「大器晩成」という言葉はけっこうおもしろいのではないだろうか。
「わたしは大器晩成型です」
どうだろう。
あやしいのではないだろうか。
本当に「大器晩成」なのかどうかは、正直「わたし」なる人物が死ぬ直前までわからないのではないだろうか。
一見、着々と力をつけているように見えたとしても、それはあくまで「大器晩成っぽい」「大器晩成ふう」である。
たとえばそんな力をつけてきた人が突然、唐草模様のふろしきをマント代わりにしてデパ地下を暴れ回ったあげく、頓死してしまったとする。
彼を「大器晩成」と言えるだろうかいいや言えまい。
大器晩成というのは、一般的には寿命ぎりぎりまでチェックが入るものなのであり、その結果がどうにも不明である分、あやしいのである。
ただ、その展開が早くおとずれることも、あることはあるだろう。
「わたしは大器晩成型です。え、遠い親戚が莫大な遺産を、わたし名指しで?」
こうもなると、「わたし」は大器晩成の大器晩成たる何かを成すこともできそうだ。
しかし一方で、晩成というところを真に受けてしまうと、もう余命幾ばくもない感じもし、生き急ぐなよと言いたくなる。
「わたしは大器晩成型でした」
上記のあやしまれる点を払拭している。
しかし、こう返されてはもう立ち直れないだろう。
「え、今のおまえが?」
また、やはり生き急いでいる、あるいはもう燃え尽きている感もあるため、こうは言いたくないものである。
本来はイケてる意味なのだろうが一般的に、「大器晩成」というのはちょっと今はだめだよね、を遠回しに言うときに用いられている。
「おまえって、大器晩成型だから」
こう言われた時点で、「おまえ」は現状いまいちであると認識させられる事と、すぐさま「それって今はだめってことじゃんよ?」とちゃらけて言う事を強いられなければならない。
大器晩成ということばの威厳を保つためには、以下のような用法を行うべきだ。
「5年くくりで、わたしは大器晩成型です」
昨日今日が「大器晩成ふう」でも、とりあえず結果だけでも分かりそうなので安心なわけだ。
保証もついているのだろうし。
ただし、おじいちゃんがこう言ったとしたら、どうにもあやしいだろう。
「わたしは大器晩成型です」
おじいちゃんはこれでいい。
ちなみに「大器晩成」の意味を調べてみると、今回の解釈に必ずしも誤りがないとは言えないことに気づく。
それでもなお今回の内容。
当方大器に至らず。
カテゴリー: 雑文
なめくじ
なめくじに「かかと」があるのか、ということは全然考えていなかったが、なめくじの話だ。
なんとなくだが「かかと」がしっぽの部分だとしたら、かかとかさかさななめくじは進む事ができないだろう。
小さい頃、なめくじの通ったあとの粘液を見て心配だったのは「あのねばねばは、なめくじのかけらみたいなものであって、進めば進むほどなめくじは削れて小さくなってしまうのではないか」ということだった。
進めば進むほど小さくなるなめくじを想像して、幼いながらに消費社会におけるある種の顛末を見せられたような気がしたものだ。
うそである。
僕がむしろ心配していたのは「進んでいるなめくじのすぐ後ろを進んでくるなめくじは、どんどん大きくなるのではないか」というものだった。
例の粘液を吸収していき、巨大化する。
雨の日、塀をF1っぽく相手の後ろをとりまくるなめくじたちを想像し、ある日ぼたりと夏みかん大のなめくじがいたらどうしようなどと考えたものだ。
そこまで巨大化するのは大変だったろう。
こう道ばたに落ちているのも、あまりに体が大きく、重くなりすぎて塀にへばりつけなくなったがためだ。
なんとなく垢擦りで垢がこんなにとれました、というのを思い出しながら、僕はそんななめくじを見たときのために、驚くシミュレーションなんかをしていた。
うそである。
僕は昔から、なめくじに対してなんら感情を持ち合わせてはいなかった。
まあ、気持ち悪かった。
かたつむりほどに持つところもなく、分泌系で、何より「つー」と進むのだ。
「つー」と音を出して進んでるようにすら見えた。
そしてなにより、これ以上に決定的な何かが僕となめくじのあいだには起こらなかった。
