昨日のブログで「天下の台所、大坂」のことを取り上げ、そのなかで「天下の0.9LDK」という旨の記載をした。
もちろんその必要性は「台所」がポイントなのだが、一方で「LとD」の部分はどう考えればいいのか。
ふと足を止め、ガラスに映る自分の姿に、ああ歳をだいぶとってきたなとため息をついてしまった。
僕はほとんど大阪に行った事がないため、街の雰囲気から「LとD」を考える事はできない。
「道頓堀付近は俺のリビングだ」
おそらく「よく知っている場所だ」「庭みたいなものだ」なのだろうが、せっかく大阪なのだから、以下のほうがいいだろう。
「道頓堀付近は俺のダイニングだ」
大阪は美味しいものが多いため、これならある程度「よく知っている場所だ」が失われない。
一方で「外食が多いです」と聞こえなくもないが。
そもそも「天下の台所」を「0.9LDK」にする必要もなかった。
「0.9K」でも問題ないはずなのだ。
しかしいきなり「0.9K」だと、よくある「LDK表記」のことなのかどうか、分かりづらいと思った。
「K」を野球の三振やストライクのことであると勘違いされると「0.9K」とは、これまたどう考えればいいのか。
「9割はアウトだが、1割の確率でセーフとなる」
なんだこのサービス精神は。
一方、同じ内容なのだが、こちらはかなり疑問の生じさせない、明快な表記となる。
「野茂英雄 ドクター0.9K」
90%は三振を奪う、脅威のドクター誕生である。
投稿者: nimbus7942
おでん
味がしみ込んでいようが、まっしろであろうが、僕は非常にはんぺんを好む人間なので、おでんの中にはんぺんがないときはかなり悲しい。
先日、関西の人から聞いた「はんぺんというものを最近初めて見た」という事実は、僕の関西の印象を著しく低いものにした。
「関西の人、ちょっとはんぺんがないのはまずいんじゃない?」
何がまずいのかというと、せっかくたこ焼きなどのおいしいものがある「天下の台所」であるわけだから、そこがはんぺんを逃しているのだとしたら、「天下大部分の台所」とか「天下90%の台所」、「天下の0.9LDK」などと記さなければならない。
そこがまずい。
ちなみに僕は「天下の台所、大坂」はもうさすがに「天下の台所、大阪」でいいんじゃないかと思っている派である。
ともかく、はんぺんがないのは悲しい。
ただ、これもそうサンプル数がない意見であるから、関西で全くはんぺんがない、ということではないだろう。
僕からしてみればはんぺんはかなりうまいから、その知人のところでもそれがなかったとは考えにくい。
おそらくだが、「はーぺん」など少し違った呼び方だけされていて、実際はあったのだと思う。
ということで、僕の中でのおでんの最たるものは、「ふたを開けたらはんぺんが膨れて表面を覆っている」ものである。
そして具がちくわぶばかりだったら、申し分ない。
どうも、味がしみ込まない食材が好きなのである。
体温計
ちょっと体調が悪かった。
喉がすごく痛かったり、ぼーっとしたり、全然変換決定しようと思ってなかったところでエンターキーを押してしまったり。
とりあえずかぜ薬飲んで寝ようとしたら、その夜中に自分の熱で目が覚めた。
自分の熱で目覚めるとは色気もへったくれもなく、いろいろと傾向が良くない。
熱っぽいので体温計を探すが、見当たらない。
発見しても電池切れだったりする。
以前、飼い猫の体温を測るために使用していた体温計は、と探しはじめと同時に躊躇する。
確かあれは、猫のお尻に突っ込んでいたものだ。
時に人の脇、口内、時に猫のお尻など、体温計というものは肉圧され続けるものなのだなあと考えた訳ではないが、なんとなくあれはいやだ。
かろうじて発見できたのが水銀を用いたアナログなもので、測ってみると39度もあり、これは目覚めてしかたないなとため息をついた。
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水銀の体温計で体温計が割れてしまうシチュエーション考察
①保健室で片思いの子が隣にいることに気づいた時
②口にくわえて計測中におでんのたまごなどを強制的に食わされる
