なんだか家の無線LAN環境が、へんになってしまった。
なぜだろう。
家のLANは分からないが、何となく分かることといえば「ぼくわ」ではじまる文章のことだ。
すごく出ている。
あるいは出そうとしている。
どちらにしても、読み手は一歩下がった状態からの読み出しとなるだろう。
「ぼくわ、か・・・」
例えそれがモノホンであったとしても、だ。
モノホンかどうかは文章の稚拙さや筆跡、または読み進んで行けば分かる。
一方、そうでなさそうなら「書いた人はどうにかして「っぽさ」を出そうと苦心したのだ」と、どうにも冷めた視点になってしまう。
※当ブログはモノホンなので、冷めた視点にはならず温かい目でご覧になっていると思う。
故意の「ぼくわ」なら。
どうせならその「ぼくわ」の周辺も極力「ぼくわ」テイストにしてほしい。
でも「ぼくわ慟哭した」とか書かれると気になって面白い。
何気に「ぼくわあした、やきゅうをしました」とかやられると、それは思いのほか哲学的だ。
そうもなると、実は「は」と「わ」の違いなんて重要ではなく、何かを書くか書かないかが重要で、書いたら何かはひらえるわけで、そっちのほうがいいのかもしれない。
と、自分を励ましつつも「モノホンがまさにそれなんだよ」と自責する、夜の各駅停車かな。
カテゴリー: 楽したい
重力
高い塀から落ちて怪我をし、それを「重力の暴力」であるとして訴える。
あまり聞かないが、それは重力というものがあまりに身近であるためだろう。
生まれでた瞬間、いやもっと前からか。
その力を受け続けてきた生物にとって、それは当たり前の責務なのである。
しかし一歩下がってみると、あまりに不当な現象でもある。
勝手に発生しておいて、呪縛を与えている。
そして重力も重力だが、それをごていねいに受け続けている我々も我々である。
知るか重力!!。
もう俺は宇宙へ行く!!。
そんなニュージェネレーションが増えてくるかもしれない。
しかし、それにより何を失うか。
それはまあ知らないよね。
押してみる。
僕の知る限り、「オオゾウムシは硬く、押してもつぶれない」と記した昆虫図鑑は2つ以上ある。
ような気がする。
この記載だけで毎年多くのオオゾウムシが人間の親指と人差し指の間で絶命していることを考えると何とも言えない気持ちになってくる。
今後、オオゾウムシを見かけても押しつぶそうとするのだけはやめていただきたい。
さて、今「アライグマを捕獲」というニュースがやっていた。
話は変わるが「捕獲」と「保護」の境界線は何だろうか。
言うまでもないかもしれない。
その後の待遇が、かなり違うのだろう。
悲しい事だ。
上記のオオゾウムシは、せめて保護のほうでお願いしたいところ。
もちろんアライグマも。
箸で切れる。
大きく考えると、ミルフィーユと豚の角煮はほぼ同じ食べ物と言える。
ミルフィーユのパイ生地は、豚の角煮では赤身の部分。
クリーム部分は脂身である。
その楽しみ方を考えるだけで、このふたつが同じ食べ物であること、むしろ同じじゃなかったら何なんだという気すらする。
しかし決定的に異なる部分もないわけではない。
ごはんがすすむか。
これだけは差異が生じる。
すなわち、豚の角煮をちびちびやるとごはんはすすむのであるが、ミルフィーユは、そうはいかない。
ミルフィーユをちびちびやっても、すすむのはせいぜいコーヒー紅茶のたぐいである。
※この点はむしろ「冷や奴と日本酒」の関係から「ミルフィーユ=冷や奴説」が思い浮かばれる。
実は、これ以外にも「ミルフィーユと豚の角煮は違うんじゃね?」点は存在することはする。
ミルフィーユは、たのしみ部分が交互に、何層にもわたって存在しているが、豚の角煮は、一般的には1.5ターンである。
それは「赤身脂身赤身」の構造で、ミルフィーユのそれよりも見劣りするのである。
しかし考えてももらいたい。
「赤身脂身」が交互に何層もある角煮は、おそらくは豚の調子がかなり悪くないとできない構造のはずである。