サンドイッチのなかに入っていたとか、額を這われたとか、あるいは逆に卒業式の日に塀に「おめでとう」となめくじで書かれていたとか、なめくじをいじめようと探していたら「しおやめて」となめくじで書かれていたとか。
こんなにも何も起きないかね、なめくじとは。
決定的な何かが、僕らには起こらなかったのである。
なのになぜ今回、なめくじなのか。
それは例の、かかとってくだりが、さ。
黒洞々
「暗がりから牛」ということわざがある。
暗がりから牛が出てきても、暗がりだからよくわからない。
そもそも牛がいたのかもわからなかった。
区別がつかない、という意味だったように思う。
あと動作がのろいという、あんまりな意味もあったか。
とにかく、この時点でかなり何なのだ。
牛でなくてもいいのだ。
犬でも猫でも、人だっていい。
その時点でわかってなくったっていい。
「暗がりから何か」
なんやことわざができたときですら、それが何か区別つかなかったんか。
それはまさに「区別がつかない」という意味そのものであり、より端麗だ。
しかしこのことわざで僕が気になるのは、「暗がりから牛、なんか怖い」ということだ。
けっこう、ホラーじみているような感じがする。
一時期このことわざの意味は「怖いこと」だと思っていた事があるくらいだ。
となると、ここでも問題になるのが「牛でなくてもいい」というもの。
それこそ先ほどの「暗がりから何か」は、かなり怖い。
一方、怖い方面で考えると犬、猫、人はちょっと牛には劣る。
「暗がりから白い手」なんてのはもう悪意がある。
手の方に悪意があり、たいへん怖い。
ゆるせない。
白い手ゆるせない。
でも、その白い手が缶ビールを持っていたりすると事態は少しだけ変わる。
最終的には怖いが、その前にいろいろ考えるはずだ。
プルトップが開けられていたら乾杯を要求しているのかもしれない。
ほんの少しだけ斜めに持っていたらCMかもしれない。
僕が思うに、冷えてない缶ビールだったら、怖さは白い手ノーマルのときよりも倍増する。
「乾杯をしようとする残留思念。もう時間が経ちすぎて、ビールも冷えていないというのに」
こう感じるからだ。
白い手以外で「暗がりから何か」を考えると、正直たいがいのものは怖い。
怖くないものなんてないくらいだ。
ただ、ひとつここで何か挙げてとなると、今のところ僕は「暗がりからドアノブ」と答えるだろうか。
北海道旅行7
小樽を雨のなか、歩く。
とにかく寒い、鞄のぬれるのが残念だ。
蝉の声、ない。
舞う木の葉、ない。
白く染める雪、ない。
ぽかぽか陽気、ない。
雨のときは、何もない方がいい。
鞄もないほうがよかった。
お土産に魚介類を買う予定である。
しかし小樽には鮮魚売り場が思っていたよりもなさそうだ。
そうそうに売り場探しを切り上げ、前もって探し見つけていたところでいくらやかにを買う。
あさって発送してもらうことにする。
おまけに塩辛とメロン飴をつけてもらう。
今日は早朝に市場探し、今まで鮮魚売り場探しで体力を摩耗した。
コーヒーが飲みたくなったので喫茶店に入る。
ケーキセットが500円とは安い。
しかし僕は干しぶどうが嫌いだ。
そう、確かパウンドケーキだったか。
ドライフルーツが混み混みなのである。
ドライフルーツは「なんでフレッシュだった果物をこんなに乾燥させてしまっているのか」といつも思わせる。
そして「サクッ」でも「ジュワッ」でもなく「もにゅっ」なのだ。
何かの幼虫を食べたらこんな感触なんだろうなと考えてしまうと、もう喉を通らない。
喉自体が自律して「あ、こいつ飲み込んじゃまずい」と動いているみたいだ。
無傷で嚥下されたドライフルーツは消化前の短い時間で水気を得て、はれてフルーツになれているだろうか。
パウンドケーキから除外されたドライフルーツたちが、フルーツになるために皿の上で待っている。
それを店のおばさんが、見ている。
かっこむと、もういい時間。
冬の日本海を眺めながら、空港まで2時間弱かかるだろう電車の旅である。
目の前の海が日本海なのかどうなのかは知らないが、冬の日本海というだけで、より風景に味の増す気がする。
歌謡曲による積年の情報操作の賜物だろうか。
空港では疲れきった面々がさつま揚げなどを食べて時間をつぶしている。
