僕が井上陽水のコンサートに行くのを人に喋ったときの「ライブ」という言葉と「コンサート」という言葉の使用頻度は、ほぼ同じだったようだ。
※あとから「コンサートどうだった?」「ライブどうでした?」をなんとなく集計した結果
なので、僕にとって井上陽水は「ライブ:コンサート=1:1」のミュージシャンであると言える。
自分で言っておいてなんだが、なかなか僕の井上感を的確に表しているような気がする。
それに、この考え方は結構わかりやすい。
例えば「笑点」について、僕の「笑点感」を考えてみたら、
「大喜利:マジック=1:1」となった。
あまり笑点を見ていないので申し訳ないが、それでも僕は「笑点で大喜利とマジック以外のことをやっていたら、それは笑点ではない」と断言する。
これほど強気に言えるのは、繰り返すが何よりも「笑点は大喜利:マジック=1:1の存在」であることは揺るがないわけだし、しかも「笑点で大喜利とマジック以外のことをやっている人たちは、むしろ自分達がやっていることは笑点ではないよ、と思われたいのではないか。」と感じているからだ。
この考え方だと、僕の「12チャンネル感」は
「12chらしさ:処刑ライダー=1:1」というところだ。
「12チャンネル感」に「12chらしさ」というのは難しいところだが、まぁ回帰的な何かだ。
僕における「12チャンネル感」の面白いところは、「12チャンネル」から「12chらしさ」を除外したら「処刑ライダー」しか残らない点だ。
「俺からマラソンを取ったら、何が残るんだよ!?」というセリフがあるが、実際にマラソンを奪ったとしても、彼は食い、遊び、考え、笑うことができる。
しかし12チャンネルではそうもいかない。
残念なことに、12チャンネルから12chらしさを奪ったら、処刑ライダーが残る。
いや、残ってしまうのである。
そして、残ってしまったものがなんとも12チャンネルだなぁ、という点が、12チャンネルの12チャンネルたる所以だ。
最近の12チャンネルでは処刑ライダーをやっていないようだ。
12チャンネルの人は考えてもらいたいのだが、12チャンネルは12chらしさだけで12チャンネルになっていると思っていたら大間違いだ。
なぜかお昼に映画枠がある、その意味を忘れないでもらいたい。
お色気シーンが時間的にそぐわないようだったら、深夜でも構わない。
処刑ライダーの定期的な放送が、12チャンネルを維持するのだから。
・・・
でも、時代は変わった。
僕の12チャンネル感は既に過去のものであることは明白だ。
あんまり見ないうちに、変わったよな、12チャンネル。
若者の集う放送局、テレビ東京。
あのCMのコピーも、かなり若者向きだ。
「ホップ!! ステップ!! 12チャンネル!!」
・・・最後に嘘をついてしまった。
追記
マジックの内訳は「マギー:ナポレオンズ=2:1」だ。
投稿者: nimbus7942
あきらめムード
物語の主人公は、時として「深い意味を持たされたらしい言葉」を聞いただけで敗北してしまうことが知られている。
「私、あの夜は彼と一緒だったの・・・。」
な!?。
まだあきらめんなよな、な!?。
コンビニ本コーナーでの出来事かも知れないじゃん!?。
「私、彼の家に行っちゃった・・・。」
な!?。
はやとちりするなよ、な!?。
筆談に違いないんだよ!?。
「私、彼とずっとふたりっきりだったの・・・。」
な!?。
気にするなよ、な!?。
今、オンラインゲームが流行っていたよな!?。
「私、名字が変わったの・・・。」
な!?。
まだ泣くなよな、な!?。
今、そういう方向の出家も流行っていたよな!?。
ということで、主人公はちゃんと再確認を怠らないようにすれば、もしかしたら逆転できるかもネ。
ただ、これらの言葉を言われてあきらめないやつには、物語の主人公はちとムズイかもというのは、否定できない。
つもり。その3
昨日からの続き。
【あらすじ】
