空気が読めない。
それは自分でもわかっていて、気をつけているつもりなのだが。
自分の誕生日を祝うために準備してくれている場に、ひょっこり現れたりするのである。
その瞬間の空気ってのは、あったもんじゃない。
どうにか気づかないふりをするのだが、心の中は済まない気持ちでいっぱいだ。
このあいだもやってしまった。
ある駅のホーム。
「おとうさーん!!」
「おー、元気だったか。見ないうちに大きくなったなー!!」
この二人の、あいだにいちゃった。
察するに、久しぶりの親子の再会なのだろう。
通常なら、お父さんはその娘(想像だと、エリカという名前)をひょいと抱きかかえ、ぐるんぐるん回したくなることだろう。
でも僕がいちゃったので、そんなことができないのだった。
「知らない人を挟んでの感動の再会」は少しへんな気もする。
そんな混んでなかったし。
しかしそのとき、僕は激しく後悔した。
「ああなんでこういうときに、あいだにいちゃうかなー」
僕としては、あいだで息を殺している僕なんかは気にせず、ぐるんぐるん愛情スイングをやってもらって一向にかまわない気持ちだった。
それで1回転につき1回、もしくは2回蹴りを加えられようとも、その感動の再会に水を差すようならば、それをとがめる気も起こらないわ。
そんな僕の懺悔を知ってか知らずか、お父さんとエリカは楽しそうに何か話し込んでいた。
そして僕は少し持ち直した。
彼らのことを「空気読めないな」と感じるほど、僕は空気が読めないわけではないことがわかったから。
カテゴリー: 汎用性より低い
いつから夜は、黒くなくなった?
美術の時間、何かのテーマを持ってポスターを作成することになった。
そのとき、僕にはとにかく夜のシーンが必要だったのである。
僕はポスターを丹念に、真っ黒に塗った。
その後、要所要所にテーマたる部品を配置。
基本的に絵のざんねんな僕だったが、それなりに満足だった。
しかし誰かが、こんな指摘をした。
「背景が真っ黒いと、ほかの部分とバランスが取りにくくない?」
「全体のイメージが重くない?」
書いているときにもなんとなく感じていたが、確かにどんよりだ。
そしてぱっとみ、幼稚な印象も受けた。それはバランスどうこうに起因したものだろうか。
ともかく、ポスター作成をやりなおし、背景を濃い青で表現してみたところ、確かに真っ黒のときよりもよくなったような気がした。
しかし、一方で僕はこんなことも考えていた。
僕にとって、夜は黒一色の世界だった。
日も沈んでいるし、一見外灯や月明かりなどで照らされているところはあるけれど。
突き詰めればそこは不可侵の世界と思っていたのだ。
それゆえ、見栄えは悪くともその時間を表現しようとするのならば、全体のイメージやバランスは気にするべきではなかった。
夜にそれらは無意味だし、無意味ということすらないはずだ、と。
ポスターがどうなったかは全く覚えていないが、この夜の印象について思ったことはよく覚えている。
今、夜を書けと言われたら僕は何色に塗るだろうか。
もし黒ではなく、紺に塗ったとしたら、それは深夜のお笑い番組とかが原因かもしれない。
もし黒ではなく、うす桃色に塗ったとしたら、それは深夜のお色気番組が原因だ。
もし黒に塗ったとしたら、それはなんら番組は関係ない、とだけ言えそうだ。
その白線の、すばらしきこと。
これでも相応の年齢なので、道路にチョークで落書きをしたことがある。
私道に近い、ほとんど車のやってこない道路で「なかあて」をするとき。
消えやすく、子供ながらにゲームの進行を妨げる可能性のあるなあと感じさせる「そこらにある石による線ひき」。
これに対してチョークの所持というのは「お前さいこーだよ!!」と友達に思わせるものであった。
どうなのだろう。
ちゃんと道路にらくがきしているのだろうか、子全般。
「けんけんぱ」の形跡をかろうじて読み取れる路面も、ずいぶんと見ていないような気がする。
何が道路に書いてあったら、僕は感慨深い気分に、ジュブナイルに、ノスタルジーに、うさぎを追った気分になるだろう。
幼少のころは純粋だったから、「死体のあと」みたいなものすら書かなかった。
今はちょっと違う。
「なんやもうちょいうまいこと書いたらええのに」
内心はけっこう悪いやつだ。
・半径50cmくらいの円の中に「バリア」と書いてある。
これはかなりいい。ぐっとくる。
おそらく子供たちはなんらかの遊びを考案したのである。