異様である。
飛行機は何回乗ったとしても、離陸のときの加速っぷりが怖い。
何かあるんじゃないかと心配になってしまう。
今回も窓側の席を獲得していた。
翼にマクレーン刑事がしがみついていたりしないだろうな。
そう、少し前に「飛行機に何がついていたらいやか」というのを思いついた。
ガムテープや田楽みそなどもあったが、やはりマクレーン刑事だ。
飛行機にマクレーン刑事はいやだ。
絶対墜落するような気がする。
1?4による積年の情報操作の賜物だろうか。
北海道旅行6
札幌駅から小樽までは、直通の路線で50分くらい。
切符売り場でずいぶんおろおろしてしまったが、どうにかそれらしき切符を購入、電車に乗る事ができた。
乗客はそれほどいない。
混んでいるかもと指定席を選択しなくて正解だ。
電車でそとの風景を眺めるのは楽しい。
それが座ってながらだったらなおさらだし、初めての風景だったら、なおさらだ。
天気は雨。
しかしうたた寝することなくずっと風景を眺めていた。
くもり空をそのまま地上に降ろしたかのような町の色は単調な分、なんだか目を離させない要素があるみたいだ。
途中、かなり寂しい風景が続く。
線路沿いにある民家のなかの廃屋が、なぜか残像に残る。
それでも小樽に近づいてくると、建物が増えてきた。
雨である。
目的地についたものの、用がない。
まずはお土産でもみつくろうかと鮮魚売り場を探しまわるが、昨日行かなかった方面を合わせてもそんなにない。
ということで昼ご飯を。
大きな十字路に面した天丼屋に入る。
僕は天丼が好きだ。
特にたれのかかったコロモが好きだ。
いったん天ぷらを身とコロモに分けて、身を先に食べて楽しみをあとに取っておくくらいだから、我ながら徹底している。
しかしコロモはほぼアブラだ。
何か体には良くない気がする。
そんなことを知らないだろう、店主が僕の前に天丼をよこす。
ほたてやかにの爪まで入っていておいしそうだ。
僕はかにの爪が好きだ。
かに自体には悪いが、あの爪で遊ぶのが楽しいし、ある意味それは礼儀であるとも考えている。
しかしかにの爪で遊ぶのはほぼ子供だ。
大人がかにの爪で遊ぶのは、それは「かにの爪で遊ぶ」ではなく「かにの爪で遊ぶ自分を演出する」ということのような気がする。
三島由紀夫はかにの見た目が大嫌いだった。
彼は、かにの爪で遊んだ事はあっただろうか。
それともかにの爪で遊んでいるのを誰かに見られた事があっただろうか。
北海道旅行5
午前2時に起こされて飲み、結果的に北海道旅行最終日は朝寝坊で始まった。
ちなみにわざわざ「午前2時」と書いているのは、そんな時間にも呼び出されてしまうほど人から好かれている、あるいはおもろい話ができるという、そのことを表現しようとした結果であるが、どうもそうではないことが判明しているため、その分余計に「起こされちゃったよ?」を出していき、心の傷を深めてみたい。
ともかく朝寝坊である。
友人はもうどこに行くのか決めているらしく、その段取りも進行中のようだ。
それに、朝寝坊の僕は乗車できない。
前日聞いたところによると、札幌駅付近に「市場」があるという。
場所はちゃんと聞かなかったが、タワー付近であるとのこと。
探せばわかるだろう。
ひとりで行ってみようか。
それにしても「市場」というものをどうとらえるか、人によってかなり違う。
僕はとにかく威勢のいいお兄ちゃんにカラまれたりするんじゃないかと心配になる。
何かを大声で叫びながら。
そして風貌にてどうにか魚屋さんであること、そして魚が安い旨を連呼していることが分かるのだ。
誰か特定の人に対して言っている訳ではないだろう。
しかしそんな人にぐいぐい来られては鮮魚のひとつくらいは、ほいほいしてしまうだろう。
今なんとなく「ほいほいしてしまう」と書いたが、何となく「流れに逆らえず買ってしまう」というニュアンスはよく出ていると思う。
僕はニュアンスが好きだ。
「はらみ オン」
これだけで「人数分ハラミを金網の上に置いて、それをうまいことあしらっておいてくれ」がよく出ていると思う。
市場が見つからなかった。
市場を探してタワー付近をさらって見たが、その市場が見つからなかった。
