふぐり」にかかっているのかは不明。
「いぬのふぐり」にかかっているのは、夢がないともっぱら不評。
くじらのふぐり。
滋養強壮に効くとされるが、入手困難。
そもそも効果なしであるとも言われている。
あるいはある疾患に侵されてしまった人における症状の一つを指す。
昔はたいへんそうだった。
おおいぬのくじら。
これで「おお」というものが「いぬ」にかかっていることが判明。
しかもくじらを所有できるところを見ると、思いのほか大きいこともわかる。
以上。

くじらについて。

「くじらのつまようじ」とくれば「さけとば」のことなのである。
今勝手に考えたのである。
何かそこそこ大きくて固くて長いため、下ネタに走らずこのような命名をしてみた。
このように何かに例えた商品名、あるいは和名というものは数多い。
たいやきという物がある。
鯛の形状をしている。
へそまんじゅう。
これはどうやら、へそのようなへこみがあるから。
ねこじゃらし。
これはそのまま。
しかしこの手のものは、商品名作製に手を抜いていると思われても仕方がない気もする。
僕は、手を抜いているのを、見ている分には大好きである。
ここでは、とにかくいろいろなものを何かに紐づけてみる。
ちょうどさきほど「くじら」が出てきたので、それを用いてみよう。
たいやき。
これは「くじら」にとって何なのだろうか。
いきなり難しい。
「くじらの稚魚」はどうだろう。
「くじらの稚魚」とくれば「たいやき」のことなのである。
ここで賢い子供が、くじらは魚でないことを挙げ、家族間に会話が発生、円満になるのである。
へそまんじゅう。
どうもさきほど思いついた「手を抜いているんじゃない?」モノは、あんこが深く関わっていることが判明した。
「くじらのへそ(原寸大)」はどうだろう。
「くじらのへそ(原寸大)」とくれば「へそまんじゅう」のことなのである。
「原寸大」という言葉のリアリズムといったら!!。
ねこじゃらし。
これは「くじらの産毛」が正解ではないだろうか。
「くじらの産毛」とくれば「ねこじゃらし」のことなのである。
くじらの背中を草原に見たてるなんて、ファンタジーじゃないですか。
こうなってくると、単に「くじらの○○」で表すことが面白くなってくる。
「くじらの八重歯」とくれば「三角コーン」だろうし、「くじらの背もたれ」とくれば「飛騨山脈」、「くじらの草野球」とくれば「日本シリーズ」であり、「くじらのキャメルクラッチ」とくれば「水爆」だろう。
「くじらの立ち読み」とくれば「本屋を恐怖のどん底に突き落とす万引き集団K」とかだろうし、「くじらの音読」ならば「空港近辺の騒音」だろう。
だろう、ってのものないですが。
ちなみに冒頭。
下ネタに走った場合、まずは「○○のミイラ」になることうけあいである。
次回。
逆に「くじらやき」「くじらまんじゅう」「くじらじゃらし」とは何かを、なんでくじらを例にしたのかと自分を呪いながら考察。

鳥丼

先日、お昼ご飯に鳥丼というものを注文した。
旨味がありとてもおいしかったのだが、とにかくすごいのが歯ごたえだった。
ごりごりごり。
ゴムなのである。
あごが疲れるのである。
もちろん本当にゴムなのだったら、無味もしくは不味であるため、歯ごたえを感じる前に心ごたえを感じるはずだ。
結果、吐き出してしまえばよい。
しかしそのゴムは、やたらといい味を出力してくる。
困ったものである。
いよいよ口を開けるのも辛くなってきた頃、ようやく食べ終えた。
地鶏というものがどういったものかは知らないが、なんかとにかく元気だったんだなと感じる。
それをこう、おいしくいただき、しあわせだなあ、と。
あれ、さらにデザートが出てくるんですかそうですか。
それにしても食事というのは、噛むことだということをあらためて認識させられた気がするな。
・・・
お昼休みが超オーバーである。

ひねるな

カニバリズムとすねかじりをひねった話は多い。
落語だったか。
この考え方でいうと、「ほぞをかむ」は何リズムが当てはまるのだろう。
それは「でべそ至上主義」だ。
でべそ至上主義とほぞをかむをひねった話はあまり聞かない。
「でべそ至上主義が広まらないよ?」

「なんで主張者の俺はでべそで生まれてこなかったんだ」

「後悔」

「ほぞをかむ」
僕はでべそに対して、何ら優劣の印象を持たない。
それはそもそも見た事ないからかもしれないし、原初的にどうでもよくない?という考えがあるからかもしれない。
それでもでべそについて一般的なイメージがあるところを見ると、原因は漫画の1コマか何かだろう。
それは明らかに、へそと思われる部分がでっぱっており、子供ながら奇妙に見えた。
しかしぎりぎり「いちじく?」と思わせる何かは、実際に見ていなかったでべその代替として、十分だった。
ほぼびわだったそれは、場合によっては命の危険もある病気である。
しかし、漫画がブラックジャックじゃなかったためか、でべそは単におとぼけキャラを引き立てる秀逸パーツだったのだ。
ここまでむりくり考えて、どうにか「でべそ至上主義」という言葉に懐古という意味を持たせる事ができた気がする。
だがその瞬間、結局でべそはどうでもよくなり、「懐古至上主義」のようなものになってしまうのだった。
懐古至上主義と養蚕をひねった話を聴いた事があるとしても、基本スルーの予定。

