暮れのぶんぶん その3

昨日からのつづき。
【あらすじ】
カブトムシのオスがいる。
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そこに「カブトムシ クワガタ」と書かれた看板があることを、僕はずっと忘れていない。
初めて見たのは小学何年生か。
小学何年生の男の子に、そういう看板を見せてはいけないのだ。
その看板を中心に半径50mくらい、その子は散漫になる。
9月に入ってカブトムシのメスを探すのは、もち米の入った米びつから一粒のうるち米を探し出すようなもので、難しいということと、どうでもいいじゃんということ。
2重苦である。
しかし「どうでもいいじゃん」という点については、このままオス一匹ではかわいそうだという考えもあり、却下。
難しいだけを解決すればよい。
僕はその、小学男子の桃源郷、エルドラド、隠れ里、イスカンダル、樹液池甲虫林の「カブトムシ クワガタ」看板のところへ向かった。
看板の近くで車を降り、店かなにかあると思っていたのだが、そこはただ看板だけだった。
てっきり、カブトムシの入ったかごがたくさんあるのかと思っていたのに。
仕方ないのでその周辺を歩いてみると、小さな工場のような建物に「カブトムシ クワガタ」。
ここが生産工場らしいが、閉まってる。
さらに歩くとクリの木が何本も植わっている。
ここで育てるのか。
らちがあかないので、近くで掃除をしている人に尋ねてみると、やはりシーズンが終わったのだという。
カブトムシは夏である。
しかし生き物なのだから、少しくらいは秋へはみ出る虎舞竜がいてもいいじゃないか。
ともかく、ここにはカブトムシのオスもメスもいないのだった。
ただ、僕はそれほど落胆していない。
自宅付近マスターである僕にしてみれば、どこに「いいクヌギ」があるかなんて、大した問題ではない、はず。

暮れのぶんぶん その2

昨日からのつづき。
【あらすじ】
カブトムシのオスがいる。
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カブトムシは、いつも土に潜りたがっている。
そんなイメージがある。
メスはともかく、オスは角が邪魔だろうに、よくも潜れるものだ。
昔飼っていたとき、そう思いながら就寝中のカブトムシを掘り起こしたり、起きているカブトムシを埋めたりした。
土は重要と考えているから。
カブトムシのためのケースとしては、あの蛍光な緑色をした、四方通気性ギザ良のカゴタイプではない。
ちゃんと土が入れられるものを。
ということで、今にも猫にほふられそうな彼のために、100円均一の店で1セット購入してきた。
ケース
マット
保水のやつ
昆虫ゼリー
止まり木
カブトムシシーズンはもう過ぎたのだろうか。
全力で売り出されていたカブトムシグッズは店内の目立たない所に追いやられていた。
未だに、なんでカブトムシの土は「マット」というのか、分からない。
足2本くらいはやられてしまっているかもしれないと覚悟していたが、カブトムシは猫にいじめられてはいなかった。
さっそく環境をある程度整備、キュウリしか与えられていなかった彼は、ゼリーにがぶりよりだ。
あと残っているのは保水のやつで、花壇や鉢に差す植物への栄養剤にやりかたが似ている。
これは、昔にはなかったものだ。
昔は、そこそこの湿度を要求するらしいカブトムシに対して日本人が行ってきたのは、きりふきによる水分補給だった。
これはあんがい難しく、どこが難しいかというと、まずどのくらい湿り気を与えていいのかが分からない。
そしてカブトムシを狙っていいのかも分からない。
結果、溺れるカブトムシがあとをたたなかったという。
それが、この保水のやつはいい具合に湿り気を与えてくれるという。
愛いやつ。
さっそく指しておく。
見た目は完全にカブトムシビオトープとなった。
彼にゼリーがあって、かつ広大だ。
そう、1匹にしてはずいぶん大きなケース。
もちろん、メスをどうにかして手に入れる所存なのである。
が、このとき、9月初旬。
どこにいけばいるんだろうか、メス。

暮れのぶんぶん その1

父親がどこからか持ってきたカブトムシの幼虫が、羽化した。
というかしていたらしい。
僕はもう、カブトムシの幼虫的なものにはがぜん弱くなってしまった。
特にあの形状は抜けて恐ろしく、視力検査ではスプーンで両目を塞ぎたいと常々思っている。
だからそれの入ったケースには、いっさい近づかなかった。
一方で父親もそれほど興味がなかったらしく、まさに「気づいたらカブトムシになっていた」ということらしい。
そんなに大きくないが、りっぱなオスだ。
泥白ソーセージだった幼虫時代からみると、成虫はなかなかだ。
やらしいもので、やたら興味がわいてくる。
以前触れたが、カブトムシのオスは取っ手のような、持つところがある点で人類に優しい。
そんな優しいカブトムシのオスを、父親が金魚鉢みたいなやつに入れて持ってきた。
ふたもない。
この状態は、猫にとっては小皿でお通しを出されたようなもので、なにやってんだ父親のやろうという感じである。
ケースを買いにいくことにした。