③気圧がすごく低い場所での計測
④炎の魔人的なものが体温計を爪楊枝がわりにしようと持った時
⑤体温計の彼女が悪者に誘拐され、「昔のマンガみたく体温計がリミット限界で割れるシーンを見せてくれたら温度計ちゃんを返してやる」と言われた時
⑥ずっと液体窒素の中に入られたのち、いきなり人の脇に挟めたため、速度の加減がわからなかった時
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頭痛もひどいので、とても寝られたものではない。
汗もかくくらい熱いが、一方で寒くもある。
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デジタル体温計で表示部分が壊れてしまうシチュエーション考察
(※体温計最大計測値を42度とした場合)
①保健室で片思いの子が隣にいることに気づいたため、体温計なりの演出として表示部分に「ハート」を表示しようとがんばった時
②外気温が43度
③説明書に載っているやってはいけない事をだいたいやった時
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まあ、薬飲んだら良くなったんでいいんですけど。
最後に、デジタル体温計を首に刺して相手を殺す、必殺仕事人みたいなことを考えた時、相手が死ぬと同時に「ピピピ」と鳴ると面白いと思いました。
石油
タンクローリーの後ろを走ることに一家言ある人が多い事に、少し驚いている。
知り合いが「タンクローリーの後ろを走ると気持ち悪い」と口にした時、何が気持ち悪いのか、全く想像つかなかった。
しかし聞いてみると何の事はない。
鏡面のように光を反射するそのボディに、自分の車が映るのが、何かしら錯覚を見ているような気分になるということなのだ。
確かに、タンクローリー車のいくつかは、どうしたんだと思うくらいテッカテカである。
石油だかガスだかを運ぶから、温度変化を抑止したいのだろうか。
しかし幾人かは、その構造にときめきを感じるようだ。
「テッカテカだなー」くらいしか感想がなかったのだが、気にしてみるとなかなか面白い。
おそらく、あのテッカテカと曲線。
昔の体温計が割れたときに見た、水銀を思い出した。
あるいは青空を映し出した水たまり。
はぐれメタル。
いずれもその意外性、幼い日の思い出や経験値と、何かしらときめきを産み出すには十分だ。
だが、冒頭の知人の件もあるように、ときめかない人もいる。
彼はなぜ気持ち悪いのかというと、「吸い込まれるような気がして気持ち悪い」ということだ。
水銀が産出できた鉱山では、水銀が地下水のように壁面を流れていたと聞く。
暗かったと勝手に考えるが、そこに流れる光沢ある液体。
あるいは昔から水銀は不老不死の薬として扱われた時代がある。
あくまで推測だが、おそらく権力者は今のウイダーinゼリーくらい、がぶがぶ飲んでいたはずだ。
それで命を落とした権力者の話も多い。
どちらにせよ、いい気のしない話である。
そして申し訳ないのだが、もう眠いので以下の話は省略する。
・底の見えない、濁った水たまりに飛びいるときの緊張感について
・はぐれメタルを服用したときの経験値の考え方について
・水たまりへ飛び込むこと、はぐれメタルを服用するという2点と知人の「吸い込まれる」という感覚の、言葉の共通点について
・水銀は180kcalなのかどうかについて
・ウイダーinゼリーのパッケージが銀色から変化しない点について
いやーいま省略した部分が、結構面白くなる予定だったんですけどね。
ボーリング
ボーリングが苦手だ、という人の話は多い。
まず、機材をそろえるのがたいへん。
そして規模が分からない。
目的も分からない。
調査目的なのか、石油なのか。
よし!!。
ということでよく言われるのが「仲間ときゃっきゃ」の部分だ。
一投してストライクなんか取った日には、戻り際にハイタッチ。
あれが困るというのだ。
確かに、ボーリングは明確な競争相手がいない場合も多い。
そんな中、チーム内で盛り上がるしかないのである。