その遊びの中で、キーとなる領域なのだろうバリア。
いろいろ想像できて面白い。
・金相場
これもかなりいい。ぐっとくる。
誰が見るとも知れず、しかしこれを用意した彼は、なかなかのセンスと思う。
グラム単位での金額により、肉などではなく金であると推測させる「遊び」も備えている。
ちょっと乱暴に書くと、よりよい気がする。
・携帯電話
これもだ。いい。
おそらく憧れているのである。
はやく手に入れたいのである。
しかしまだよと、親に止められている。
手に入らないものを落書く。
当事者はともかく、手に入らないものがある人というのは、なかなかどうして。
と、ここまできて、なんとなくひとつの結論が出ました。
道路に線を書くことは、遊びみたいなものなのである。
毒薬の味2
昨日からのつづき。
【あらすじ】
毒薬について。
=====
相手に何らかの健康的危害を与えるための毒薬。
テレビドラマかなにかで、それは遠隔的な犯行を可能にするために使用されることがある。
例えば酔い止め。
酔い止めの薬として毒薬を持たせるのである。
飲んだら犯行が成立するし、飲まなかったら次回試せばよい。
しかしである。
もし被害者が隣で酔った人のために、その毒薬を渡してしまったりしたら、どうだ。
それに、たまたまその毒薬を落としてしまったときに、たまたま地べたで寝ていた人があくびをしたら、どうだ。
毒殺をもくろんだ策略家であるらしかった加害者は、彼的にはかんべんしてほしい無差別殺人犯になってしまうだろう。
あるいは料理にいれての毒キャリーオーバーを狙った犯行。
これだって、どうだ。
毒を入れた料理が案外おいしくなってしまって、好評を博してしまったりして、売り出してしまったりして。
成分表示のところに「その他」とか書くはめになったら、どうだ。
お皿を洗ったときに、流しから毒薬が流されてしまい、川で子供たちが遊んでいたら、どうだ。
自分の親が水浴びをしていたら、どうだ。
その2km下流で恋人が水浴びをしていたら、どうだ。
さらに2km下流で潜水をしていた人が、あくびをしたら、どうだ。
そんなことを考えると、毒でどうこうはパフォーマンスが悪そうだし、何よりいけない。
昔、どこぞのヨーロッパなどで動物が行った犯罪を裁く裁判が行われていたらしい。
数ある疑問もあれど、何よりも「ぬれぎぬを着せやすい」彼らにとってはあんまりな話である。
それは毒薬だって同じだ。
物質だって悪者にしちゃあいけない。
毒薬の味
「毒を盛る」こともあるかと思う。
そのとき、その薬効もさることながら重要なのが味だ。
味で気づかれてしまったら、吐き出されてしまうかもしれないから。
「なんか腐ってる」で勘違いで済んだならいいのだが、「お前これ、いつもより毒多いぞ」なんてことになると、その願い叶わないばかりか、盛ってることがばれているのである。
(ただ、ある意味度量の広い被害者であるとも言えそうで、心温まるエピソードである)
こういうことを考えたとき、例えばある薬品。
もちろん料理なんかでは使用しない、毒に属するような薬品の詳細に「ごまの風味がする」と記載されていたら面白い。
その情報、どうしろというのか。
あとおしだろうか。
「かおり」なら、まだなんとなくわかる。
その薬品の存在に気づくためには、かおりは重要だろうからだ。
ある毒薬で「磯のかおりがする」。
磯のかおりが確認できたら、対応をとることができるわけだ。
ある毒薬で「醤油をかけるとウニの味がします」。
ウニの味が確認できたら、後日プリンに醤油のかかったものの前で息を引き取った何者かが発見されるわけだ。
しかしそれも、微量で死に至るような薬品の場合は「かおりを嗅ぐ」のも危険。
いわゆる「マスタードガス」というのは、遅効性らしいことも手伝って、思ったよりもなかなかにブラックなネーミングである。
なんとなく思ったのだが、かおりに毒をしのばせて、相手を蝕むことはできるのだろうか。
「毒を盛る」なんてのはばれる。
これからは「毒の含まれた香水」で毒をあたえるぜあたえるわ。
これはやめた方がいい。
自分が一番危ない。
遠くにいる相手に香り袋として送ったらどうか。
次回。
も
すももも、ももも、もものうち。
圧倒的な「も」の回数から、「も」の練習に適した言葉だと思われがちである。
たしかに、言葉の発達に「使用頻度」は重要かもしれないが、程度はあるし、意味もなくては会話の練習としてよくない。
「も」の入門としては適切ではない。
