リンケージ、たんす。

たんすというと、あれだ。
よくテレビの問題で出てた「たんすの単位」だ。
確か正解は「棹」で、たんすのことは「ひと棹、ふた棹」と数えるはず。
たんすは「いっこ、にこ」でも「いち台、に台」でも「いちたんす、にたんす」でもないのである。
これがこう話としてあがるのは、単にその「棹」という一見たんすと結びつかないのが変、という点が唯一の理由だろう。
本当は、誰もたんすの単位なんてどうでもいいと思っている。
しかしこの「たんすは昔分解して、部品を棹に通して持ち運んでいた」という点に意外性がある。
今はたんすを分解して持ち運ぶ人はいないだろう。
そのままどうにかして持っていくか、ハードオフに持っていくか。
まあ持っていくわけだが、分解はしない。
故に、もうたんすが「棹」などと呼ばれる筋合いはたんすにはなく、しいて言うならばそれこそ「いちたんす」や、持ち運び手段に注目するなら「いち軽トラ(軽トラで持ち運び)」や「いちひとり(人間で持ち運び)」が妥当なのである。
ということで今でも人々がたんすを「棹」と呼び続けるのは、せいぜいその意外性を知っているか知らないかのボーダーを楽しむためのものであるに過ぎない。
せめて、昔人々が大雨で川に流された時、分解したたんすの板を奪い合ったなんて話があれば、たんすは「あ、このたんすは20カルネアデスの板だね」なんて言えたかも知れないのに。
でも、正直そんな由来や史実、妄想はいらないですね。

リンケージ、すきま。

よく、神経質な人と「ドアの隙間」や「たんすの少し開いた状態」との関係が、「養老乃瀧」で話題となる。
僕は、自分ではあまり神経質だなんて思っていないが、そういった「すきま」は気になるほうで、それはもうフィギュア4レッグロックかけられているときに、かたやロープ、かたや少し開いているたんす。
となるとまずどちらに行くか迷う、なんてことになるわけである。
ともかくこういった特徴の人たちは、たいがいあだ名が「宮内庁」とかなったりして、それはもう宮内庁が迷惑なのである。

リンケージ、トライアングル。

小さい頃、「トライアングル」というお酒のコマーシャルがよくやっていた。
子供ながらに何かかっこよさそうとしているそのCFを見て、何か吉川晃司のことを思い出したものだ。
何か、吉川晃司は三角形だった。
トゲのあるようなイメージがあるのかも知れない。
ただ、形も三角形だったような気がする。
髪型もサングラスも肩幅も。
ここで普通、彼の画像を本来は探すべきなのだが、僕はそうしない。
当時の僕が抱いていた彼のイメージを、これからも大切にしていきたいからだ。
ところで話は変わるが、本当は今回、楽器「トライアングル」にある「すきま」について何か書こうと思っていた。
すごく昔はあったらしいのだ、あの「すきま」のないバージョンが。
でも、なんか「すきま」のことはいいや、と感じてしまった。
故の吉川晃司。
ごめん晃司。

リンケージ、音楽隊。

僕は、音楽を聴くのは大好きだが学問としての音楽は苦手で、今でも僕が経験した最低スコアは中学校の音楽で、9/100だった。
思い出してほしい。
あなたの中学生自体の同級生で、2年生のときに音楽、9点取ったやつはだいたい僕だ。
歌うのはいいのだ。
トライアングルをちきちき鳴らすのもいい。
しかし「音符」が全くわからない。
興味もわかない。
あの、5〜9本くらいあっただろうか。
そんな線の中のどこに位置するかで音の高さを示す方式は、視覚と聴覚総動員という、メンタルローテーションならぬセンスローテーションとでも言うべきか。
とにかく脳が追っつかない。
そんな僕にとって「音楽隊」とは何か。
僕は、音楽隊を見るのは大好きだが存在としての音楽隊はあまり見た事がない。