先ほど市場が、どちらかというと苦手であることを書いたが、そんな僕がどうして市場を探したかというと、主に理由が3つある。
1 飛行機の時間まで暇
2 土産を買っていない
3 珍しい食材をみたい
市場が見つかれば、この3つの話題ができたものを。
いかんせん市場が見つからなかったのである。
朝寝坊をし、旅行のプランもなく、土地勘もない。
例の、午前2時に起こされちゃったわけだし。
僕は昨日車で行った小樽へ、今度は電車で行ってみる事にした。
北海道旅行4
手渡された紙袋に「きのこ」の付箋。
出来上がった手作りオルゴールを乾燥、包んでもらうためには数十分かかるという。
小樽の観光街で暇をつぶして、再度オルゴール店に来たのだ。
そこにはきちんと包まれた4つの紙袋。
自分の自作オルゴールがどれかは、一見わからない。
そこで付箋である。
お店の人がその袋の中身を表すための付箋を貼っていてくれたのだ。
僕は「きのこ」。
非常に端的で、かつ美しく僕のオルゴールを表現してくれた店員さんのセンスに、僕は感動した。
そう僕のオルゴールのデコレーションコンセプトは「きのこ」。
1つ150円くらいする「きのこ」のガラス細工を密にちりばめたのだった。
赤を多めに、要所要所に青、黄を配置。
オルゴール上に20個くらいの群生ができた。
手痛い出費。
病的なきのこの閉密さ。小雨、尖閣問題。
しかしいい物ができた。
やはり「きのこ」は群生しているさまがいい。
小さい頃からけっこうきのこには興味があった。
けれどそれはそこらに生えているのを分別して食べようという考えからではなく、例えば図鑑を見ていて、あるきのこ欄の「赤どくろマーク、赤字の猛毒」に興味があった。
その詳細な症状を見ながら、これを猛毒であると示した人はどんな人なんだろうと考える。
鮮明なきのこの写真。
そして「幻覚」の二文字。
よく見ていた図鑑には、実際の幻覚症状も書かれていたりして、子供ながらにそのあやしい世界を想像するのが楽しかった。
さらにきのこはたくさんの種類がある。
猛毒のきのこに似ている、食用きのこというのもあった。
似ていたのに食べた人はどんな人なんだろう。
おいしいきのこ、まずいきのこ。
食された例がないきのこ、環境によって全然見た目が違うようになるきのこ。
一夜のうちに突然現れるきのこ、光るきのこ、ガスを出すきのこ。
そのほとんどに毒性と食用に向くかどうかがあって、きのこ図鑑を見ているだけで昆虫採集コンプリートな気分を味わえたものだ。
しかしきのこの「ひだ」に虫がいっぱいいるのを見たことがあり、また素人目での野きのこハンティングはたいそう難しいそうなので、僕のきのこ摂取はもっぱら干し椎茸であり、僕自身もそれでよしとしている。
150円のきのこたちは見た目、鮮やかすぎて毒きのこだ。
しかし安心。
こいつらは食される事なく、ゆっくりと回転しながら曲を奏でることが存在意義だから。
曲は「となりのトトロ」。
きのこコンセプトが先だったので「きのこ」に合う曲を探すのが大変だったが、トトロなら安心だ。
北海道旅行3
レンタカーを借りて、小樽へ。
手作りオルゴールを作るのだそうだ。
小樽とオルゴールの関係はよくわからないが、そんなことよりも運転が心配である。
知らない車を運転して知らない道をゆくのは、けっこう怖い。
知らない車といっても、それはブレーキとアクセルがありハンドルがありと、知っている車と似ている箇所もある。
しかしアクセルの敏感さ、ブレーキの効き具合、車体の大きさなど、違う点も多い。
近い将来、うちの車の化石とこのレンタカーの化石を見た学者は、違う種類に分類するだろう。
こないだも似た事を書いたような気がする。
小樽へはまだ時間がある。
不慣れなカーを乗り転がして向かったのが「鰊御殿」という場所だった。
観光名所となってはいたが時期が微妙なのか、恐ろしく荒涼としている。
何もかもがくすんだ色に、静かに染まっているように見える。
お土産屋さんも、見下ろした先の水族館も。
岬の末端にあるその建物周辺には、自殺者をそれほど真剣に遮らなさそうな遮り。
その向こうには、いい崖。群青。封鎖された灯台。
