浜沿い表面張力

蝉の声を聞く度に
メニスカス九十九里浜
椎名林檎の「歌舞伎町の女王」で、もちろん「メニスカス」の部分は、本当は「目に浮かぶ」だ。
高校だっただろうか。
理科の授業で初めて聞いた「メニスカス」。
試験管などの容器に液体を入れたとき、その液面がちょい曲がる。
そのことを言うのだっただろうか「メニスカス」。
日常生活においても何となくはそんな「ちょい曲がり」が起きる事を知るシーンは多い。
しかしなぜそのことに名前をつけたかね。
そう思った事もあったが、ちゃんと液体の量を計測するうえでは、その方法のほかに「ちょい曲がる理由」くらいは知っておいても損はない。
そうともなれば名前くらいあってもいいかという気分である。
こういう、意外なものにも名前がついている、というのはおもろいし、実際おもろい人がいじったりもしている。
となると、ものに名前がついていないというのはおもろくなく、ぜひどんどん名前をつけていってもらいたい。
誰か頼む。
ところで冒頭の「メニスカス九十九里浜」。
なんだかスペクタクル。

n択

今年はじめ、シベリア少女鉄道の舞台に行ってきた。
とても面白く、かつ今回は体育座りじゃなかったので、腰も平気だった。
この舞台で気になっていることがある。
あるシーンで聴かれた、観客席からの「おー」という声についてだ。
終わっているのにネタばれも何もないと思うが、そのシーンはおおよそ次のようなものだ。
パチンコでスリーセブンが出そうになっているとき、まんなかの数字だけがまだ確定していない。
文じゃぜんぜんわからないが、まあそういったシーン。
そこでまんなかの数字が決まりそうになるところに神父が現れ、手に持っていた十字架の下部を曲げ「七」にして、みごとスリーセブンがそろう。
後半の怒濤オチの一角である。
この、「七」が現れたとき、観客席から「おー」という声が少し聞こえたのだ。
僕にはそれが気になってしょうがなかった。
僕にとってこの場合の「おー」は、予想外のときに発せられるものだと考えていたから。
というのも、このシチュエーション上、「7」を表す何かが登場することは想像に難くなく、神父役の人もかなり思わせぶりにそのシーンに登場してきたのである。
その神父は冒頭からその十字架を手にちょくちょく登場していたため、「最初から手にしていた十字架が、まさかここで七になるなんて!!」という意外性もないわけではないが、それにしても「おー」はないんじゃないだろうか。
僕としてはこのシーン、神父が登場したときに「どうにかして「7」を表すか」「不条理」の、どちらが起きるのか。
それが楽しみだった。
そして今回は「7」を表すほうになり、僕は「そっちか、うまいことやりやがって。おもろ!!」と楽しんだわけである。
ということで、それ以外が起きたときだけ僕は「おー」と口にしただろうし、もしくは「おー」たる何かを、僕が見逃してしまったかだ。
と、例えば「十字架を曲げて七にしようとしたとき、爆発する」を挙げようと思ったが、これが「不条理」なのか、長い目で見て合理的な意味を物語上持つものなのかどうか、わからなくなってしまった。
「神父が舞台中央にたち、そのまま幕」というのも考えたが、何気にメタ展開とでも言うべきこの方向性に似た事を、既に劇中やっちゃってくれているので、これもどうか。
今まで何回かこの劇団?の舞台を見ているが、毎回格ゲーのn択のごとき展開を用意してくれる。
観客に予断を許さない人たちなのだった。
そして今回、僕なんだか気持ち悪いやつ。

100の喜び、50の落胆。

最近、隙あらば100円を捻出するような買い物のしかたをしている。
みどりがめのガチャガチャをするためだ。
それは300円という、集めることに迷ってしまうような金額だ。
ガチャガチャゾーンで100円を込める時間も恥ずかしい気がしている僕にとって、その時間が一般的なガチャガチャよりも3倍かかるという点でも、この300円という金額はつらい。
しかしそのかめを並べてみると楽しかったので、ついガチャガチャの前で座り込んでしまうのだった。
そしてあることに気づいた。
このガチャガチャは、みどりがめが少ない。
どういうことかというと、種類が「みどりがめ」と「みどりがめアルビノ」の2種類あり、要は慣れ親しんだみどりのやつと、全身白のアルビノなのである。
10個くらい買ったが、どうも白いやつばかりが出る。
みどりのものは2匹くらいだ。
簡単な話だ。
みどりのほうが細かく塗られており、たぶんアルビノより大変なのだろう。
だからって、なんだ。
みどりがめのガチャガチャなんだから、みどりのがいいに決まっているじゃないか。
その数が少ないなんて、あんまりじゃあないか。
みどりのが、いいんだ。
そしてあることに気づいた。
このガチャガチャは、やっぱりみどりがめが少ない。
どういうことかというと、種類がやっぱり「みどりがめ」と「みどりがめアルビノ」の2種類あり、要は慣れ親しんだみどりのやつと、全身白のアルビノなのである。
20個くらい買ったが、どうも白いやつばかりが出る。
みどりのものは4匹くらいだ。
簡単な話だ。
やっぱりみどりのほうが細かく塗られており、たぶんアルビノより大変なのだろう。
だからって、なんだ。
みどりがめのガチャガチャなんだから、みどりのがいいに決まっているじゃないか。
その数が少ないなんて、あんまりじゃあないか。
やっぱりみどりのが、いいんだってば!!。

