仕事を終え、帰宅する。
電車は混んでるけど、その人の数の割には、静か。
みんな誰とも視線を合わせないように、それをもてあましてる。
みんな誰とも接触を持たないように、肌が緊張している。
そしてみんな、遠い昔のことを考えているみたいな顔をしている。
どうやら、電車の中は何か、忘れてきたものを思い出そうとしている人で、いっぱいだ。
かすかに残った思い出。
着色しなくちゃ、忘れてしまう。
遠い昔、誰かと約束を交わしたような気がする。
私は、その約束をちゃんと果たしたかな。
思い出が思い出せなくなったら、どんなに悲しいだろう。
忘れちゃいけないことを忘れたら、どんなに悲しいだろう。
でも、忘れてしまった。
だから、そのものはないのに、悲しさだけが残留する。
思い出そうとして得られるのは、その思い出がいかに忘れちゃいけないものだったかを示す、悲しさだけなんだ。
忘れちゃいけないことまで、人は忘れる。
僕も?。
忘れられる?。
いや、まだ大丈夫だ。
まだ悲しくないし、なによりも、この痣が痛む。
まだ、忘れるわけにはいかないことを、この痣は示しているんだ。
ということで僕は、ガンシューティングゲーム「ザ・ハウス・オブ・ザ・デッド4」を遊んだあと、なぜか足にたくさん痣ができていたという謎現象を、忘れずブログに書くことができたのだ。
カテゴリー: 汎用性より低い
そうさこれが僕らの弱点 2
きのうから。
【あらすじ】
学校で過ごした時代は、過去であるにもかかわらず、その存在は多くの人間にとってあまりに大きく、その後も影響を与え続ける。
そしてそれは、ある意味「弱点」と言える。
なんでこんなに影響が?。
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「10代という、人間という生物にとって、色々な意味で一番生産的な時期を、我々はそれ以外のことで費やしているのである。」
別にエロホームラン(?)をかっ飛ばすつもりはないが、まぁ、そういう意図も少なからず含有する上記のかっこ。
こんなことを書いた本をいくつか読んだことがあるし、扱いがやっかいそうな誰かが言っていたような気がする。
もちろん「われわれはその以外の?」あたりは、いわゆる学校生活を指していると思われる。
別に、ここで「じゃあ、明日から校門をくぐらないで、五反田駅の改札をくぐろう!!」とかいうことが言いたいわけじゃない。
単純である。
そんな生産的な時期と学校時代がかぶっているため、僕らに強い影響を与えるんだろう、弱点となってしまうのだろう、ということだけだ。
考えてみよう。
その、生産的な時期とやらに、考えの違う他人との集団活動やら、異性やら、刺激的な音楽やら、面白い実験やら、難解な数式やらが押し寄せるのである。
これは、今にも破裂しそうなデキモノに、消毒していない画鋲を何個もあてがうような、そんな感じ。
これでは、学校時代が人生において、比重が大きくなるのも無理はない。
それが、彼の上腕部に残るBCGの跡と同じように、末永く残るのだ。
ということで、学校時代が40歳から始まります、ということになったら、それは弱点になりえないだろう。
となると逆に、生産的な時期を生産的に過ごしました、それが代わりの弱点となるのだろうか。
生産的なことを弱点として残りの人生を送るのは、少し寂しい。
また、40歳からやっと学校生活を経験できる人生となると、50代で社会になじめないとか感じる、そんなことにもなるのだろうか。
モラトリアムなお年頃の50代が待つ人生を送る可能性を考えるのは、寂しい。
そうさこれが僕らの弱点
以前、「ルナティックドーン」というパソゲーがありまして、だいぶやりました。
これは、なにやらファンタジーな世界に自分の分身ともいうべき冒険者を作成。
そいつで配達やモンスター討伐をしてお金を稼ぎ、家を買ったり。
そして同ゲーム内に作成されているヤツと結婚して、子孫を作り、その繰り返しでずっと遊べたり。
かと思えば、泥棒や暗殺など、誰もが一度はあこがれ、辞書で赤く線を引くであろう悪行を重ねることもできる。