筆先は乾きに乾き。

【なんとなく意味ありそうな1文で、テキトーな文章を締めてみるコーナー】
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いやあ、まだ今日は仕事あるの?。
そう、大変だねえ。
僕?。
僕はもう帰ろうとしていたところだよ。
でもなんかみんな忙しそうだから、帰りづらくてねえ。えへへ。
で、何。
何やってるの。
うん。
この帳簿をこっちに転記するのかあ。
大変だねえ。
いやちょっと思い出したよ。
僕も最初の頃はずいぶん大変な仕事を任されちゃって。
いやあ本当に大変だった。
たぶんそれよりも大変だったよ。
ところでちょっといい。
こないださあ、うちの屋根のところにハチが巣を作っちゃってさあ。
もう何匹もこう、ぶんぶん飛んでいるんだよ。ハチが。
怖くてさあ。
でも、専門の人を呼ぶにも、どこに連絡したらいいか分かんないし。
お金も掛かるし。
仕方ないから自分で取ったよーお。
大変だったよーお。
なんだもうみんな忙しそうだから帰るよ。
まあなんだ。
心はアンチエイジングしちゃいけないよね。

裂ける点

今では「さけるチーズ」という名前になってしまっただろうか。
ストリングチーズをはじめて見たときのことは、今でも鮮明に覚えている。
とはいっても優れた比喩が用意されているわけでも、飛ぶ鳥落とすボケがあるわけでもない。
とにかくそれは、たてに裂ける以上の何者でもないのだ。
しかしそれでも「チーズがたてに裂けてる!!」「食べたい!!」というあのときの衝動は、人生の衝動ベスト10に入るような気もする。
そのくらいだった。
悲しいかな。
子供のころはチーズを買うおこづかいもなく、母親へ購入を促してもその理由が「たてに裂ける」だけでは強く提案もできず。
現在に至る。
今では自分で買うこともできるが、しない。
「あの糸みたいになったところを食べたらどうなるんだろう」というときめきの消えるのが惜しい。
だから買わない。
味が分からないので、僕にとってストリングチーズは頭の中で裂かれるイメージしかない。
そしてイメージにしろ本物にしろ、何の料理に使えばいいのか分からないから、もう本当に裂かれ続けるしかないのである。

負けられない気持ち。

マラソンか駅伝かの選手がインタビューに答えているところを見た。
後半のスパートで見事巻き返した彼によると、「負けられないという気持ち」が芽生えたのだそうだ。
これを聞いたとき、僕は何かのエッセイに書いてあったことを思い出した。
「長距離選手は競技後半、過酷な条件のときには脳内麻薬が出ているから、むしろ陶酔したような状態なのだ」という旨の内容。
もし、本当にそうなのだとしたら。
そしてそれだけなのだとしたら、冒頭の彼は「相手よりももっと気持ちよくなろうという気持ち」によって勝利を手にすることができたのだと言える。
もちろん、これではランナーに対して失礼な気がする。
たとえランナー間では「ラストの気持ちよさがはんぱない」というのが通説になっていて、むしろ視聴者その他が勝手な純朴さをランナーに抱いていたとしても、だ。
そして僕には長距離の思い出がある。
確か10kmだったか。
僕にとっては対馬から望む釜山くらいに遠く長い距離だったが、そこにあったのは陶酔や気分の高揚ではなく「つらっ」だった。
そして「つらっ」以降、特に何も覚えていない。
つらかったしかないのだ。
いや、それとも陶酔の果ては「何もない」なのだろうか。
そうなると冒頭のランナーはこうインタビューに答えざるを得ない。
「負けられないという気持ちがありましたが、最終的には何もありませんでした」
「無でした」
ランナーの尊ばれる理由が、またひとつ。

包丁を使わずにイワシを三枚におろす方法。

嘘をついたら、えんま大王に舌を抜かれるというものに、何歳まで恐怖を覚えていただろうか。
そしてそれが薄れるとき、気になりだすのが「嘘をつかない人間はいないだろう」ということだ。
生まれる前、あるいは生まれてまもなく亡くなってしまった場合以外。
幼くして欲しいものを手に入れるための嘘泣きや行きたくないための嘘寝、嘘体調不良。
どれも正直な所、罪悪感を受けずにやってしまっているだろう。
この辺を無垢でクリアしたとしても、まずくてもおいしそうに食べる仕草やお世辞。
えんま大王に「おまえまずいのをおいしそうに食べたそうじゃないか」とにらまれたら、私たちの認識では「そんなあ」となるが、まあ嘘なので舌抜き対象になる。
とまあ、とにかく人は程度善悪あれ、嘘をついているものなのである。
そうすると心配なのが「舌を抜くためのやっとこがぼろっぼろ」というところだ。
亡くなった人が来る度に抜くものだから、だ液によってやっとこが腐食。
すぐに使えなくなってしまうだろう。
こうなると、地獄省(憶測)ではこういう対応をとらざるを得ないことは明白だ。
「えんま大王が「いままで嘘をついたことがあるか」と質問し、そこで嘘を言わなければ舌抜きなしとする。」
そこで嘘を言わなければというのは、結果的には「私は嘘をつきました」というのが正解なわけである。
しかしどうだろう。
えんま大王に「いままで嘘をついたことがあるか」と言われたら、もう人間観念してしまうのではないだろうか。
「すいませんついていました」と。
するとこの対応は観念した人たちの吐露により、たいがいクリアされてしまうのである。
やっとこは錆びずに済んだ。
しかし舌抜きは全く行われず、鬼たちの間で受け継がれていたその技術のほうが、錆びていくだろう。
あるいは舌抜きがなくなるので、鬼たちの仕事は手抜きぎみになる。
それも困る。
地獄の権威とギャグの質に関わる。
ということで、現在の地獄省では「舌抜きは抽選」が採用されているのではないだろうか。
確かめる術ないですけど。

