ちょっとそこまで。14

風呂上がりに一杯。
その文化に憧れていないと言えば、うそになる。
CMで汗を全身にかいたあいつは、それはビールが得意でなかったとしても、うまそうだ。
CMってすごい。
で、この温泉にはその文化に遅れている人間に対して、少しばかりの救済処置が用意されている。
温泉入り口に自動販売機があるのだ。
洞窟温泉は楽しかったが、僕の気分は沈んでいたんだ。
それは、温泉が熱過ぎだったりとか、洞窟がほぼ浅瀬だったことに起因している訳じゃない。
熱いくらいでも気持ちよかったし、お湯の浅瀬というのも面白かった。
ただ、洞窟的なものの中を全裸でうろついたことを客観的に考えると、なぜか少し、沈んだんだ。
「男の方の生殖器は、なんかギャグだ」
そう言った先輩を「こいつかなりやるな」と内心思ったけど、そのときのことが鮮明に頭によみがえる。
「俺はなんだって、ギャグをぶらぶらさせながら洞窟のなかを・・・」
今、本ブログでそのことを昔書いていやしないかと、内容を全件検索したところ「見つかりません 生殖器」と表示されてそりゃたいへん。
面白かったわけだが、確かにこの洞窟うろうろのとき、文化がなくても風呂上がりの一杯をやってみようじゃないかという心意気にさせるくらいのギャグが発生していたわけである。
さっそく金庫に入れていた財布を取り出し、自動販売機でモルツを買う。
モルツがビールの中でどのくらいうまいものなのか、そもそも発泡酒とかでなくてビールなのか。
あまりよくわからないが、今日、僕は文化を得る。
夕食のとき、「何かお飲物は」と聞かれてコーラを頼んでしまったのに、そのあとで缶ビールを飲んだことがばれると、宿の人が傷つくだろうか。
そんなことを考えながら、何か悪いことでもするかのように自室に滑り込み、座椅子にスタンバイ。
何か面白いことをやってくれていそうなテレビもついている。
ipodからは山田晃士が流れてきた。
何か、雰囲気いいんじゃないだろうか。
僕の風呂上がりの一杯デビューはかなり洗練されたものになったようだ。
本日のまとめ
このあと、強かにビールを床に落としました。
待ちました。
でも開けたらぶっしゅーなりました。
コーラの方がおいしかったです。

ちょっとそこまで。13

食べ過ぎで緩んだ気分とふくれた腹をもてあそんでいては、旅行の何たるかを冒涜しているような気持ちにもなってくるというものである。
温泉に行ってみることにした。
入り口の「時間によって男湯と女湯が入れ替わります」の札に何となく心躍らせながら更衣室に入ると、時間も遅いせいか。
人の姿はなく、着替えの衣類も2点ばかりしかなかった。
今でも、他人に裸体をさらすことがひける。
かといって大得意という人もいないだろうが、修学旅行じゃないんだ。
この気分はどうにかならないものかなあ。
なんてことを思いつつも、前を隠すことだけはせずに浴場へ。
予想に反して人はいないが、そのかわりでもないんだろうけど、なんか湯がぼこぼこしていた。
湧いている演出だろうか。
やや熱いが、入れないことはない。
その、赤く濁った湯船に肩までつかると、ありきたりだからとこらえようと思っていた「あー」というやつがつい口に出る。
「あー」だか「ふー」だか。
さっき、無理して大量の夕食を食べてからというものの、こんな調子だ。
言葉を成さない言葉ばかりだ。
「あー」も「ふー」も飽いて、「うぇんー」とかになってきたころ、よくわからない扉から全裸が出てきた。
忘れていた。
ここは「洞窟温泉」だった。
あーふー世代を脱却しようと、僕は彼に話しかけた。
その扉の先って、どうなってました?
「なんか、袋小路でしたよ」
全裸が袋って、なかなかセンスいいですね。
もちろんこれは言わなかったけど。
小路もなかなかですよ。
これは、思いもしなかったけど。