HP120で火に弱いヤツを考えてみたら「HP」って血液量のことかも、って思えてきた。
「HPって血液量かも?」と思えたのだが、もう一つの特徴「火に弱い」についても考えてみると、すぐに難題にあたる。
ほとんどのゲームにおいて「火に弱い」ヤツといえば、だいたい以下のものではないだろうか。
・ゾンビ
・ミイラ
・木がモンスター化したもの
血液、ない。
木については、どうにか樹液を取り上げることができるだろう。
「怪物樹に30のダメージ!!」
怪物樹からは樹液が「30」流れ出す。
彼が怪物になる前、かたぎの時代は、どんな種類の樹木だったのだろうか。
うるしだったら攻撃した側も何らかのダメージがあるかもしれないし、くぬぎだったら子供たちは夜が待ち遠しい。
このように木だったらまだ「HP=血液量」説をどうにか採用できるが、ゾンビ、ミイラにはつらいところ。
それでもゾンビはちょっと残っていそうだが、ミイラともなるとむしろ「体液ありません」が売りのような面もあり、血液案を採用する余地は、ない。
ここだけは、血液量ではなく、包帯まき量と代えさせていただきたいところだ。
でも、結局「HP120で火に弱いヤツ」がどんなやつなのか、いまいち把握できないまま、眠くなる時間になってしまった。
「HP120で火に弱いヤツ」を探す行為は、学者が「モノポール」を探す行為にほんの少しだけ似ている。
そして、かぐや姫が求婚者のひとりに要求した「火鼠のかわごろも」を探す行為には、ほぼ等しいのだ。
つもり。その2
昨日からの続きです。
【あらすじ】
HP120で火に弱いヤツを考えてみる。
ゲームを指定していない時点で、だいぶ破綻しているが、まぁ考える。
上記のようなヤツを考える上で、とにかく問題となるのが「HP」の概念だ。
何なんだ、HP。
多くのゲームにおいて、HPがなくなると戦闘不能という扱いになるので「生命力」とでも言い換えられるのだろうか。
しかし、言い換えても問題は解決しない。
何なんだ、生命力。
一番最初に思いついたのが「体の大きさ」だった。
しかし「体の大きさ120」が、敵からの攻撃を受けて「体の大きさ60」となってしまうのは、ちょっと具合が悪い。
HPが0になってしまうと、戦闘不能となる。
それもそのはず、体の大きさが0になってしまうのだ。
HPが0になると復活できないゲームもあるが、それでも死体くらいはあるだろう。
HPは体の大きさではなさそうだ。
そのあと、いろいろ考えてみた。
・肺活量
・生きる力
・コミュニケーション能力
どれも今ひとつで、しかも冒険などよりは道徳や保健体育の授業でレベルアップできそうなものばかりだ。
と、思い出した。
「HP」は「120」と定数で表すことができ、しかも回復させられる(増減する)という点だ。
「血液量」はどうだろう。
この案のいいところは「攻撃される→傷つく→血が出る」というところ。
「血液量120」が、敵からの攻撃を受けて「血液量60」となるのは、問題ないだろう。
HPは血液量のことだったか。
ゲームによって単位が異なるのか、かなり値に差があるため一概に「HP120のヤツは26歳くらいだよ」とか「献血はHP400以上の方から」と言うことはできないが、とにかく血液量だったのだ。
人間の血液量は、その体重の何%分だったか。
そして、どのくらい体内から失われてしまうと生命の危機が懸念されたか。
忘れてしまったが、とにかく想像していただきたい。
例の「HP120」のヤツが「24」のダメージを受けたとしよう。
ゲームでは数値の増減くらいでしか認識できないが、かなりジョッファーッとなっているはずだ。
しかも2割。
血液を2割失ったのだ。
HP120のヤツが「敵」なら、あとはじっと見ているだけでよい。
もし「味方」なら、間髪いれずにあらゆる回復処理を試みた方がよい。
ゲームのやつらは、僕らが思っている以上に体はってる。
つもり。