エンジン音を聞いて表に現れるお店のおばさんを、ひどく錆び付いた手すりに覆われた水族館を見て何も感じない訳ではないが、その多くは今が午前9時という、少々はりきり観光客の自分が原因であるわけで、むしろそのように考える事とした。
小樽付近に来ると、何やら日本らしくない作りの建物が目をひく。
小樽はそういうものなのだそうだ。
小樽運河という美しい場所があり、そこで運河が写らないくらいの大人数の人が記念写真を撮っている。
小樽はそういうものなのだそうだ。
どこかで小樽と関係があるのだろう。
ガラス細工の店が軒を連ねるなか、目的のオルゴール店を探しつつ歩く。
小樽港というものがあるくらいだから、すごく海産物がたくさんあるのだろうと思っていたけど、場所が違ったのか、そこはおしゃれさんと観光客くらいしか来なさそうな店ばかりなのである。
僕らは他の観光客に混じり、けどそれほど店をひやかすこともなく、目的地のオルゴール作り店に到着する。
全くそのシステムのことを考えていなかったが、どうやら既に完成しているオルゴールにデコレートを施すらしい。
黄色く美しいビーズが、かずのこに見えてきた。
北海道旅行2
何の予定も立てていない旅行だった。
ホテルであわてて探した興味ある場所は、バカリズムでいうところの現在地:右手と目的地:左手で、期間内に行けるようなところではなかった。
これでは2日間、近くの本屋だけが目的地になりそうだ。
しかしいつものように、腹は減る。
とりあえず出歩く分には、いいきっかけになる。
しかし出歩くには、他にもいろいろなきっかけがある。
例の、クラーク博士像のまねをした人たちが笑っている。
そんな有名スポットで目の当たりにしたのは、「好きです sapporo」と書かれた丸い看板だ。
さまざまなところにあるその看板は、ちょうどクラーク博士が指差した先にもあり、単純におもろいながらも博士が事実そう思っていたことを願わずにはいられない。
=====
今日は楽しかったよ、本当に。
で、ほら。
そのコースターの裏を見てくれないか。
いいから。
見た?。
それが僕の本心だよ。
=====
願わずにはいられない。
そしてシーズンオフな観光地特有の感じ。
のんびりとは少し違う、「活気あるときとないときがあって、今はないときです」みたいな感じ。
女子学生の集団が展望台に現れても、それを払拭する事はできなかった。
僕らはここをあとにする。
女子学生の誰かがいたずらで、クラーク博士像にミサンガをつけてくれないかななどと考えながら、バスに乗り込んだ。
北海道旅行1
始発だというのに、思いのほか乗客が多い。
それでも空席の目立つ車両で、僕はPSPで眠気を殺す。
周りが明るく照らされ始めたころ。
駅のホームで体操をしているおばさんを見かける。
モノレールから眺める海は朝日で輝き、それが風でうごめくものだから全く飽きない。
ずっとそれを見ていたら、ある本に「日の出と日の入りの映像は、違いがわからない」と書いてあったことを思い出した。
確かにそうかもしれないと、今が早朝である事をつとめて忘れ、その上でモノレールからの風景を見ようとした。
しかしどうしても早朝だった。
車内のけだるさがそうさせるのだった。
北海道旅行である。
何らかの裏取引を成立させ、飛行機の窓側に陣取った僕はその2時間後、タクシーで13000円ほど払う事になる。
あほである。
普段タクシーを使わないので、相場が全くわからなかった。
新千歳空港から札幌まで、そのくらいかかったのである。
高速みたいな道路にタクシーが入ったとき、僕は覚悟を決める。
俺は、北海道のタクシーのいいお客さんになってしまったよ。
タクシーは、こんなにお金がかかるのかい運転手さんや。
俺は、北海道のタクシーのいいお客さんになってしまったよ。
仕方がないので、僕は昆虫図鑑アプリを閲覧、ゲンゴロウが北海道にも生息しているらしいことを知った。
ゲンゴロウ。
同乗者はぱっとその姿を思い出せなかった。
それもそうだ。
現在「だいぶ少なくなったよね」具合を、環境省が太鼓判を押している。
なんか文章が変だが、仕方ない。
いいお客さんになったんだもの。
そういえば昔、僕はこのゲンゴロウを飼っていたことがある。
北海道旅行である。