したがってそれは異常であり、このことが何ら「ミルフィーユ=豚の角煮説」を揺るがすことはない。
一部の例外はあるものの、ミルフィーユと豚の角煮が同じ食べ物であることは事実だろう。
この考え方に則れば、豚の角煮の柔らかさは、単に柔らかいだけ以上の驚きをもってむかえられるはずである。
断列夜景
特に怒る事柄があったわけではないが、何となくこんなことを言いたくなってきた。
お前は夜景のジグソーパズルでも作ってろ。
世の中には多くの「夜景のジグソーパズル」があり、その点申し訳ないのだが、やはりこう言われたらすごくショックな気がする。
要は「おまえは役に立たない」と言っている様子であるため、いかに「夜景のジグソーパズル」がなんだかなあというものか。
ひどいものである。
しかしジグソーパズルの存在意義は完成物を飾ることだけではない。
いや、むしろこちらだろう。
それは作製作業だ。
ジグソーパズルは完成へ向けた意識というか、作業を楽しむものなのである。
そうなれば冒頭の発言は思いのほか効力を失う。
少なくとも、そう思っている人に対してパズル作ってろと怒っても、え、いいんですかという感じになる。
そんな人に対して類似のもので怒りたいときはどうすればよいか。
ラッセンのジグソーパズルでも作ってろ。
ラッセンの、光るジグソーパズルでも作ってろ。
これで「えーラッセンの??」となってくれればいいのだが。
にじ
死骸とはいえ、たまむしを見つけた。
森が多い場所とはいえ、都内にもいるらしいのである。
こいつはたしか幼虫時代を木の中で過ごす。
その期間は結構長かったはずだ。
そして成虫になっても高いところばかりにいるらしい。
なかなか出会わないものだから、まじまじとながめてしまった。
しかしぼくは出かける途中だったのだ。
その殻を持っておく場所がない。
通り道の塀に置いておくことにした。
帰り、どうやら雨が降ったのか、路面は湿っていた。
たまむしの死骸はどこかに行ってしまったのか、塀の上にはなにもない。
持って行けばよかったか。
しかし、かばんの中でこなごなになったりでもしたら、その昆虫性ふしぶしパーツのせいで二度とそのかばんを使うことはなかっただろう。
それに、雨の日に虹を捕まえておくというのも、あじけないわけで。
水面を見上げる。
スキューバダイビングができるとしたら、「海底から空を見上げる」ことをしてみたい。
地上から空を見上げることに比べて、海底からだとひとつ余分なもの(海水)が間にある分、何かおもしろいのではないかと考えている。
ディズニーランドに行けるとしたら、「ミッキーと握手する」ことをしてみたい。
中の人と握手することに比べて、ミッキーごしだとひとつ余分なもの(ミッキー)が間にある分、何かおもしろいのではないかと考えている。
スカイダイビングができるとしても、「海底を着陸地点とする」ことはしてみたくない。
地上を着陸地点にすることに比べて、海底だとひとつ余分なもの(海水)が間にある分、何か危険なのではないかと考えている。
また、妙なルール(着水後にパラシュートを開く等)ができたりしている可能性もある分、何か危険なのではないかと考えている。
人は、上に行くか下に行くかで、結構対処法が違う。
模倣犯
「ごみ拾い模倣犯」という言葉があるとするならば、まず気になるのが「ごみ拾いって悪い事だっけ?」という点だ。
悪いのなら模倣することもいけないわけで、そこはパイオニアと模倣、あわせて検挙していかなくてはならない。
しかし一般的には、ごみ拾いは悪い事ではなく、むしろいい。
度が過ぎると探偵か変質者か偽善者になってしまうだろうが、ほどほどならいい。
だからそれを模倣するらしい「ごみ拾い模倣犯」もいいのである。
となると冒頭の違和感は「犯人」という言葉に起因すると考えて差し支えない。
犯人。
悪いやつのことを指している事が多いから。
だから「ごみ拾い模倣さん」とかが本当なのだろう。
僕が考えてみたところ、おそらく「ごみ拾い模倣さん」は「あいさつ模倣さん」でもあり、「道ゆずり模倣さん」でもある。