映画「パプリカ」のオープニングで流れる曲(媒介野という、「野」の持ち味を生かした曲名)がいたく気に入った、のに気付いたのが2時過ぎ。
もう近所のツタヤが閉まっている時間だ。
ところが僕は、映画を見る前にサウンドトラックを借りていたらしく、PCに曲が入っていて狂喜竜虎乱舞してしまった。
このように、僕は見ていない映画のサウンドトラックを借りたり、持っていないゲームの攻略本を買うのが好きだ。
曲だけを聴いて映画の流れやシーンを想像するのは案外楽しいし、攻略本だけでなんとなくゲームをした気にもなれるというものだ。
それでいて、実際に映画やゲームに触れたときに「このシーンであの曲流れるんだ?」や「やっぱり町外れのほら穴から入れるんだ?」などの、別の感動を味わえる。
ただ、あんまり知らないような映画のサウンドトラックは、あまりに聞いてても分からないので、だめだ。
TVのBGMでときどき流れる、くらいのものがいい。
もちろん超有名でもOKだ。
その点では、ジブリ系はかなり使用されているよう。
ジブリ系は映画館では見ないということが、僕のポリシーかつマニフェストに挙げられているのだが、サウンドトラックはいち早く借りる。
※もちろん、買わないのは僕のポリシーかつマニフェストに挙げられているのだ。
映画では聞くことのできない、歌詞つきの曲なんかがあるので、TVで曲が流れたときに歌うと「こいつ何言ってんだ」感が広がる。
それでいて映像もあとあと楽しめるので、大変よいのだ。
攻略本に関しては、詳細なデータが掲載されてれば、ほぼ図鑑と同じ楽しみ方ができる。
「生息地 本州、四国」という情報と「HP120 火に弱い」という情報が等価なのだ。
「この虫、うちの近くにもいるかも」と「じゃあ、火属性の武器が効くんだな」と思うのも同じ。
ただ、虫は現実世界にいるが、HPが120で火に弱いヤツは、ちょっと現実世界で探すのは難しい。
僕の場合、ゲームすらやらない可能性があるので、現実世界でも、ゲームでも出会わないだろう。
そんな、必要性皆無の情報が載っている点こそ、持っていないゲームの攻略本のいいところだ。
ところでいきなりだが、気になってきた。
永遠に出会わないかもしれないやつが。
明日
HP120で火に弱いヤツについて考える。
お楽しみに。
長耳
サザエさんが喉に物を詰まらせたときに発する音を「んがんぐ」と表現した人はなかなかのなにかの持ち主だ。
しかしあの音は、僕には「うーわってんとん」としか聞こえない。
何故、文字数が倍も違うのだろう。
思うに、
・鼓膜に到達するまでの道が二手に分かれており、その先に鼓膜が別々にある。
・耳小骨が6個。
・蝸牛(三半規管の絵のくるくる部分)が、人より多く回っている。
・リンパ液がすごくゆるい。
・シュレックみたくなっている。
・入り組んだ外耳。
・耳がぱたって閉じる。
・鼓膜の先にまた鼓膜があり、伝言ゲームのようになってしまう。
・耳の中の小さな人が、入ってきた言葉を翻訳してくれている。
・本当に「うーわってんとん」と言っている(台本にもある)。
のどれかだ。
台本にはどのように書いてあったのだろう。
「うーわってんとん」と書いてあったなら、「んがんぐ」と聞こえた人はだいぶリンパ液が濃いはずだ。
気になる。
ちなみに耳小骨6個はなんとなく「つち、きぬた、あぶみ、みそら、ぎぎ、ふらむ」とかいう感じ。
えび・空からのおくりもの
道を歩いていると、「海鮮かつ丼」という旗が、はためいていた。
かつ丼にえびの天ぷらがのっている商品のようだ。
かつ丼のお店ということもあって店側はゆずらないだろうが、これは「天丼の上にとんかつがのっている」という見方もできるはずだ。
と、なると。
天丼屋がそのような商品を開発したら、どのような名称となるのだろうか。
「かつ天丼」
一見大丈夫そうだが、ちょっと「肉の天ぷらだけがのっている?」と勘違いされやすそうだ。
「肉天丼」