では、どのような方法が「も」の発達にはよいかというと、それは段階を踏まえていくしかない。
やさしいものから段々と難度の高いものへと順々に推移していくのが、一番早く発達していくのである。
1.やさしい「も」
【木にひっかかった風船も、まかせて!!】
やさしいです。
2.中難度の「も」
【もっとスピーディーに、もっと快適に】
複数の「も」であり、かつこれがウリにできるくらいなので、中難度です。
3.高難度の「も」
【今日は大好きなおにいちゃんと、デートだも!!】
何らかのキャラクターの、語尾に見られそうな「も」です。
おそらく現実にはいないので、高難度です。
ボルボックス
今ではさすがにそう思ってなんかいないが、小学高学年くらいまでは、「自分はボルボックスが見える」と思っていた。
※ボルボックス
植物プランクトンの一種で、丸く小さい。
プールの時間、みずたまりに反射した光を、焦点がずれた感じで眺めると丸くきらきらしたものに見える。
それを僕はずっとボルボックスだと思っていたのだ。
「そこのみずたまり、ボルボックスたくさんいるから近づかない方がいいよ」
今となってはわからないが、そんなことを言ったりしていなかったか、心配だ。
ボルボックスがたくさんいることを示唆している点も怖いが、何よりも「ボルボックス」という名前のものは、なんだか毒素をいっぱい出しそうだ。
その点も怖い。
そう考えると、例え本当にボルボックスが見えていたとしても、それを公言することは得策ではない気がする。
ボルボックスに罪はないが、いかんせん濁点が気に障る。
少なくとも日常生活においては、ボルボックスにも、ボルボックスを話題にするやつにも、近づかない方がいいのである。
礼儀
なんだかんだ言って、最近はサッカーなのである。
で、その話題になるとどうしても出てくるのが「サッカー大好き派」とそれ以外の2タイプである。
ここでは双方どうこうするつもりはないのだが、気になることもある。
これは僕が勝手にそう思っているだけなのかも知れないが、いわゆる「それ以外」な人たち。
その幾人かは「サッカーの知識がないことを示すことが礼儀」であると思っているのではないだろうか。
実は僕もそのきらいがあるわけでして。
全く悪いことではないと思うんですが、ただ、少し度が過ぎている人もいそうでして。
「サッカー? おいしいの?」
ここまでくれはさすがに冗談、それに話題のアクセントか何かだと考えられる。
しかし、どうだろう。
「フットサルのお化け?」とかなると、ちょっとおまえめんどいよ、と言えないだろうか。
おまえ分かってるだろう?、と。
「オフト監督だよね」
これも、どうにも他意を感じずにはいられない。
ああオフトだよ、オフトが11人集まんねん、とか流したくなる。
ところが、本当に小学校のときに1回だけやったくらい、の人になると、それはもうサッカーは球技であるということくらいしか分からないかもしれない。
「人を狙ってボールを蹴るんだろ?」
なかあてか何かと勘違いすることだってあるかもしれない。
「ボールがきたらすぐにゴールに向かって蹴る方が、結果的には点が入るんじゃね?」
ピンボールが好きなのかもしれない。
「TVゲームのを実際にやるやつだろ?」
家にこもりがちだったのかもしれない。
「サッカーね。シュートで有名な」
・・・・・・
せっかくの機会だから、少しは詳しくなっておきたいところ。
僕も。
集団平衡
電車に乗っていたりして暇なとき、ときどき考えるのが「人間だけが見える風景」についてだ。
どういうことかというと、例えば沿線のアパートなんかが見えたとき、その住人だけが見えたらどうだろう。
そう考えてみるのだ。
ある程度規則正しい区画を保持しつつ、いろんな人が浮いている感じになるはず。
掃除をしている人、風呂に入っている人、食事中の人など、それぞれが浮いているのが楽しい。
青空にも映えそうだ。
もちろん人の描写は完全に妄想側の僕にゆだねられているわけで、全く当たっていないだろう。
しかしまあいい。
暇がつぶれるから。
さて、この妄想で一番考えがいがあるものは、実は本人も乗っている、電車だと思う。
例えば飛行機なんてのを、その概観を取っ払って、着席している人のみを見られるとしよう。
確かに壮観だ。
とても整列して人がたくさん座っている。
それが滑走路をすごい速さで進行し、ある速度に達した瞬間、離陸するのだ。
「おいおい座っている人があんなに速く進行しちゃだめだろう。しかも整然としている」