リンケージ、反論。

昔、ニュース23という完全に23時から始まりそうなニュースがやっていて、そのコーナーのひとつに「異論、反論、オブジェクション」という、セブンイレブンがいい気分になりそうなやつがあった。
それに対しては全く何も思うところはないのだが、ちまたではよく「明らかに許諾できないような意見であったとしても、ただ反論に終始するのではなく、一度その意見を認めた上で、それよりいい方法があるという形で反論した方がいい」
「確かにその方法もいいですよね」
「でも、こっちの方がよくありません?」
こんな流れのやつ。
確かに相手の意見を尊重する感じがするが、どうもめんどくさい。
ロバ「俺、一番上に乗ってみたい」
犬、猫、にわとり「!!」
ブレーメンの音楽隊、発足はじまって以来の危機である。
このときに「確かに、ロバがにわとりよりも上っていうのもいいですよね」と誰か言えるのだろうか。
あの四本足の巨躯を、あろうことが二本を翼に費やしてしまったにわとりが支えるというのだ。
さらにその重みを、猫だか犬だかが耐える事になる。
さすがロバ。
中世ヨーロッパでは馬と比べてあほとされていただけある。
今考えた限りだと、かろうじてこれか。
「確かに、ロバがにわとりよりも上っていうのもいいですよね」
「でもそれって、ただ凶暴なロバが動物達を踏み殺した図になりません?」
これでロバが、現状が最善である事に気づいてくれればいいのだが。

リンケージ、口癖。

最近の僕の口癖は、話はじめに「変な話」と付加してしまうというもの。
「変な話、お酒飲みながら物食べると太りますよね」
「変な話、冬って寒いじゃないですか」
「変な話、諸行無常の響き、あるよねー」
これは、結構な数の人が口癖になっているような気がする。
そして、その理由はこれから話す事に自信がなかったり、見当違いの事なのではないかと感じているときっぽい。
だが、僕の場合は少し違う、と勝手に考えている。
この口癖が出てしまう時、相手からはいつも「変な話じゃないのに、なんでそう言うの?」と突っ込まれてしまうのだが、これについては反論があるのだ。
すなわち、僕が「変な話」というのは、これから変な話をすることを自覚しているときである。
そして僕が自覚している「変な話」とは、人が何かを話はじめることの行為自体だ。
そもそも何かを話しはじめること自体が変だと思っているため、たいがいの話はじめには「変な話」を付けざるを得ない。
そしてその内容がネオテニーだったりカニバリズムだったり曲がるストローの話だったりそれっぽく嘘を話したりするのだから、これはもう二重に「変な話」と断っておくべきで、ちゃんとそうしている僕は偉い。

リンケージ、某。

中学生というのはどんな時代であっても、「そこそこ社会性を持ち合わせた人々が一堂に会する」、はじめての環境ではないだろうか。
故にここで奇妙な知識や習性を獲得してしまうと、客観的にはそれが間違っていると感じていても、それに固執してしまう。
そんな困ったことが起きやすいところでもある。
僕は中学2年生のとき、インテリな友人から「どんな固有名詞にでも「(某)なにがし」を付ければ特定を免れる」ということを聞いた。
何だその免罪符みたいな発想は。
そう思いながらも、これを「もちろんみんな分かっているが、体裁上は隠してますよということにしたい」というものも含有していると考えればまあ面白いかな、と今でもよく使ってしまう。
「池田某さんって「端的にいうと」ってのが口癖だよね。ぜんぜん端的じゃないけど」
「某鈴木さんのカバンから、大量の生米が押収された」
このような場合、教室や職場に池田さんや鈴木さんが一人しかいなかったとしても、あくまで「池田姓の誰か」「鈴木姓の誰か」、もしかしたらただ、「誰か」なのである。
便利である。
明日にでも試してみるといいよ。