これも「かつ天丼」と同様の問題点があるだろう。
「肉感天丼」
なんだか、歌舞伎町とかで売っていそうな感じになってしまった。
このように、天丼屋では「かつ+天丼」商品の命名がうまくいかない。
これは、天丼で最重要項目である「えび」を「天ぷらの天」に置き換えてしまっているからである。
ためしに、天丼の天を、本来のえびに戻してみよう。
「かつえび丼」
かつとえびがのっていることは明白だろう。
※えびをミンチ状にして揚げた、いわゆる「えびかつ」とは単語の順が違うので「えびかつじゃないよ」雰囲気も出てる。
なぜ天丼屋は「えび」を「天」と置き換えてしまったのだろうか。
思うに、以前「えび丼」と呼ばれる食べ物があったからではないだろうか。
それとの差別化をはかるため、あえてえびのことには触れず、天ぷらを取り上げたのではないかと推測できる。
また「もともと天丼はえび以外にもいろいろな天ぷらをのせていた」という可能性もある。
この説の優れているところは、現在も天丼にはししとう、きすなどの非えび食材が使用されている点にある。
昔の名残なのだ。
さらにしゃちほこが関与していた可能性も否定できない。
「えび丼」なんてなかった。
「えび」しかのせてなかった。
だが、いつかのアイデアマンが、天丼のえびを城の天守閣の屋根に君臨するしゃちほこに見ててしまったのだ。
結果、天丼と呼ばれることになる。
天丼屋はこの「天」問題を解決しなければならない。
そうしないと、もし「天丼の上にとんかつをのせたもの」を開発しても、それは「天丼の上にとんかつをのせたもの」としか呼ばれないのである。
しかも、二重。
一般的に、人間はティッシュより強いと考えられている。
箱から強制的に引きずり出せるし、丸める、濡らす(濡らしたティッシュを口にあてがうことで、強くなるときもある)、燃やす。
相手の意向などお構いなしに、やりたい放題である。
しかし、電車の座席に置かれた「しわくちゃのティッシュ」はどうだろうか。
「座席に何か置かれている、もしくは捨てられていると、そこに座らない」という人や、そういう人を見た人は意外に多いのではないだろうか。
※ここで民衆意識や人間の弱さなどを指摘するつもりは、毛頭ありません。
上記のティッシュ。
普通、座席なんて空いていない時間帯や乗客数なのに、空席を見つけたなら、そこはほぼ確実にティッシュが置いてあるはずである(時間帯により、置いてあるもの変化)。
そのティッシュは十中十十捨てられているのだが、「捨てられている」という言葉を使うのがはばかられるくらい、強い。
「いらっしゃる」とかいう言葉を使ってもいいくらいだと思う。
もちろん、その席の前の乗客はティッシュを摘み上げる指握力と、その後そこに座る勇気と腰力くらいは持ち合わせている。
このようなシチュエーションで勝敗を分けるのは、「一瞬の判断」であろう。
彼がティッシュのいらっしゃる座席の前に立ち、ティッシュがあるのを確認した瞬間にティッシュを摘んでいれば、その座席は人類のものとなったはずなのである。
一瞬でも。
一瞬でも躊躇してしまうと、ティッシュを除外し、座る力があるにも関わらず、なんか「タイミング逃した」的な雰囲気が自他問わず生じてしまうのだ。
こうなると、その雰囲気を味わっていないニューカマーが来るまで、その座席はティッシュのものとなる。
一瞬の判断が勝敗を分ける際、勝利するために必要な力は「ティッシュを摘む力」くらいでよいのかもしれない。
ハーブの扱い
時間のある土曜日は、とある喫茶店でウィンナーコーヒーとガトーショコラを食べるのが習慣になってきた。
ヘタすると、24時間、口に入れたものがウィンナーコーヒーとガトーショコラと空気だけという日もある。
あと、どのくらいこれを続ければ「習慣」が「風習」にレベルアップするのだろうか。
それはさておき、ここでガトーショコラを注文すると、ショコラにかかった生クリームのそばに「ハーブの葉っぱ」がついてくる。