ぺんぺんぐさもはえない。

太古より、富の象徴は絶える事ない水のめぐみそのものである。
その水を永遠にたたえるという聖杯のうわさは、文字が生み出される以前からあっただろう。
それほどに聖杯を求めた話、伝承は多い。
しかしその主役である英雄たちの旅路は、悪い結果ばかりだった。
帰ってこなかったのである。
実は、どこに聖杯があるのかはおおよその見当がすでについていた。
しかし誰もその存在を確認、戻ってくる事もなかったのである。
そこには悪魔がいるらしく、聖杯を守っているとか。
どうも英雄たちはその悪魔にやられてしまったのだろう。
わたし、トトはその場所に、まさに今やってきている。
聖杯を手に入れるため。
ただ正直なところ、躊躇している。
気の遠くなるような長いあいだ、聖杯を守ってきた悪魔。
聖杯を手に入れることができれば、母国の安泰は確実だ。
しかし悪魔を倒さねば、それは達成できない。
その場所は、どうみても小さい一軒家だった。
わたしは今、ちょうどその玄関前にいるのだった。
あまりに聖杯があるというには牧歌的なたたずまい。
それに感化されたのか。
わたしは無謀にもノックをしてしまった。
「どうぞ」
意外に優しい声。
悪魔は力や魔力というより、人の心につけ入る能力に長けたやつなのだろうか。
「どうぞ」
まただ。
遠慮するでもなく、しかし強制するでもなく。
絶妙だ。
「どうぞ、ちょっと自分動かれませんので」
なんか下手だ。
優位に立つ者こそ下手に出るというが、それだろうか。
おそるおそるドアを開けて中をのぞく。
一部屋しかない。
と、部屋中央の腰掛けに座る男に気づいた。
凝視する必要もなく、明らかな悪魔だった。
雄牛を思わせる角が頭から生えており、老人にも似たその顔は醜い。
悪魔である。
しかし悪魔は、さっと身構えようとするわたしを制するわけでもなく、ごめん動かれないんでと一言。
わたしに部屋に入るよう、仕草をした。
部屋のようすをより観察してみると、思いのほか整頓されている。
しかし悪魔の部屋だ。
何があるか、わかったものではない。
部屋に入ろうとしないわたしに対し、悪魔は慣例のようにこう伝えた。
「聖杯でしょう。できれば持っていってくださいよ」
「来た人みんな、なんかあーあみたいな表情で、聖杯持っていかんのよ」
聖杯という言葉を聴いて俄然勇気が出てきたわたしは部屋になだれこむ。
どこだ聖杯は!!。
「これです、僕の座ってる、これ」
「これ、水が絶え間なく出ますんよ。部屋汚れるし、ふたなくして」
「だから仕方なく座ってますの。持ってってくれるんなら助かるんですけど」
悪魔、ベルフェゴールはそう言って器用にほおづえをついた。
ウォシュレット発見の瞬間である。

いいくすり

「太田胃散がいい薬かどうかは、俺が決める」
そう言いながら大量の小麦粉をお腹に叩き付けている。
わたしはそれを見て「それは小麦粉です」とは言えなかった。
あまりにあなたは真剣だったし、わたしもそれほど、太田胃散に注目はしていなかったから。
そのときの傷がもとであなたがこの世を去ってから3年。
わたしはその悲しみをお酒で忘れようとした。
でも、できなかった。
胃のむかつきに効くんだもの。
太田胃散。
さとる、ありがとう。
いい薬よ、太田胃散って。
追伸
太田胃酸だとずっと思ってました。