ちょっとそこまで。12

料理を大量にもてなすことが最良とされた時代があった。
もちろんいいことなのだが、無理にそれをすすめることは一種の暴力あるいはヘンゼルとグレーテル的な、またはフォアグラのような、畜産のような。
そんな一面も、あることはある。
だから程度を考えるべきなのだ。
しかし、本来程度を考えることが最優先であるはずなのに、別の理由を持ち出すことでそれを考慮しない方法が、なぜかおばはんによく見られるのが、人間の不思議なところだ。
男の子なんだから、たくさん食べなさい。
若いんだから、たくさん食べなさい。
育ち盛りなんだから、たくさん食べなさい。
こう来る訳である。
先日書いたように、夕食はすてきでおいしいものばかりだった。
おいしいものが周りにあり、しかもそもそもそれ自体がおいしく感じられるくらいだったから、サザエ、アワビもどうにか食道フリーフォールにかけることができた。
ところが、とにかく大量に料理が出てくるのである。
やはり海が近いからだろうか。
刺身が多い。
板前さんが腕によりをかけたんだそうである。
確かにうまい気がする。
「腕により」の「より」が一体なんなのかは分からないが、とにかく彼の好意を無下にする訳にもいかない。
この日ほど夕食を大量に食べたことは、今までないのではないだろうか。
あーとかゔーとか言いながら、食後座椅子で動けなくなってしまった。
確かに僕は男であるから、さきほどの「形を変えた料理大量もてなし法」のひとつ、「男の子なんだから、たくさん食べなさい」は該当してしまう。
しかし若いだの、育ち盛りだのは、結構前にお上へ返上している。
あんなに大量に食事をくれる理由はないはずなのだ。
ただ、僕はちっこいので、宿側の方針「育ち盛りへの支給方法」には引っかかったのかもしれない。
あるいは「こいつ体小さいな。どんくらい食べるか試してみない?」という実験が水面下で、主に賭け事を主として行われていたかもしれない。
小さくったっていいじゃないか。
ガンダムF91だって、小さくなってん!!。
ともかく食事から1時間、僕は「お腹が一杯なので、あーとかゔーとか言う」というひどく平凡な人間になってしまっていた。
東京でもやっているようなテレビも、だらだら見てしまった。

ちょっとそこまで。11

海産物が苦手な人は、案外多い。
そんな人たちにとって、海沿いの宿に泊まるということは何か。
それはサザエ、アワビの肝そのものである。
「苦手だが夕食として出されるだろうサザエ、アワビの肝との格闘」とかではない。
「サザエ、アワビの肝そのもの」だ。
楽しい旅行が全て「サザエ、アワビの肝そのもの」になってしまう。
旅行のことを楽しく友人に話しているときも、頭の中は「サザエ、アワビの肝そのもの」になってしまう。
来年の年賀状の写真も「サザエ、アワビの肝そのもの」になってしまう。
覚悟はしていたが、宿の料理はひどく豪勢。
とても喜ばしいことではあるのだ。
温泉の湯で炊いたというごはんもおいしい。
しかしミニ鍋と、その台の中に鎮座する固形燃料の鮮やかなピンク色を見たとき、ああアワビが丸ごと出るのだと思った。
ほどなくして並べられた他の器にサザエのつぼ焼きを認めたとき、ああサザエの肝をちぎれないようにくるくるしなければならないのかと思った。
坂を転げ落ちるチーズよりも速く転げ落ちている自分に気づいたとき、ああ今回ばかりは「チーズ追い祭り」じゃなくて「俺追い祭り」にはならないかと思った。
もちろん、せっかくのおいしい料理なので、すべていただく所存。
だが。

ちょっとそこまで。10

ある人は言った。
「都心と田舎を区別する一番の要素は、自転車に乗った中学生がヘルメットをかぶっているかどうかだ」
僕がこれに賛成しないのは、こないだ自宅付近でそういった中学生を見たからというわけでもなく、今適当に作ってみたことだからというわけでもなく。
もっと納得できる要素を体得しているからだ。
海岸をうろうろしてきた僕は、やっぱり海岸をデジカメ持ってうろうろしてはいけないなと思っていた。
海岸を遊んでいる人は半裸が多いから、人の目やカメラに厳しい。
と、勝手にこちらが思ってしまうため、何となく人が入らないようにファインダーをのぞく。
と、こちらの恐縮を感じてか気味が悪いのか、遊んでいる人もその遊び範囲を狭めていく。
恐縮の深化。
このままでは、最終的には僕はカメラを叩き付けるだろうし、遊んでいる人は亜空間へ行ってしまう。
結果、カメラをしまって、ただうろうろしてきただけになってしまったのだ。
まあそれはそれで楽しかったが。
宿の部屋で、そんな亜空間のことを考えているときに、それはおとずれた。
「18時になると町内放送で音楽が流れ、小中高校生の帰宅を促す。そのとき、どこかの飼い犬が遠吠えする」
これが僕の「都心と田舎を区別する一番の要素」だ。
帰宅を促すまではそうでもないが、とにかく犬の遠吠えが重要である。
田舎は外灯が少ないから、太陽が沈んだ瞬間から、常に遭難のリスクがつきまとう。
おじいちゃんがいないなと思っていたら、2階で遭難していたという話もあるくらいだ。
故の町内放送。
終わりを告げる犬の鳴き声。
小さい頃に田舎へ長期住んでいたことがある。
その風景が、そのまま田舎の記憶と紐づいたのだろう。
「ここは、田舎だ!!」
そう気づいた僕は、亜空間のことを考えるのをやめた。