ある程度の目標(子孫繁栄、神になる、世界破滅など)があるが、それ以外は目立ったシナリオの無いゲームだ。
僕は思っていました。
このゲームの「学校モノ」が出たら、面白いんではないか、と。
今。
このルナティックドーンほどの自由度はないかもしれないが、そんな手のゲームはすでにたくさんあると思う。
そして僕は確信した。
僕らの弱点は学校時代なのだ、と。
属性とかの方がぴったりくるかもしれないが、あえて弱点。
そう、それは弱点だ。
例えば、寂しくなったとき、なんだか学校生活のことを思い出す。
ほら、弱点である。
もし、このとき魔法使いが現れて「特技をわしにくれたら、おぬしを学校時代に戻らせよう」と言ったら、100人中98人は、特技である「テレビに、正しくビデオ端子を接続する」を殴り捨て、快諾を示す両手挙げを行うのではないか。
※ちなみに1人は学校をサボりまくっており、もう1人は、特技が「手をかざすとバーコードが読める」である。
例えば、学園モノの小説などが目に留まると、少しどきどきする。
ほら、胸を刺されている。
もし、このとき魔法使いが現れて「メアドをわしに教えてくれたら、おぬしを学校時代に戻らせよう」と言ったら、100人中98人は、メアドを教えるのではないか。
※ちなみに1人は携帯電話が嫌いで持っておらず、もう1人は、やはり特技が「手をかざすとバーコードが読める」である。
僕らは、学校時代に戻ることができるというなら、再生録画能力をかなぐり捨て、迷惑メールどしゃぶり状態を耐える事ができる。
僕は、学校が終わると速攻で家に帰っていた人種だが、それでもそう思う。
それほどまでに「学校生活」は、人のこころに根付くものなのだ。
なんとなくつづく。
宿痾
「古きよきをたしなむ」などと意識せずとも、近頃のカバーされっぷりは目を見張るべきだ。
曲はもちろん、昔のおもちゃ、食べ物の復刻など。
昔は「カバー」という概念すらなかったような気がする。
んなこといって。
なんか問題なんの?。
いや、そんなことはない。
懐かしいし、曲なんかはオリジナルとはまた違った感じがよかったりする。
でも、そういった層が有力な消費者になったとか、そういった理由以外の、何か気になる感じなんだ。
そう、何かがちゃんと完成しそうになってきたんじゃないか。
そんな気がする。
そして、それに向かってものごとが収束してきたんじゃないか。
余分なものが省かれて、まとまりだしたんじゃないか。
そんな感じ。
完成するなら完成するでいいんじゃないの?。
もちろんそうともいえるけど、一方では、世界は壮年期を過ぎたのだとも思ったりしてしまう。
それはこの世界を行く人にとって避けられない、寂寞の念か。
いま、「いいものは古いもの」ばかりになってきたのが、少しさみしく感じる時分だ。
落雷
ここ何年か、雑学をみんな大好きになっている。
先日、「金属をつけているとカミナリが落ちやすい?」というのがやっていた。
その番組では、検証実験が行われていた。
落雷を再現する装置の下に、普通のマネキンと、金属を身につけたマネキンが置かれる。
その状態で装置を作動させ、落雷を再現し、その様子をハイスピードカメラで撮影し、どちらに多く落ちるか、を実験したのだ。
・・・結果は同じくらい。
普通のマネキン:金属マネキン = 11回:9回とかだったか。
差などなかったのである。
僕は結果にすごく期待していたのだが、これには落胆した。
そして同時に、そらしょうがないよな、と思った。
僕はこういうのをみると、たいがい
普通マネキン:金属マネキン:ハイスピードカメラ = 10回:8回:2回
とかを期待しているのだ。
杖先、天を穿つとき。
以前、「警察24時」みたいなので、気になるシーンがあった。
暴れている2人の男。
片方が松葉杖を振り上げ、相手をはたこうとしている。
それを警官が止める、ような感じ。
思った。
普通、松葉杖はケガをしている人が使用するものであって、そんなものを暴力の道具にしてはいけないこと。
そして、その松葉杖を持つケガ人が、そんな暴力をふるって大丈夫なのかということ。
これは「松葉杖は友人がしていたもので、それを取り上げて相手を殴ろうとしていた、らしい」ので、解決。