しかし電車にはもっとスリリングな要因がある。
「立っている」
これだ。
たくさんの立っている人が、つーっと地面と平行して進む。
それぞれが色んな方向を向いているが、誰一人として大きく動こうとはしない。
そんなものが想像できる。
ポイントは「立っているだけだが、なにやら加速減速する」というところだろうか。
立っているだけの多くの人が加速減速する画も面白いが、彼ら全員の動きでその増減が表現できているだろうこともいい。
そして運転手はすごく偉そうに見えるはずだ。
今の、電車の例で考えてみると、電車が透明でなくて本当によかったと思う。
もし透明だったら、踏み切りで信号待ちしている人なんかは指差して笑うだろう。
「立ってるだけなのに進んじゃってるよあいつら」
電車は、移動手段としてはかなり一般的である。
そして乗ったんだからそりゃ進むんである。
しかし、大勢の人が無言で無動作で目の前を通るという独特さには、それすらかすむ。
その運搬原理の根本を揺るがすような事態になりかねない。
電車に色がついていて、本当に良かった。
ひどく退屈な一週間 7日目
オリジナリティというものを尊重し、極限までそれを遵守するとなると、いきなり僕らは四散してしまうわけだが、最初のひとりが四散すると次の人は八散しなければならず、なんだか大変だ。
そこまで行かなくとも、誰しも何かしらの面で自分固有なもの、独創は持っていたいと思うものだ。
要は、遵守の程度である。
程度をわきまえないと、独創性を求めるにあたっては「にっちもさっちも(!!)」いかなくなってしまう。
ある作家は、どのような格闘技が一番強いかを考えるとき、銃器の存在をアリとした。
あらゆる制限は結果的に不平等な律速を招くかもしれないことを示しているともいえるが、普通は「そんなあ」だ。
程度を考慮する必要がある。
また、独創の方向性を間違えると「問題の答えは8個だとわかっていたのですが、オリジナリティを出して「る個」にしました」とかなってしまい、それはオリジナリティというよりは、あまのじゃくである。
解法はともかく、数式の答えにオリジナリティは、ふつうない。
あるとしたら変数xの書き方くらいだ。
逆に性格生き様などはオリジナリティを発揮するにはいい舞台かもしれない。
※以下、「文学、映像作品」のそれについて。
さて、オリジナリティというものが失われて久しい、という旨の話は多い。
それはオリジナリティというものが内部要因というよりは外部要因に左右されるからという点が原因かもしれない。
作り手がいかに作品を無二だと考えていようが、受け手がそうでないと判断した場合、どうしてもそっちが重視されてしまうから。
A:
新しい言葉を作りました。骨と肉にダメージを与える意味「ボーンキュル」です。
B:
どういったことですか?。
A:
相手の腕か何かを持ってこう、きゅる!!ってねじることで、骨と肉の接点を断絶する動作のことです。
B:
何かどこかで見たことある気がするなぁ。
A:
骨付き肉などの調理にも役立ちます。
B:
ところで病院連れて行ってもらえます?。
この時点で「ボーンキュル」が新規のものだったとしても、もはやそれに独創性を見出すことは難しい(どこが文学どうこうであるかを見出すのも難しい)。
どこかで生まれちゃってたらしいことをBが示唆したためだ。
オリジナリティというものは非常に繊細で、曖昧なものに対してでさえも、たやすく侵されてしまうもの、らしい。
そんななので、人々は様々な方法でそれの取得を試みてきた。
例えば検索にひっかからない言葉を生み出した。
ありえない角度の視点を映像にした。
ストーリー構成を捨てた。
しかし残念ながら、これらの試みをもってしても「どこかで見たなあ」には、かなわない。
手術台の上でミシンと蝙蝠傘は出会ってしまっているのである。
全ての独創性というものが1枚の白紙の余白部分であったとするならば、もうその裏面も色塗りされているようなものだ。
もはやオリジナリティは、せいぜい「自分より優れたものへの嫉妬」としてくらいしか存在していないのかも知れない。
とはいえ、オリジナルだけど全然おもろない、なんか見たことあるけどすごくおもしろいというものも多い。
そこにはまた別の視点での独創性があったりするのだろう。
白紙の2枚目があったりするのだろうか、おもろい人。
スゴイヨネ。
さて、僕はまず1枚目を探しに。
このまま、何処へゆこうか。