ただ、この「仲間ときゃっきゃ」が苦手という話は、少々聞かされすぎている気がする。
苦手なのは分かる。
しかし、人間関係というものは案外、どんな人であれ苦手な部分があると思う。
「三度のメシよりコミュニケーションが好きでね」
そんな人はあまりいない。
もしいたとしても、上記のフレーズは信用できないし、何か卑猥な感じすらする。
ちょっと冒頭の方の「ボーリング」を持ち出してもいいかもしれない。
ともかく、実は人々が思っている以上に「仲間ときゃっきゃ」は、つらいのである。
そんななのだから、「仲間ときゃっきゃ」が苦手というのはもう「自分は人間です」みたいなものだ。
人間の、共通部分だ。
「自分は人間です」
「自分は呼吸をして生きています」
「自分は球をおもいっきし曲げて投げる人の、投げ終わったときの姿勢に興味があります」
「自分は拍手を、音量を重視して少し角度を付けて手のひらで音を出すようにします」
「自分はスイートポテトはもう少しカロリーが低ければな、と思います」
投げるフリ
もしかしたらちゃんとした研究があるのかもしれないが、人間というのは「投げるフリ」をされると、何でも受け取ろうとしてしまうような気がする。
ボーリングの球なんかもそう。
相手に投げるフリして、驚かした人も多い事だろう。
何なんだあれは。
お前無理だろ、ボーリングの球を受けるなんて。
もちろん例外もあって、例えば雪合戦。
雪玉を投げるフリされると、みんな避けようとする。
当たるとアウトなはずだから当たり前なのだが、あれはかなり人間の「受け止めたい思い」を抑制した、異常な状態なのではないだろうか。
異常な状態なのに、きゃっきゃきゃっきゃしてんなおまえら!!
と、雪が降った時、近くの公園へ聞き耳を立てていたが、そういった声が聞かれない。
最近の若者は雪が嫌いなのだろうか。
それとも猫なのだろうか。
いや、そうではないだろう。
人間だから、やはり雪玉であっても「受け止めたい」のだろう。
それを許さないルールが、若者の雪合戦離れを引き起こしているに違いない。
どうすればいいんだ。
受け止めてもいいが、当たってはいけないとなると、もう「体から超高熱を発し、受け止めてもいいがその前に雪玉が蒸発する」方法しかない。
それは僕の「どうにか物事を落ち着かせたいという思い」を促進した、異常な状態なのではないだろうか。
みかん
先日、みかんを持って歩く、と書いた時、不謹慎ではあるが「みかんは持って歩けないだろう」と思った。
それはもちろん「みかんを持って歩く事がおかしい」ということではなく、とにかくみかんは投げやすい。
もしかしたら人は、何かしている状態でみかんを持たせたら、投げてしまうのではないかと思ったのである。
例の、こたつの件は気にしなくていいだろう。
確かにこたつ上にあるみかんを投げるやつなんか見た事はない。
あるとすれば自分の目の前にあるみかんを、対岸のこたつ同居者に投げ与えるくらいだろう。
長い、こたつではある。
しかしあり得ない事ではない。
ところがこれが、家の中ではなく外。
そして歩いているときになんかみかんを渡したら。
「投げる訳ないじゃないか」
もっともである。
しかし「歩きながら上に放り投げる」。
これはいきなりありそうではないだろうか。
上に投げて、上に投げて、相手に投げるフリ。
あながち、である。
そうなると冒頭の「みかんを持って歩く」というのは、正しくは「みかんを上に放ったり、投げるフリしたりする」であり、そして「みかんを上に放ったり、投げるフリしたりして、ストレート!!」もそう遠くない。
そんなことを考えると、もっとみかんは大切にしなくてはならない事が分かった。
愛媛県
私の家族は誰も四国に降り立った事が無いように思う。
私の生まれる前だったり、何かしらの理由でこっそり行ったというのなら分からないが、とりあえず「こないだ暇だったから四国に行ってきたよ」と聞いた事がない。
そういう点で、四国はフロンティアである。
ただ、その中でも「愛媛県」は、とにかくみかんが有名だと分かっているから、フロンティアとしてはかなりの情報が得られていることになる。