ちょっとそこまで。9

宿までの道のりのことを考えると、少し心配だった。
市街地なんである。
僕は、地元の方の住んでいる家と立地の混ざった宿は少しいやだった。
「心地よい開放感に、たまらず背伸びをするが、地元の人が水を撒いている」
別に悪いことはない。
しかしなんとなく「お前が今、たまらんと満喫している開放感は、俺たちにとっては日常だ。げへへ」と言われているような気がするのだ。
そして自然に囲まれたとまではいかなくても、自分の住んでいるところにはないものや情緒的な環境が、これから泊まる宿にはないのでは。
そうも思わせる市街、しかも私道じみた細か道っぷりだったのである。
しかし着いてみると、住宅は近いのだが田畑あり、海近いでかなり満足できるところだった。
夕暮れ時に着いたため、僕はそのときの海を見ようと焦った。
仲居さんが食事を心配するなか、ほどよくそれを切り上げた僕はデジカメを持ってさっそく海へ向かった。
しかしその意欲を遮るのが、カニだ。
アカテガニだろうか。
宿を出てすぐ、そのへんを走り回っている。
こういうのが、いいのだ。
僕の住んでいるところでは、道路にカニは出現しない。
せいぜいヒキガエルだ。
カニの出現は、海に来たことを感じさせるのには十分で、しかもアカテガニは程よい大きさだ。
捕まえられる。
海も気になるが、ここはアカテガニ捕獲でいこう。
しゃがんだことでデジカメががんがん路面に叩き付けられるが、まあいい。
夏休みで遊びにきているのだろう。
チャラめのサーファー兄ちゃんたちが温泉にだけ入ろうとロビーにいたことを思い出した。
「おい、カニだ。カニがいるぞ」
呼びにいきたくすらなってきた。
カニがいるのに、何を肌を焼くことがあるのか。
カニはすばしっこく、なかなか捕まえられない。
甲羅を抑えて、その両端をつまもうとしても、そこは自身も弱点であることを知っているのか。
両腕を広げて、踏ん張る。
結局、カニのことはあきらめた。
ここ10分ほどでの成果は、デジカメが多少ぼろくなったことだけである。
僕は腰をあげた。
もう50m先に海岸沿いを走る道路が見えている。
十分遊んだらしい親子連れと、彼らが乗ってきたらしい自動車とすれ違う。
例の、海のにおいが強くなってきた。

ちょっとそこまで。8

下調べもせず、あわてて予約したので知らなかったが、その宿は温泉があるらしく、しかもそれが洞窟っぽいらしいのだ。
駐車場で試行錯誤の末、ようやく駐車できた僕は、それを受付のパンフレットで知る。
なるほど。
駐車場で試行錯誤したことは、近くに停められていた車の持ち主には知られたくないことだな。
なるほどの使い方を間違えてしまったが、ともかく温泉という点が楽しくなってきた。
最近首が変だ。
以前痛くなったとき、近所の整体で、ゆがみを一撃で直してもらったことがある。
それは「治して」ではなく「直して」。
人と思われていないような扱いにより、痛みならずそれまで「ごく普通にあるもの」と考えていた頸椎のでっぱりをも消えてしまったのだ。
しかしまた最近、痛い。
温泉で好転しないだろうか。
仲居さんに部屋を案内してもらうあいだ、彼女はしきりに「廊下は暑いですが部屋は涼しいです」と恐縮。
僕はそんなに暑そうな顔をしていただろうか。
確かに涼しい部屋に着くと、その分余計に温泉が楽しみになってくる。
洞窟ってところもいい。
そんなことを考えていると、仲居さんが食事の時間をたずねてくる。
19時半というと、19時までだという。
しきりに19時までであることを恐縮する仲居さん。
僕はそんなに腹の減った顔をしていただろうか。
恐縮に対する恐縮返しを双方ゆずらないまま、なんとなくやっと一人になった。
一人で旅行するというのは、泊まる部屋で一人になったとき、初めてそれを実感するものだ。
独り言がはんぱなく発せられ始めるのも、ここからだ。
あー楽しみだ温泉。
だとか。
しかし温泉はまだだ。
食事もいつだっていい。
なんたってこの宿、出てすぐ海があるらしいからな。

