ちょっとそこまで。24

数は少ないが、やたら飛ばす車が走る道路を渡ると、もう目の前は海だ。
浜辺に下っていく階段を、砂でレンタカーが汚れることも考えずにかけおりる。
と、途中で止まる。
それは大量のフナムシに臆したわけではなく、ここには昔、なんだかでかいマメ科の植物がたくさんあったことを思い出したからだ。
僕は植物のことはよくわからず、この階段の周りに生えている草を見ても、それがその植物なのかどうかも思い出せない。
しかしなぜマメ科の植物であるかを指摘できるかというと、まさにマメをそいつが育んでいたからであって、しかもそれが大きいのである。
故に覚えていた。
もしかしたらまだあるかもしれないと、海岸にも降りずに探したが、よくわからなかった。
そのマメを大事に採取したような気もするが、それもどうしたか覚えていない。
結局、巨大マメの痕跡は記憶にしか残っていないのである。
階段を降り終えると、さらに大きくなって海は僕の前にあらわれた。
カニが穴を掘って暮らしていた土壁はコンクリートで固められてしまっていたが、それ以外は何も変わらない。
夏休みで遊んでいる子供が2人。
子供がいることも変わっていないし、それは確か昔からいつも2人だった。
人数も変わってない。
僕はタイドプールが好きで、ファミコンに飽きたときはたいがそこでやどかりをじっと見ていた。
一番気に入っていたその場所付近で、ミナという巻貝を採っているらしいご夫人が見え隠れする。
あのご夫人も、たぶん変わっていない。
ミナばっか食ってる。
変わったのは、極端に足が海水に触れるのを恐れることくらい。

ちょっとそこまで。23

いい雰囲気のバス停を過ぎるとその近くに、以前には見られなかった花壇と、モニュメント的な人工物が立てられている。
ここは黒石海岸だよ、と教えてくれている。
そうか、ここは黒石海岸だったのか。
そしてこのモニュメントには、ここが日本の夕陽百選のひとつであることが記されていた。
そうか、百選のひとつだったのか。
海まわりの夕陽はきれいだ。
だから、これを見たとき、最初は「日本には海岸が百カ所以上ある」と勝手に解釈してしまっていた。
ところがよく考えてみると、この夕陽百選の中には、おそらく海まわり以外の場所も含まれているにちがいない。
だから、もしかしたら海岸としては唯一のランクインかもしれないのである、黒石。
すごいぜ。
しかしそのすごさも、この「夕陽百選」はどれほど本気のものなのか、ということに尽きる。
本気でない、さしてやる気のない委員会が主催したのなら、ランクインしたところの多くは「ああやっぱり、あそこか」という、みんなおなじみのものになってしまうだろう。
しかし本気なら、例えば「葛飾区の伊藤さん宅ベランダ、身を乗り出して」がどうしてもすばらしく、ランクインさせちゃいました。
そんなこともあるはずなのだ、本気は。
「群馬県に住むまりもさんが所有するケータイの内部メモリ、23枚目」
「神戸市の今井さんが7歳のとき見た、おったけやま頂上からの夕陽」
本気の結果なのだとしたら、これらもいたしかたない。
むしろ後者のなどは、失われた点がむしろ高評価だ。
どうだろう。
黒石の夕陽は、これから失われゆく夕陽だろうか。
僕にとって黒石の夕陽は、失われて久しい。
今日も失ったまま、ここを去るはずだ。

ちょっとそこまで。22

お地蔵さんのある道路を抜けると、散歩としてはかなりの一大イベント、海が見えてくる。
道路をはさんで見えてきた海はきれいな緑色をしていて、いわゆるエメラルドグリーン。
いつもは、海がエメラルドグリーンなんてそんな恥ずかしいこと言えるか!!。
70年代のアイドルか何かかばかやろう。
という心境なのだが、本日ばかりはそうも言ってはいられない。
しかも都合がいいことに、引き潮だ。
散歩冥利につきる。
僕は、おいしいものは最後に取っておくタイプなので、とりあえず道路を渡る前に、海とは反対側、要は山なのだが、そちらを散策することにした。
こういうところは、山と道路の境に生き物がいたりする。
僕はここで大きいムカデを見てから、よりムカデが嫌いになった。
散策でまず目に入るのが、生き物ではなくてバス停。
南天と書かれたそれはサビがハンパなく、その形状からさほど古くないはずなのに、もう壮年期。
物は高速に動けば動くほど時間の進みが遅くなるというが、そのいいとこエッセンスのみを考えると、まあバス停だから仕方がないというところか。
当たり前のように、バスの来る本数は少ないが、かようなところでも落書きがちゃんとあるのが微笑ましい。
まとめると、ここはいいバス停だ。
最近、ようやくバス停の良さがわかってきた気がする。
散策を続ける。