しかし、松葉杖が振り上げられる映像には、ちょっとびびった。
普通、松葉杖、もちろん杖は傘とは異なり、上に振り上げられることはないはず。
せいぜいテーブルの端においてあるリモコンを引き寄せるため、横展開されるくらいだ。
だから、その先が地面を離れ振り上げられるのは、尋常じゃあない。
大小の差はあれど、それは間違いなく、異常だ。
だから、その場の人たちは何かしらの心構えが必要となるはずだ。
杖先、天を穿つとき。
その映像は、少々怖いのである。
死んでいる様相
知らぬ人が倒れていたとする。
どうやら死んでいるようだ。
このとき、驚く人もいれば、助けようとする人もいる。
しかし、みんな、一瞬かもしれないが、心底おびえるはずである。
それは何に対してだろうか。
その人を死に追いやったなにかが、近くにいるかもしれないからだろうか。
自分と同じく動いていたものが、その動作を終えたことを感じ、いつか自分も同様の結末を迎えると思い知らされることに対しての失望か。
場面によるだろうが、僕はそうは思わない。
もっと単純に「死んでると思うんだけど、いきなり動き出したらどうしよう」という点で、恐怖しているのだと思う。
静的だと判断したものが、いきなり動的になる。
その性質の移行は、特にこのような緊迫した状況では恐怖にもなるのだ。
ということで、今までの話の点のみを考慮すると、金田一耕助シリーズに登場する死体は、かなり人にやさしい。
もう、絶対死んでるよね、をよく出してくれている。
だいぶ死んでるアピールがすごいため、「いきなり動き出したらどうしよう」という不安を感じることも無いのだ。
誰も、水中で逆立ちして遊んでいるとは思わないし、同様に、凍った湖面に頭から刺さって、頭を冷やしているとも思わない。
逆にそれで生きていたりしたら、それは明らかに悪意のあるいたずら行為であり、許しがたいものがある。
法的な手段に訴え、そんな不謹慎なやつを合法的に死へと追いやることができるかもしれない。
そして今回は、それ自体がちと不謹慎であり、ごめんなさいである。
4/1の力を借りることにする。
淡紅葉
11月末、気になることが2つあったので、神社に行く。
記録的な台風で、神社近くの水路が埋まってしまったことが気がかりのひとつめ。
その経過を確認しに行ったのだ。
神社の入り口からかなり離れた場所に自転車を止め、水路の方へ歩いていく。
台風からずいぶんたつのに、まだ辺りは乾いた泥で白く覆われていた。
でも、歩いていくにつれ、水路にたどり着くことなく、その音で水が流れていることに気付く。
埋め立てていた土砂は取り除かれていたのだ。
気がかりのひとつは解決した。
ところが、実際その水路を見てみると、ちょっと前と違う点があった。
水がにごっているのだ。
そこは水深1mくらいなのだけど、前はとても透明で、川底を泳ぐ小魚が見えていた。
それが今、水路の川底が見えないのだった。
その水はにごっている。
ただ、うすく青白い、少し神秘的なにごり。
木陰の部分と日に照らされた部分の対比がきれいだ。
なんとなく水面を眺めていると、1枚のもみじの葉が水にもまれることもなく、すーっと流れてきた。
紅く色づいている。
そんなもみじの葉が、絶えず流されてきた。
水路上流に位置する神社にあるもみじの葉なのである。
その木はもう、紅く染まっているようだ。
僕はまたしても、目的地ににたどり着くことなく、もう一つあった気がかりを解決した。
それにしても、淡くにごる水の中にただよう紅葉はやたら、印象に残る。
2つの気がかりは解決したが、別のがまた一つ、増えてしまったようだ。
作法
「ケータイ忘れちゃったよ?」
「携帯してなくちゃ、ケータイじゃないやろ?」
よく見られるコミュニケーション作法のひとつである。
このような会話がまだ見られる以上、
「身につけていたいものではあるが、まだ忘れる」というのが、ケータイに対する人類の率直な感想である。
ということで、忘れぬために生体内にケータイ的なものを埋め込む「ウメコミ」が、まぁ個人情報とか何とかを負かしてでも誕生する日が来るだろう。