ちょっとそこまで。7

「あれを越えたら 海が見えるよ」
JUDY AND MARYの「おめでとう」という歌の歌詞にそうある。
生活する上でどうしても視野に海が入ります、といった環境でもないかぎり、やはり海は特別だ。
今年はつらい出来事があり、かつ最中なわけだが、それでも蛇行する道路をつぶしていっているさなかに現れる海というのは、どうしても「あ、海だ!!」と叫ばずにはいられない。
海沿い近くの街中を走行しているのだとわかっていても、それはある。
何かの団体旅行でバス貸し切りで、外なんか見ていないで遊んでいたりしたとしても、誰かの「あ、海だ!!」でみんながそっちに移動、バスが片輪走行してしまうこともある。
一方、海に対して山というのは、あまりこういうのがない。
「あ、富士山だ!!」
富士山レベルならまだいいのだが、「あ、山だ!!」だとどうだ。
天気のいい日なら、島の面積にもよるが日本中どこにいても山は見えるんじゃないだろうか。
いつも見えちゃってるから、その分海よりありがたみが少ない。
残念ながら山、そういう扱いなのである。
その例が、あれだ。
「あれを越えたら 海が見えるよ」の、あれそのものだ。
熊本駅からそこそこ遠くまで運転。
左側、山。
右側、海。
ときどき、山中。
宿まで、そんな感じが続く。
これは山を越えたと言えるのだろうか。

ちょっとそこまで。6

熊本駅で帽子を購入することになったお店のおばちゃんが言うには、そこは田舎でかつ道が1本しかないから、とても混むということだった。
確かに、結果的には牛深市はすこぶる遠かった。
皮の長さを競っているときの、りんごのてっぺんから底の部分くらい遠かった。
とりあえず熊本駅と天草あたりを結ぶ真ん中あたりに宿を取っていた僕は、恐る恐るレンタカーを走らせて、そこへ向かうことにした。
それにしても最近の車は「おそるおそる」を表現するのが難しい。
ほんの少しアクセルを踏み込むだけで、ぶりりと進む。
宿に着くまでに慣れるだろうか。
すると間もなく。
のんびり走らせていると、何となくアクセルの具合がわかってきた。
「やっとアクセルがわかってきました」
そんな状態で車を走らせるなという気もするが、なんせ車がないと不便そうな風景が広がっている。
そりゃ走らせるよ。
と、そんなことを思ったような、思わなかったようなというあたりで、見覚えのある場所を通り始めたことに気づいた。
線路だ。
ここはずっとまっすぐに続く線路と道路が平行しているところで、以前来たときもなかなか感慨深い思いをしたんだったか。
まっすぐに続く線路。
夏、夕暮れ。
麦わら帽子、白いワンピース、線香花火、ユースホステル。
ごめんラスト行、よかれと思って。
二度目の場所は、黄昏どきには行かないほうがいい。
このシチュエーションで、何かに触れることのない人なんているのだろうか。
いるとしたら、ほぼ間違いなく脱獄のへたな巌窟王なので、今後に期待したい。
ipodからJUDY AND MARYの「夕暮れ」が流れてきた。
宿までまだかかるというのに。
あわててヒャダインの「カカカタ☆カタオモイ-C」に変える。
なんだ。
なかなかいい歌じゃないか。

ちょっとそこまで。5

以前、レンタカーを借りたときのことを書いたと思う。
内容は覚えていないが、とにかく「車はみんな仕組みは同じだが、それでも慣れていないやつを運転するのは、たいへん」ということを終始主張しただろう。
それ、正解。
駅からそう遠くなく、珍しく迷わずに見つけたレンタカー屋さん。
車種とかオプションとか何も考えずに予約したのだったが、唐突に気になりだした。
カーナビはついているのだろうか。
カーナビがないと、この地で僕は翼はあるが恐ろしく近視のタカみたいなものになってしまう。
いや、よだかか。
しかし星にはなりたくないので、まあ何かだ。
とにかく、この旅行の数少ない目的も達成できなくなってしまう。
そうなるとサイドミラーはついているのかハンドルはついているのかと、そこまでは思わないまでも。
それでもカーナビがついていないのならハンドルもついてなくていいやくらいの侠気は芽生えてきた。
予約時間よりも幾分早く到着した僕を、元気のいい姉さんが迎えてくれた。
もう乗せてもらえるらしい。
カーナビの件を心配しながらもあないしてもらう。
と、車をみて、僕の心配は不要だったことに気づく。
ついてる。
カーナビついてる。
最近のレンタカーには、普通の奴ならたいがいカーナビは付いているということだ。
いける。
これで僕は熊本のぐねった峠を攻めることができる。
「あ、ちなみにこれ、サイドブレーキはブレーキの横にあるタイプですから」
「エンジンはブレーキを踏んだ状態でスイッチボタンを押すことでON/OFFしますので」
ハ、ハンドル取り外してもらえます?。