ちょっとそこまで。21

天草は僕が小学生のとき、夏休みに訪れたところだった。
1ヶ月くらい滞在しただろうか。
南天の集落のある一軒で、せっかくの田舎だというのに僕はファミコンを持参、勝手に接続してゲームばかりしていた。
そして昼には突然小道に現れる野犬、夜には天井から落ちてくるムカデに、おびえてばかりだった。
1ヶ月の田舎ぐらしの割には「ばかり」が多く、要はイベントが少なかったわけだ。
それが田舎なのかもしれないが。
しかし、そんなゲーマーな僕でも海の魅力には勝てなかったとみえる。
散歩をしていると、宿泊先から海岸までの道のり、その場所すみずみにいたるまで、けっこう思い出すことができた。
まず、海岸までの道のりには、海に出る少し手前にお地蔵さんがまつられている。
小学生の時は、このお地蔵さんの足下に、東京では見たことのないような形状のゴキブリの死骸がたくさんあった。
今思うと邪教の催し物だったのではないかとも考えることができる。
しかしその頃はそういうものだと思っていた。
お地蔵さんに供えられた物を食べると、見たこともないような形状のゴキブリの死骸になる。
うそである。
僕はそんなに、夢見がちな子供ではなかった。
ゴキブリのこともサツマゴキブリというやつであることは知っていたし、お地蔵さんの供物をどうこうしてもバチはあたらないだろうと考えていた。
そしてそもそも、それほどお地蔵さんについて、注目していなかった。
僕が感じたのは、サツマゴキブリの死骸って、黒い小判みたいなんだ、ということだった。
海へ出ようとしたとき、このお地蔵さんを見つけた。
さっき車で通ったときもあることを確認していたが、その足下は見えていない。
まだあるだろうか。
子供の頃に見た、黒い小判が。
お地蔵さんは、意外と言っては失礼かもしれないが、こぎれいにされていた。
そしてもちろん、黒い小判はなかった。
「以前はああだったけど、今はどうか」
その確認は、この旅行の目的のひとつだ。
この確認のおかげで、僕はひとつ、自信を持ってあることを言うことができるようになった。
「南天のお地蔵さんには黒い小判があったんだけど、ないときもあるんだ。今はわからないけど」

ちょっとそこまで。20

南天に知った人がいる。
とは言っても面識がほぼないという、サプライズを仕掛けるには少々難敵というのが、気になるところだった。
しかしその人は、突然現れたあまり面識のない僕を快く迎えてくれた。
おじゃまと思いつつも上がり込み、他愛のない話を長々としてしまった。
しかしどうしたことだろう。
その人には既に親戚の方が訪問していたのである。
これがサプライズというものだ。
こっちがびっくりした。
こりゃ申し訳ないと、お菓子を渡してほうほうのていでおいとました。
親戚の方の中には僕を知ってくれている人もいたが、こちらはあせるばかりで思い出せず。
知らないやつが突然訪れて、マドレーヌを置いて去っていくという、よくわからない訪問となってしまった。
結構不審者で、あわてて退散するさまをみても、親戚の方には詐欺をやるものに見えただろう。
ごめんなさい。
しかし考えようによっては、知らないやつが突然マドレーヌを渡して去っていくというストーリーに、何かときめくものを感じる人もいるやもしれない。
そして今、何かマドレーヌって言葉がひっかかっていたのだが、それが「マタドールに似ている」ことである点についてひっかかっていたのだと分かった。
知らないやつが突然マタドールになって去っていくというストーリー。
ぜんぜん面白くないが、気になる点はある。
知らない人とマタドールというのは、どうもイコールで結びづらいところだ。
というのも、知らない人だがマタドールであることは分かっているのだから、「知らなさ」という点においては「知らないだけの人」よりも格段に「知っている」ことは明白だ。
そしてそもそも「突然マタドールになる」というのも難しい。
衣装や赤いマント、そして牛がいないことには、マタドールになるというのは難しいのではないだろうか。
そして牛を去らせろよ、お前が去るな。
マタドールについては、この程度だ。
しかし、牛はいないが豚はいる。
南天には豚を飼っているところがあるのだ。
おいとました僕は、そこいらを散歩することにした。