そのとき、晴れて人類はこの類の「忘れ」を克服することができるわけだ。
「ウメコミ忘れちゃったよ?」
あまり見られないと思われるが、これに対する作法としては
「あー、事故におうたんや?」となる。
この作法がよく見られるようなら、人類はまだ克服できていないものが数多くあるに違いない。
浸透と劣化・2
昨日から。
【あらすじ】
最近、ブログに書いてる文章が長くなってきた。
原因の一つは「明確に書くことがないから、だらだらしてしまう」から。
もうひとつは何かね・・・。
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もうひとつは「明確な意図に基づき、書きたいことがある」からだと思う。
例えば日記に「ゾウミジンコが、自分が大きいのか小さいのかわからなくなってきたって、言ってきた。」と書くとする。
ポイントなのは、内容がどうであれ、書き手が「こいつはイケる!!」という確信を持っているということ。
本当は「ゾウミジンコ」だけで村の一揆くらいは決起させる自信がある。
読み手1「ゾウミジンコ?。あぁ、あの小さいやつね。でも、ゾウって名前なんだよな。そりゃ、自分の大きさ、わからなくなるよね。で、君にどう言ってきたの?。」
でも、読み手2はゾウミジンコを知らなかった。
読み手2「ゾウミジンコ?。なにそれ、新キャラ?。」
ということで自信作は「ゾウミジンコ(ミジンコの仲間)が、自分が大きいのか小さいのかわからなくなってきたらしいよ。」と改変される必要が出た。
長くなった。
読み手2「ゾウって名前がついてるくらいなら、大きいんじゃない?。あ、でもミジンコだから小さいのか。ふーん。それで、どうやってそれをキミに伝えてきたの?。」
でも読み手3は脱線してしまった。
読み手3「やはりそういう哲学的な考え方を、ミジンコも持っていたのだな?。」
ということで自信作は「ゾウミジンコ(ミジンコの仲間)が、自分が大きいのか小さいのかわからなくなってきたことを、この私に面と向かって伝えてきた。」と改変される必要が出た。
長くなった。
読み手3「おや、待ってくれ。なかなか哲学的な考え方をするミジンコにも興味がわくが、そもそもあなたにどうやって伝えてきたのですか?。」
このように、自信作は文章量が増えたが、本文章中、一番意図していた「ミジンコとの対話」のことを読み手全員に気付かせることができた。
ここから先は、あなたしだい。
ジェスチャーだろうが、人文字ならぬミジンコ文字だろうが、「ミジンコが大勢で文字を作っても結局顕微鏡でしか確認できなかった」だろうが、「ゾウミジンコといっても、何か鼻っぽいところが長いからそういう名前で、一般的なミジンコに対して特別大きいわけじゃない」だろうが、思う存分やってくれい。
このブログではゾウミジンコについて問いたいのではないので、長い文になっちゃう件に話を戻す。
まぁ、このように、相手の考え方に関わらずに書き伝えたいことがあるのなら、それには情報量の増加を認めなくてはならないのだ。
「こいつはイケる!!」という内容に、汎用性を持たせようとするため、長文化する。
もちろん、読み手の幾人かがゾウミジンコのことを知らなかった点などは、全く問題ではない。
それは「ゾウミジンコ」を「近所の床屋さん」に置き換えることが可能だから。
まぁなんだ。
長くなるのは、しょうがないんだな。
そして、ついでに例題がイマイチなのを、ここで謝っておくんだな・・・。
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こういうことを考えるとき、僕は「ワイングラスのタワー」を思い出す。
あの、ピラミッド状にグラスが積んであるヤツ。
下のほうまでワインを届かせるには、ワインはたくさん必要なのだ。
もちろん上のほうのグラス、下のほうのグラス自体になんら差異は見られない。
それにしても僕は、最近の自分が書く、長い文が嫌いなことに変わりはない。
なんとなくだが、読み手に「ワイングラスのタワー」土台部分のグラスを渡しているような錯覚を覚えるのだ。