ここどこ

人間の面白さとは、移動距離に比例する。
そんなことを書いた本があったように思う。
異論はないが、その質にも注目したいところ。
人生の総移動距離の大半がルーチンな行動によるものだったら、それを随時加算してもよいか。
よくない。
見飽きた風景のなかの通勤通学は、それほど濃厚でない。
それを目指すなら、けっこう神経を澄まし続ける必要がある。
一方で「総移動距離の大半を反復横跳びに費やしました」だと、これはかなり面白い。
彼の通った学校の体育館は床を補修している。
ところでそうなると、ルーチンじゃない行動というのはどうすればいいのだろうか。
旅行してみる。
いつもとは違う駅で降りてみる。
電柱に番号をふってみる。
いずれも新鮮さというものがひとつのキーワードになっている。
しかし、僕はこれらがルーチンじゃないとは、どうしても思えない。
旅行してみる。
どこに旅行したかは、たいがいの人は分かってしまっているのだ。
新鮮じゃない。
いつもとは違う駅で降りてみる。
これもしかり。
電柱に番号をふってみる。
思うに、既にふられている。
空港についたとたんに全身剛毛になるとか、駅から出ると無重力とか、電柱のかわりに中学生が電線を持っているとか、そんな非日常は得られない。
「ここどこ?」という気分すら味わえないだろう。
せいぜい「ウズベキスタンだけれど、これからどうしようか」ぐらいだ。
「何かは分かっちゃってる」のであり、それは新鮮さは薄く。
こんなときは、久しぶりなRPGを一本引っ張りだすのがいいかもしれない。
少々のデータロード後、すぐさま「ここどこ?」を体感できる。
どこにラスボスがいるのか。
そもそもどうやったらそこまで行けるのか。
ストーリー上、ここはどこだ。
飛空挺、どこ。
ゲームの定石も覚えてないから、かなりちぐはぐな行動しかできないはずだ。
それは面白いか。
もちろん面白くないのである。

折り紙

折り紙の本が、すべて文章で構成されていたらどうだろう。
図解なら明快な「折り鶴」も、文章ではわかりずらく、読み解く意思も薄れていくだろう。
どこをどのくらい折るかでも、もう読み疲れてしまうだろうから。
ということで「文章のみの折り紙の本」で重要なのは、ひとときの休息を与えてくれるだろう「コラム」。
折り紙に関するコラム。
それはおそらく数十ページ毎ごとに現れ、メンタルローテーションでへばった読者をやさしくいたわってくれるはずだ。
「折り紙の歴史」
これは外せない。
折り紙はエジプトで誕生した。
ミイラをどのように包むかを純化、作法として確立したダプト氏が発案者とされます。
包ませたら一番と名高い氏は晩年、「ダプト式低露出法」を発明。
これがほぼ「かぶとむし」の折り方であるため、折り紙通は「かぶとむし」を「ダプト」と呼んだりします。
あなたもこの本を読んで、かぶとむしのことをダプトと呼べるようになりましょう。
こんなコラム。
「折り紙発!! 事件あらかると」
メモ帳に折り紙を折った跡!!
妻の知らなかった折れスジから、浮気が発覚!!
夫、折り合いをつけるため、妻に折れた!!
世界最古の折り紙の本が、折られちゃった大事件!!
科学分野だけじゃない折り紙の発想!!
折り鶴をほぐしてまた折り鶴を作ることによる、秀逸ひまつぶし1選!!
こんなコラムも。
そして文章のみの折り紙本に色を付ける、抱腹絶倒折り紙話。
合コンで、伝えたいことをメモに書いて、それを「せみ」で。
昔のトイレットペーパー風に、折り紙を置くことでトイレタイムも充実する。
遊んだ折り目のせいで、カルテ開示に踏み出せない。
紙飛行機にした離婚届が、すっと窓口へ。
どう開けようとしてもお札が破けてしまうような、祝儀袋の包み方。
迷惑だなコラム。
しかも気になるのは、そもそも折り紙に抱腹絶倒を求めているのかという点だ。
図があったって、そうそう折り紙で抱腹絶倒にはならない。
「たのしいおりがみ」
もくじ
1 いのち の折り方
2 まえばり の折り方
3 ひつぎ の折り方
4 はるさめ の折り方
5 てにもつ の折り方
このくらいで、ちょい気になるくらいだ。