愛媛県のみかん推しはずいぶんと前から情報操作、プロパガンダが横行しており、その影響はもはや方向の修正が不可能な域にまで達していると思う。
「いやー愛媛県とくればLANケーブルの爪がよく折れる県として有名だよね」
誰も信用せず、「LANケーブルの爪がよく折れるのも有名だが、それよりみかんでしょ」と補正されてしまう。
それどころか、嘘を否定しない上でのみかん推しということで、もうみかん以外の何物も入り込むニッチはないようだ。
だが一方で、ここまで「愛媛県=みかん」の構図が出来上がってしまっていると、例えば愛媛県でみかんを片手に歩いていると、少し恥ずかしいのではないかと勘ぐりたくなる。
愛媛県でみかんを持って歩く。
少しできすぎな気がするのだ。
ということで、夜中の2時前にこれほどまでに愛媛県とみかんのことを考えてしまって。
愛媛県からはみかんをたくさんいただきたい気分。
東京タワー
僕を知っている人の幾人かは、僕の地理の知識のなさを奇跡的だと表現する。
先週、一番心揺さぶられた出来事は「神戸は兵庫県にある」という事実を知った事だった。
それまでは、神戸は大阪か名古屋あたりにあるものかと思っていたが、どうやら兵庫らしい。
しかも、それはかなり有名な事であるらしかった。
すごいじゃないか、兵庫というところは。
猛省した。
そういえば名古屋は愛知県だそうだ。
愛知県は、僕の中の日本地図ではかなり南西に位置しているが、一方で名古屋は結構東京寄りと思っていたため、このカルチャーショックも大きかった。
自国の地理の無知さをカルチャーショックという言葉で表すな、という向きもあるかも知れないが、その自国の事がさっぱりわからないわけで、まさにこの言葉はぴったり。
様々な人の話を聞いてみると、どうやら僕の「愛知県」は、「愛媛県」と「高知県」の強烈な位置イメージが悪影響を受けてしまっているようだ。
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僕が、致命的に義務教育過程の「社会」をないがしろにしてきていたのが、ここにきて露呈しまくっている。
いや、いままでもかなり露呈していたはずだ。
ただ、電車に乗れば目的地には着くし、その辺を散歩している人に聞いてみてもいい。
言いたいのは、何か楽観的な、どうであっても楽しいだろうという根底が僕にはあるらしいことだ。
僕が神戸が兵庫にある事を知った時、確かに恥ずかしかったが、同時にすごくアハ体験だった。
今、アハ体験という言葉がすんなり出てきた事に驚いており、これがさらなるアハ体験を産み出しているが、とにかく兵庫の件は楽しかった。
僕は東京タワーに行った事がないが、もし今後行く機会があるとしたら、そのとき「神戸」の感じをやはり受けるような気がする。
もちろん、「東京」って名前に入っているから大まかな場所は分かっているわけだが、大丈夫だ。
「えっ、こんな曲がり角曲がったら東京タワーなの!?すげー」みたいな。
コンパス
先端というものに対して恐怖や恍惚を受容できない僕は、自分が俗にいう先端恐怖症だったら、なにかひとネタ書けたかも知れないのにな、と思う。
これは、本当にその症状で苦しんでいる人にしてみれば失礼な話だ。
ただ、やはりちょっとよく分からない「先端恐怖症」。
疑問は数あるが、例えば先端とはどの程度の角度を持つものが対象なのか。
「先端恐怖症」というと、とにかく「針」が思いつくのだが、もっと鈍な、鈍角なものも対象になりうるのだろうか。
面白い事に、この疑問の、回答ともなりえるもう一つの恐怖症について、ネット上では結構情報がある。
「球体恐怖症」
あーっ丸い!!
丸い丸い丸い!!
うわーっ!!
こんな感じなのか「球体恐怖症」は。
話を戻して「先端恐怖症」だが、その大きさや距離はどうなのだろう。
東京タワーを見ただけで怖いのだろうか。
あるは東京タワーの先端を大型双眼鏡で見ると怖いのだろうか。
ただ、僕がとんがっているものについて気になるのは、例えばコンパスの針の方を、痛いと分かっているのになぜか指の腹でちょんちょん触ってしまう。
そんな人は結構多いと思うのだが、あれは一体なんなんだということである。