小僧、ひとつ。

「一つなんとか小僧」のような妖怪はどのくらいいたのだろうか。
いわゆる「一つ目小僧」のたぐいである。
いや、妖怪の話題に「いわゆる」なんて言葉を使うのは変なのだが。
「例の妖怪の件なんだけど」
こんな会話が日常的にかわされる妖怪マニア間でしか、使ってはいけないのではないだろうか「妖怪の話題に関するいわゆる」。
もちろん彼らの間では、「件」は「くだん」と読まれる。
さて話は戻るが「一つなんとか小僧」だ。
「ひとつくち小僧」
大丈夫だ。
もちろんいたはずで、それはそこらにいる小僧大半を占めていたはずだ。
すわなちただの小僧であり、妖怪ではない。
ざんねんだが、僕の考えでは大多数の普通の小僧にまぎれて「一つくち小僧」が生息していたのは間違いない。
水木ぐち(水木しげる漫画に登場するキャラクターの多くが供えている、独特なくちの形状のこと)が特徴である。
「ひとつ箸小僧」
僕がその存在を思いついたとき、もう悲しい逸話が3個くらいは想像された。
3つとも、結果的には箸関連で打ち殺されてしまった小僧の念から生まれた感じになる。
「ひとつおぼえ小僧」
馬鹿なのである。
庭を掃くよう命じたら、その場所ばかり掃き続け。
30cmくらい掃き下げてしまうくらい、馬鹿なのである。
あまりの馬鹿さに主人は畏怖を覚え、晴れて妖怪化。
「小僧、ひとつまみ」
ちょっと趣向を変えてみた。
多分に妖怪なのだろうが、多分に怖くない。
類似案件に「小僧を少々」などもあり、男なんてものは一種のスパイスみたいなものよという、ある種のフェミニズム。
「ひとつ小僧、ふたつ少女」
1姫2太郎みたいなもので、その点では全く妖怪ではない。
しかし気を許すと「ひとつ小僧、ふたつ少女、3なすび」となり、結構いろいろ考えると思いのほか奥深く、そしてよろしくない。
あくまでなすびの妖怪的な色合いだけに注目、「ああ妖怪じみてるね」程度で終わらす。
こういろいろ挙げて参りましたが、結局は、ひとつのどうこうの妖怪ってのは「一つ目小僧」が一番しっくりくるわけでしてまあ、いわゆるひとつの。
おちなくても、おわり。

ヤツメウナギについて。

ヤツメウナギをご存知だろうか。
とかいって僕もあまりよく知らない。
見た目気持ち悪いから。
確か、ほぼうなぎだが種類は違って、えらの穴がちょうど目の後ろに幾つか目立って見え、それが目を含めると8こ。
だから八つ目、だった気がする。
彼ら円口類はその名の通り、吸盤みたいに丸い口を持っており、他の魚などに口で引っ付き、血をすするという、人間社会ではあまりほめられない摂食方法をとる。
先日書いたように、ヤツメウナギの鼻の穴に相当する器官はひとつなのだそうだ。
ここに、和名をつけた学者の葛藤が目に見える。
「ヤツメウナギなのか、ヒトツハナノアナウナギなのか、にゅるりん棒なのか」
結果、ヤツメウナギにはなってしまったが、僕としては「ひとつ屋根の下うなぎ」が気になる。
え、そんなもの挙げられていないって?。
本当?。
おかしいなあ。

なんとか小僧について。

妖怪には「なんとか小僧」というのが多い。
apple storeには妖怪関連のレファレンスがいくつかあり、妖怪には事欠かない。
一つ目小僧
そでひき小僧
そろばん小僧
他にもたくさんいるようだ「妖怪なんとか小僧」。
ただ、例に挙げたものを見るかぎりでは「一つ目小僧」の妖怪っぷりは目を引く者がある。
他のは、下手すると近所にいたし、今もいる。
要は普通の子供である。
一つ目小僧には今後ともがんばってもらいたいところだ。
それにしても妖怪には多いよ「なんとか小僧」。
「なんとか男」「なんとか女」もけっこういそうだが、やはり小僧だ。
いなかったのか、小僧以外には。
「一つ目淑女」
いたんじゃないんだろうか。
だが一つ目であることが恥ずかしかったんじゃないだろうか。
だから知られていない。
「そでひき熟女」
銀座とかに今でもいるんじゃないだろうか。
妖怪という観点でも、あんがい。
「そろばん少女」
もう、「そろばん少女愛ちゃんです」って昔ニュースでやってなかったっけ?という感じすらある。
「あしながおじさん」
実は妖怪でした。
「破裏拳ポリマー」
なんか書きたかった。
並べるといい感じになると思う。
そでひき小僧
そろばん小僧
破裏拳ポリマー
混ぜてもいい。
そでひきポリマー
そろばんポリマー
破裏拳淑女
ところで、この場合のポリマーって何?。

ひとつ

一つ目小僧はいたらしいのに、一つ鼻の穴小僧がいなかったらしいのはなぜだろうか。
「実はいたが、目立たなかった」
もっともな意見である。
ヤツメウナギなどの円口類に属するぬめぬめたちは鼻の穴に相当するものが一つだそうだ。
そして、そもそも生物が鼻みたいなものを持ったときに、それが穴ひとつだったかふたつだったかも、よく分からないらしい。
一つで悪いことはない。
ひとつなら、唇と鼻の間に存在する謎の溝がちょうと鼻息の通り道となるため、都合がいい。
片方だけ詰まって気分が悪いこともない。
一つ穴は死ぬか生きるか、だ。
でも、やはり人間、いままで二つ穴で慣れ親しんできたため、一つは見た目怖い気もする。
一つ穴を見たとき、それは二つの穴を隔てる壁を手術で取っ払ってしまったんじゃないかと思うだろう。
それにしても、なんかいろいろ気になってきた。
1妖怪は「なんとか小僧」が多い。
2ヤツメウナギの鼻の穴が一つとかって、それ以前にヤツメを気にするべきだ。
3「一つなんとか小僧」のような妖怪は他にいたのか。
次回、1。