「えがお模倣さん」でもあるだろうし、「さわやか模倣さん」でもあって、とにかくいい人という印象だ。
しかしすぐに気づいた。
模倣の由来元がいることを考えると、とたんに彼は気味悪い存在になるのである。
「ごみ拾いさん」に対して「ごみ拾い模倣さん」。
もっと自発的にいこうよ、という感じがする。
他のもそうだ。
「さわやか模倣さん」よりは「さわやかさん」のほうがNHKっぽい。
模倣さんは、そのパイオニアよりは劣る。
それを模倣しようと懸命なのだから、気味悪いのだろう。
「ごみ拾いさん」
「さわやかさん」
由来がパーフェクトだと、なおさら。
図鑑
あるエッセイストがこんなことを書いていた。
「昔、お気に入りの魚の図鑑があった。それには魚の体長や性質とともに「おいしさ」「まずさ」が書かれていて、想像をかき立てられるのだった」
先日apple storeで購入した魚の図鑑に「かわいい」という文言を見つけ、なんとなくそれを思い出した。
かわいいかどうかは、おれがきめるから。
僕もどちらかというと、よく図鑑を見る子供だったと思う。
昆虫の図鑑はらくがきでいっぱいだし、魚の図鑑はぼろぼろだ。
海に住む無脊椎動物の図鑑は、魚のそれよりもさらにぼろぼろで、鉱物のはらくがきでいっぱいだ。
図鑑、よく見てなかった。
らくがきばっかりしていた。
動物の図鑑を見てみると、とにかく「マヌルネコ」に幼少の頃の僕はくぎづけになっていたようだ。
その図鑑の「マヌルネコ」の写真は、どうしたことか切り貼り面がよく目立ち、しかも小さい。
かなり悲惨な待遇だった。
しかし、色鉛筆で書かれた多くの丸がそれを囲んでいる。
気に入ってるのだった。
それは「マヌルネコ」という、なんとも愛らしいまるっこい名前もさることながら、写真からかろうじてわかる「すごくもこもこしている」こと、これが気に入った原因らしかった。
子供ながらに、もこもこしているものはかわいいものであることを認識していたようで、その点偉いと思う。
先日、鮮明な「マヌルネコ」の写真を見た。
もこもこしていたが、眼光鋭く「お前ちょっとよそ見たら、殺しにいくから」みたいな顔つきだった。
僕は鮮明な「マヌルネコ」が見られて満足だった。
風に飛んだよ
こないだ折り紙について書いたとき。
ベルヌーイの何かを利用して、紙飛行機を遠くに飛ばせるかを試したことを思い出した。
成功したかはさておき、僕らはいったいどれだけ紙飛行機というものを作り飛ばしてきたのだろうか。
書き損ね
ちらし
レシート
こう見ると、たいがいの紙は一度くらい紙飛行機になったことがあると言え、その点再生紙は経験者だ。
一方、折る側としては紙の経験どうこうはあまり気にならない。
それどころか、飛行機として重要な「よく飛ぶか」ということすら度外視する。
ある種の人々は、作った紙飛行機をおもいくそ投げ、目の前で一回転して足下に突き刺さることを美しいとする。
確かに、ゆったりと長く飛行する紙飛行機は情緒深く、望郷の念を抱かせる。
何かの広告を考える際、普通はないだろうが、そのイメージ画像に困ったとしたら、まず青空に紙飛行機で問題ない。
表紙は青空に紙飛行機で問題ない。
本人が出ていないカラオケの画面も、青空に紙飛行機で問題なく、極端に長い曲だと数100メートル飛んでくれて、やはり問題ない。
代々伝わる掛け軸に、放射状の折り目がついていてくれて問題ない。
話がずれたが、まあそのくらい「ゆっくり飛ぶ紙飛行機」はよい、ということだ。
しかし、「紙飛行機を長く飛ばすための努力」に何かしらの疑問を抱いた者は、その情緒を感じる事にちょい嫌悪を抱く。
何を、先っちょにひとくふう加えることがあるのか。
そう思った瞬間、むしろ紙飛行機の瞬間的な躍動に感動を覚える身になってしまうのである。
書き損ね
ちらし
レシート
そうした紙飛行機が幾つも突き刺さる光景は、なにげに本当に見た目いいかもという気がしてきた。