リンケージ、鼻先。

手塚治虫の漫画をみていると、登場人物にほぼ自身だろう、という感じの漫画家が出ていたりする。
そのメタっぷりは古くさくもちょっと好きなのだが、とにかく目立つのは、この「漫画家」のキャラクタの鼻先からふき出ている何か。
機会があれば確認していただきたい。
手塚漫画で手塚治虫自身を投影しているキャラクタの鼻先を。
なんかふき出しているから。
脂質や角質なのだろうか。
そうなると、ふき出す描画にするだろうか。
鼻の穴なのだろうか。
しかしふき出す描画は鼻の穴から出ているようには見えないああなんで僕のPCは「鼻の穴」で「花野アナ」に変換されるんだ。
確かにそうそう「鼻の穴」についてどうこう打つ機会は少ないだろうが何だってアナウンサーのことだと思うんだ。
この世の全ての人が女子アナのことを考えているなんて思ったら大間違いだ。
女子アナがどこかの球団の誰某と結婚したっていい。
女子アナがなぜ「女性アナ」と呼ばれないのかなんてのも、どうだっていい。
というか「花野アナ」っていう女性のアナウンサーはそもそもいるのか。
というか結構僕、女子アナの事、考えているのか。

リンケージ、透明。

またしても猫が増え、大変だ。
子猫なので部屋の中を自由にさせている一方、他の部屋には行かせられないので、出入り口のところに金網上の小さい扉を設置した。
これで何が困るかというと、夜遅くに帰って灯りをつけずに廊下を歩く時、この扉の事を忘れているとぶつかってしまう。
小さいから被害はないのだが、恐ろしく大きな音を立てるので、寝ている人を起こしてしまうのだ。
世界中のガラス業界にとって、西暦というのはいかにガラスを透明に近づけるかの歴史であるという。
ということは定かではないが、少なくとも透明を目指してがんばってきました、というのはあるだろう。
それはなぜかと尋ねたら、誰かなにか僕の納得できる回答を返してくれるだろうか。
最近のガラスの透明さは、業界のみんなががんばってくれたせいか。
鳩を衝突させ、人の鼻先を衝突させ、物を食っている人をよく観察できる。
要はガラスの「存在感のなさ」がハンパない。
むしろ模様を付けて、ここにガラスがありますよをアピールする始末である。
もちろん、先ほどの問いの回答のひとつに「内外を遮断した上で、内が見たい、外が見たいという願望を実現するため」というものがあるのだろうが、それにしてもあまりに透明で存在感がないと不安になるケースがあるのも確かである。
一旦、自動ドアが開いていると思ってのドーン、を経験してしまうと、しばらくは「目の前にガラスがあるかどうか」を確認するため、恐る恐る手をかざしながらの入店になってしまうことがある。
これはちょうど、冒頭の金網の扉を警戒して僕が家に帰ってきたときの動作とそっくりなので、どうも「透明」「存在感のない」ということと「暗闇」というのは、人間にとっては同じようなものなのだろう。

リンケージ、叫ばれながら。

最近の「リンケージ」とタイトルに付いている回は、その前日に出たあるキーワードについて何か書く。
そんな手抜きで行っている。
昨日、「叫ばれながらそこを押される」という旨の一文を書いた時、なかなか「叫ばれながら」何かを「される」、あるいは「する」。
そんなことはあまりないな、と思った。
徳永英明の歌に「輝きながら」というのがあったが、これも「輝かれながら」だと、え、一体誰が僕のためにと思ったり、いつも二番目でどうこう、と別の意味でいい歌になりそうだ。
一方で「叫ばれながら」は、自身が怪物であったり地縛霊であるならばいいのだが、そうでない場合はちょっと困ってしまう。
要は、「叫ばれながら」は「叫ばれながら、光線銃で狙われる」「叫ばれながらも、街を破壊する」や「叫ばれながら、お札を向けられる」「叫ばれながらも、半透明具合を調整する」などがしっくりし、あまりいいイメージはない。
受け身になっただけのはずなのだが、受け身状態になじみがないというだけで、こんな違和感。
ただ、よく考えてみると「叫ばれながらも、卒倒した女の子の介抱を指示する」など、ロックスターのようないいイメージも取り上げる事ができることに気づく。
このような二面性というのは、ちょうど「輝かれながら」。
月を彷彿とさせる、と早急にまとめたがるのは、ちょっと今が7月14日でテレビでやってる「モンスターズインク」を見るのに忙しいから。