僕はいつもこいつを見ると、2つ、困る。
1.食べるものなのか
2.葉っぱの「っぱ」って何なんだ
ぶっちゃけ2は今考えたのだが、1はずいぶん前から気になっている。
おそらく「こってりしたケーキを食べたんだから、これ食ってさっぱりしろ」みたいな意図のメッセンジャーなのだろう。
だが、あくまでそれは推測であって「いろどりです。まさか、食べないよね」みたいなものだったら、僕は過ちを犯すことになってしまうのだ。
赤ちゃんは、何でも手に取ったものを口に入れるという。
上に挙げた話は全く関係ないが、実は何度かこっそり食べ、ハーブの清涼感を味わったことがある。
やはり、前者が正解かもしれない。
ついてきたハーブの葉っぱは、食べてOKの安心食材なのだ。
でも一方では、こんなことも思い出す。
「料亭などで、飾りとして料理につけられた「生のさわがに」を食べて、寄生虫がついてしまった男」
料理の飾りを食べて、良からぬことになってしまった話だ。
これを思い出すと「あくまで飾りなので、食べたときにどうなるかはわかりません」と言われたらどうしよう、とも思う。
だがよく考えてみるとこの、ハーブとさわがにの件を単純に比較することはできないことに気付く。
先ほど挙げたように、ハーブには「これ食ってさっぱりしろ」的な効果が期待でき、店側も客がそのような考えを持つだろう事が容易に想像できる。
一方、さわがにに対して「これ食ってさっぱりしろ」という意図を感じ取れるのは、いのししくらいのものだろう。
僕の「食べたときにどうなるかはわかりません」への恐怖は無駄と言え、口を開けるのもしんどいくらい、スースーしてよいのだ。
今日は残したが。
最初×最初・2
昨日からの続きです。
【あらすじ】
かなり昔の人「ルーシー」のことを人にしゃべったが、そこには重要なポイントが2つあった。
1.猿人にルーシーって名前は、ないんじゃない?。
2点目のポイントは、初対面の人に「ルーシー」を持ち出す行為に対してである。
実際、初対面だった。
僕は帰宅後、反省した。
「ルーシーは。初対面でルーシーは、いけなかった。」
そもそも、会話の中でルーシー適正をかもしたのは相手側で、地学が好き、みたいな話からだった。
僕の地学知識は「プレートテクトニクス(なんか動く)」くらいであり、しかも発音するのに高度な舌の動きが必要で、何度もかまざるを得ない言葉だ。
だが、知識ではないが、地学がやたら懐の深い(物理や生物というカテゴリ分けに対して、やけに範囲が広い感じの)学問であるというイメージがあったので、地層→化石に話を持っていってみたのだ。
僕の化石知識は「三葉虫(ぞうりみたいだね)・アンモナイト(うずまいてるね)・ルーシー(ビートルズ)」であり、地学より2個多い。
いつか書いたが、2つ以上はたくさんなので、少しは話をできるのではないかと踏んだ。
どうにか「地学→地層→化石」ルートで化石雰囲気になってきた。
相手も、どうやらルーシーのことを知っているらしかったので、その名の由来を伝えた。
そんなこんなで、どうにか全く喋らない時間というものを生み出さずに、この会話は幕を閉じた。
僕はすぐに思う。
「きみ、誰だっけ?。」
おそらく相手も。
「で、あんた、誰?。」
僕がこのとき危惧したのは、相手の中で僕が「ルーシーの人」とかになっていたらやだなぁ、ということだった。
それならまだしも、そのまま「ルーシー」というあだ名を付けられたりしていたら、どうしようと思ったのだ。
僕はルーシーじゃない。
だいぶ遠い。
30分かけてやっと家に着いたのに忘れ物に気付いて、それを取りに行く道すがらに思う、家に帰る道の長さを考えたときくらいの遠さだ。
ルーシーを伝えることは、互いに名告ることもできず、しかも片方にルーシー疑惑を生じさせる。
最初の人のことを初対面の人に伝えるのは、そこだけ考えると意味ありげだが、実際の優先度は、かなり低いのだ。