ちょっとそこまで。19

そこにはバス停があるはずなのだった。
南天。
しかしネットで調べてもいまいちな反応。
ネットとしても不安なのだろう。
「そこ、ほんとにあんの?」
牛深市を目指している理由というのは、その南天の場所がいまいち絞れないからであって、とりあえず街へ出てから考えるか、という軽い気分だった。
しかし市街へ到達するずいぶん前から、なんとなく見覚えのある町並みへと車を走らせていることに気づいた。
南天が近いのだ。
魚貫(オニキ)を通り過ぎると、僕が小学生の夏休みに過ごした岩だらけの海岸が少しも変わらず現れた。
今日は引き潮。
間もなく、バス停が見える。
たぶん恐ろしく錆びているだろうが、おそらく南天のはずだ。
小道に入る。
おそらく何もかわらない、お地蔵さんがまつられているはずだ。
何もかわらない空き地に車をとめる。
「炭坑で栄えた町」という言葉がぴったりな、ごく小規模の集落が見えるはずだ。
後ろが山で、前が海というプレイバリューあふれる立地。
近所のお店は20年ほど前に閉店して、それ以降ない。
炭坑はそうなのだろうか。
えらくもろくて崩れ落ちそうな山肌。
でも、今回はいることができないけど、ここの星空のすごいことを、僕は知っている。
南天、到着。
12時過ぎ。

ちょっとそこまで。18

牛深市へ向かっている道中、見覚えのない道のりを少々不安に思ってきた僕のまえに、デパートの「イオン」が現れた。
どうやら、今までの混雑の何割かは、こいつの駐車場待ちが原因としてあるようだ。
しかしそんなことはどうでもよく、僕はうれしくなった。
というのも、以前牛深市へ向かうとき、このイオンがあったはずなのだ。
ということは、道は合っている。
そして何よりも、ここいらの地域で、唯一と言っていいほどの娯楽施設が、このイオンだったことを思い出したのだ(やや失礼)。
イオンに通いまくっていたあの頃を思い出す。
目の前には海があった。
裏には山があった。
しかしそんなナチュラルアミューズメントにも食傷気味になってきた僕らの前に現れたのが、イオンだった。
牛深市街ならともかく、僕らが泊まっていたそこはコンビニも外灯も、知り合いもなく。
星はきれいだが夜は暇で仕方がなかった。
そんななかで、煌煌と輝き人の集まるイオンは、アリマキにとっては最高級草汁間欠泉、アリにとっては最高級草汁間欠泉、アリクイにとっては最高級草汁間欠泉みたいなものだった。
しかし、今はとりあえず牛深市へ行くのである。
思い出のイオンを通り過ぎ、そう遠くないころに目的地に着けそうだという期待が膨らんできた。
10時半。

ちょっとそこまで。17

行く先は天草、牛深市。
ここにかろうじて知った人がいるのである。
今泊まっている宿から目的地までは、カーナビ換算だと2時間程度。
しかし熊本駅で「道が1本しかないから、くそ混む」的なことを聞いている。
故に8時半出発。
相手には訪問を知らせていないため、あまり朝早くてもどうかという大人的配慮と、突然訪れたったろうという子供的配慮がすばらしく融合した、いい時間だ。
ほんのり道を間違えたりしたものの、松島有料道路まではかなり順調に進捗した。
運転中はいらいらするようなシーンもなく、音楽も楽しめた。
しかし有料道路を降りて少し進んだ所あたりから、だんだんと混み始める。
こういうとき、自分の入る道路の先が遠くまで見えてしまうことは、苦痛以外の何者でもない。
確かに道は1本。
ずっと先まで車が詰まっているところを目の当たりにすると、工事などの単発的な渋滞原因ではないことに気づかされ、がっくりしてしまうのだ。
仕方がないので大声で歌い、それを対向車線の人に見られても気にすることなく。
そしてかなりぐねった合流車線を越えたあたりから、どうにか混雑も収まってきた。
と同時に、道が山に囲まれだす。
不安だ。
向かっている所は海に近い所なのに、山だ。
以前も同じ道路を通ったはずなのに、見覚えがない。
確か、5つ橋のあるところがあった。
あそこはもう通っただろうか。
紳士服の店が2件、近立している。
なぜだ。
もしこのあたりの紳士の密度が全国平均の2倍だったとしても、紳士服の店は1件でいいはずだ。
そもそも紳士の密度を計算するには、紳士の何たるかが数値化されていなくては出ないはずだ。
何気にそういうデータがあるのだろうか。
まずは坂道でオレンジをたくさん転がすのだろうか。
胸ポケットからぴこっと白いハンカチが出ているのだろうか。
雨の日、カサを持たずにバス停で待ってみるのだろうか。
あんまりこういうの、好きじゃないな。
このあたりのバス停は、なかなかのモラトリアム感を出している、ような気がする。
帰りに写真を撮る、と心に決める。