誰もいなくなったって。

日本では「そして誰もいなくなった」という名の、アガサ・クリスティの推理小説がある。
とことわるのもどうかと思うくらい、有名らしい。
「そして」だ。
この接続詞は、一般的にはその前に何か文章があって、それに付け加える形で更なる文章を紐づけるときに使用する。
ただ、この「そして」の前に文章はない。
それはタイトルであるからかもしれない。
そもそも原題はまた違うらしいし。
しかしかなりいい雰囲気を出している。
小説の内容がまさに「10人くらい人がいましたが、結果いなくなりました」ということで、しかもそれが一人ずつなものだから。
で、話は変わるが、この「そして」に、接続詞たる役割を思い出してもらうべく、勝手に「前の文章」を考えてみる。
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「奥さん、あっちの魚屋の方が安いらしいわよ」
「そして誰もいなくなった」
館内放送で、かわいそうなぞうの朗読が始まった。
「そして誰もいなくなった」
お母さんは身支度を済ませると玄関にかぎをかけ、会社に向かった。
「そして誰もいなくなった」
街頭テレビで、ついに力道山の空手チョップがはなたれた。
「そして誰もいなくなった」
「ちょっと、誰かいない、ねえ・・・。なんだよ、みんなどこ行ったんだよ・・・」
「そして誰もいなくなった」
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どうだろう、ちゃんと誰もいなくなっただろうか。

あらすじで遊ぶ。

2時間ドラマの1時間目あたりで挿入されるあらすじコーナー
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【あらすじ】
湯のぼせ警部の白石まさひこは、美人新聞記者の夏目とともに訪れた別府温泉街で知り合った骨董商多田貫の死体を偶然発見。
そのとき現場に落ちていたべっ甲の櫛が事件に関係しているとにらんだ白石は、三重県にある多田貫の実家で後家に一目惚れする。
一方別行動の夏目は旅館いまなぎにて高級懐石料理に舌鼓を打ったその夜、第二の殺人に遭遇。
そこで包丁を手に立ちすくんでいた板前の伊近が連行時に口にした言葉「りんみょ、まるかりよーて」から、白石がのぼせてしまっていることに気づく。
連絡を受けた白石は後家に必ず戻ってくることを伝え、お守りにと自分の胸毛を2本託し、夏目と合流するために京都へ向かう。
そんな白石を超望遠トレーサーで監視する衛星軌道上の宇宙船ガーダ。
不適な笑みを浮かべる地底帝国首領のアバハグ。
そして奔走する白石をあざ笑うかのごとく、第三の殺人が福建省のとある農家の納屋で起こる!!。
引き続き「湯のぼせ警部白石の事件簿 スペードのエースは眠らない」
お楽しみください!!。
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これなら。

運転

青信号になって横断歩道を渡っていると、背後から「運転代わるよ」という女性の声が聞こえてきた。
振り返ると、乳母車を押す旦那さんにかけた言葉のようだ。
僕はその夫婦のファンになった。
僕らは何をどこまで「運転」と表現してよいのだろうか。
そのことに気づかせてくれた。
例えば、これも夫婦関係ではあるが「夫の手綱をにぎって」という表現を聞いたことがある。
これだけでも十分「運転」に値するだろうが、ちゃんと言い直してみる。
「夫を運転して」
微妙でまずは使えないだろうが、ニュアンスは損なわれていない。
「夫をうまくあやつって」だ。
かぶと虫は、おしりを指でこちょこちょすると慌てて前進する。
そのやり方では、進行方向をある程度意図的に操作することができる。
このかぶと虫は、運転されているのだろうか。
チョロQを引く子供に対して「僕にも運転させてよー」
英単語としての「drive」なら全ていけそうだが、あくまで日本語としての「運転」。
それも「車の運転」の「運転」だ。
バナナシュートはどうなんだろうか。
あれは、サッカーボールを蹴り具合で曲げるのだろう。
繰気弾は。
ドラゴンボールに登場するヤムチャが放つ、操作できる気のかたまりだ。
タイピングは。
「キーボードを運転して」でぎりぎりいけるような気もする。
自分はどうだ。
いや、これはむしろ他のものよりも「運転」が合いそうだ。
ネタが浮かばない。
そんなとき「俺は自分を運転できているのか」と思う。
すると背後から聞こえるのだ。
「運転代わるよ」