ちょっとそこまで。16

不思議なもので、「この時間に起きるぞ」と考えてから寝ると、その30分前くらいに目覚めることができる。
便利だが、単に眠りが浅いだけのような気もして、差し引きゼロ。
結果、日常を過ごしている。
朝食の少し前に目覚めて、さっさと浴衣から普段着に着替える。
昨日、宿に到着した僕を見て、仲居さんがあわてて持ってきてくれたMサイズの浴衣。
どうも僕の名前は、ガタイが大きい人のような印象を与えるのか。
部屋に用意されていた浴衣はLサイズだった。
浴衣というのは、大きさもさることながら慣れていないと、朝たいへんなことになってしまうことは有名である。
確かに、たいへんなことになっていた。
たいへんなままで食堂へ向かっては、食堂がたいへんなことになってしまうため、普段着に着替えるのだ。
食堂では既に幾人かの宿泊客が食事を取っていた。
年配の方が多い。
普段、僕は朝食を食べず、そのときはコーヒーを飲むくらい。
あまり健康的ではないと思われるため、その習慣を脱却したいが、どうにも胃が食べ物を受け付けない。
前日たらふく食っただとか全く食べなかったかに関わらず、少しでも物を食べたら吐いてしまいそうにすらなるのだ。
しかしせっかくの朝食を食べない訳にはいかない。
仲居さんが炊飯器前でじっと僕が茶碗を持っていくのを待っている。
待ち伏せている。
お前まだ来ないのかと待ち伏せしている。
なんとなく、今彼女のもとへ行ったらFF的にはバックアタック判定になりそうだ。
もちろん彼女の元へは後ずさりしながら行ったわけでもなく、普通にごはんをもらい。
そしておいしいなりにも苦手な朝食を、どうにか進めていく中で、伊勢エビの入ったみそ汁の強敵っぷりを目の当たりにしたのである。
おいしいが強敵という、デレツンなみそ汁をやり終え、今日の予定を再考する。
8時半、天草方面へ。

ちょっとそこまで。15

宿に1泊。
明日は朝が早いので就寝することにしたが、なんだかんだいってこの部屋をちゃんと見ていないことに気づいた。
じっくりと見回してみる。
何の変哲もない、和室風の部屋だ。
ガキの使いの罰ゲームで松本氏が肝試しで使用していた部屋に似ている。
若干「避難はしご」の位置を示すプレートが傾いている。
ほぼ90度傾いている。
僕の部屋は火災などの緊急時、逃げ遅れた人が向かうべき場所として、廊下に矢印が振られている部屋だった。
避難はしごがある部屋は限られているのだろう。
実際にそうなったとき、僕は逃げてきた人にはまず首を90度曲げてとアドバイスしなければならないのかと考えると、眠たくなってきた。
掛け軸がある。
以前書いたと思うが、オカルト好きな人間にとって、掛け軸の裏を確認するというのは宿泊先に対する礼儀みたいなものである。
ただ、ここで確認してしまうと「なんか怖いことが起きました→掛け軸の裏にお札が貼ってありました」の黄金順序が頓挫してしまう。
「掛け軸の裏にお札が貼ってありました→でも寝たら、怖いことが起きました」
「部屋を替えてもらえばよかったのに」という指摘に、僕はなんら反論できない。
掛け軸の裏に何が貼ってあると面白いかというのはなかなか興味深いが、とにかく明日は早い。
ふとんに潜り込む途中、机の上の灰皿が目に留まった。
重厚な灰皿。
よくある、ドラマで誰かの頭を殴りつけてしまうタイプの灰皿だ。
掛け軸の裏、確認しておくか。