最近感銘を受けたもの。
「すなぎもつかみどり」
それは朝刊に入っていた一枚のペットショップのチラシ。
そのでかいペットショップで開催されるらしいイベントの一つが「すなぎもつかみどり」。
「ペットたちの大好物のすなぎもをたくさんとろう!!」みたいなことが書いてあった。
それにしてもなかなかいいでしょ?。
すなぎもつかみどり。
闘鶏の技か何かにあるんじゃないだろうか。
これよりもいいのは、なかなか思いつかない。
「関係なしくずし」
お、適当に考えた割にはいいのが出た。
「みんなはやとちり」
学園ドラマの第5話くらい。
「セルライト揉みしだき」
揉みしだいて、セルライトをたくさんとろう!!。
投稿者: nimbus7942
サイドカー
僕はサイドカーを見たことが、数えるほどしかないと思う。
最後に見たのは、いつだっただろう。
サイドカーというと、まず考えてしまうのが「走行中に本体から外れてしまった場合」のことだ。
エンジンはついていないと思うのだが、そんな事故のことを考えてしまうと、せめてブレーキでもついていれば。
しかしブレーキがあると、そのことが「走行中に本体から外れてしまった場合」を引き起こしそうだ。
そうとまで行かなくとも、ブレーキをかけたとき、サイドカーを内側として本体が弧を描いたり。
ところで、サイドカーを見た訳でもないのに、唐突に僕が思いついたのは「サイドカーに何が積んであったらよいか」だった。
そして同時に「とれたてのカブたくさん」「朝市」というキーワードも出てきた。
そうか。
朝市に搬入できるか、むずかしいところだったのか。
次に思いついたのが「闇米」だ。
そうか。
すぐ逃げられるのか。
次は「洗濯物」だ。
そうか。
コインランドリーに持っていくのか。
それとも乾きが早いのか。
オカモチもいいし、スイカも映える。
仮面ライダーが乗っていたら、ああサイクロン号修理してるから、これでベルトのやつ回すんや、と感慨深くなるだろう。
サイドカーは、もっと需要があってもいいと思った。
7942の「再測定」
この文庫本は、読むのめんどくさそうだなあ。
↓
20mm
歯磨き粉は少なくても、一度でこのくらい使わないといけない。
↓
10mm
わき水も、このくらいいきおいよく噴き出てくれたら天然噴水って言えるだろう。
↓
300mm
チーズかまぼこは、このくらいの間隔で大粒のチーズが見え隠れしているやつがいい。
↓
5mm
このくらいの差なら、同じ身長だと言い張ることができる。
↓
15mm
席をゆずるには、遠い。
↓
350cm + 40代後半
この大きさではいくらオオクワだと言っても、もはやコクワだ。
↓
40mm
初めて手を握ろうと手を探ったとき、一番緊張するところ。
↓
10mmのち融合
7942の「測定」
あれと呼ばれたオブジェクト
使う頻度の高かった言葉はその歴史の中で、より簡潔に短くなっていったに違いない。
例えば、かに。
おそらく海辺に昔からいておいしい彼らを、我々の祖先がほっておいたはずはない。
昨日捕まえた「波とともに足音なく近づくえもの」がうまかったよ。
当初はこんな名前だっただろう。
要は、説明なのである。
現在我々が認識している名前という概念がなかったため結局、汎用的にかにを示す何かが、なかった。
それゆえにミニ説明なのである。
しかし、人類がかにに触れてから、そこそこの期間はこの長い名前だったが、問題が出てきた。
もちろん「長くない?」ということである。
その、今まで重視されていなかった「名前の長さ」が問題になったのは、おそらく「おい、あそこの「波とともに足音なく近づくえもの」を捕まえろ!!」と言っているあいだに「波とともに足音なく近づくえもの」が逃げてしまったというシーンである。
我々の祖先はこのとき「何かがまずかったせいで、波とともに足音なく近づくえものがとれなかった」ことを猛省し、同時に時間という概念を取得しただろう。
時間がかかればかかるほど、何か起きてしまうのである。
この場合、時間がかかったために、「波とともに足音なく近づくえもの」は遠く遠くに行ってしまった。
足音どうこうなんて関係がなく、波の動きも関係なかった。
ただ、このへんで「じゃあみんなが認識できる言葉で、あいつを表現しよう」という運動に発展したかどうかとなると、少し怪しい。
とりあえず「波とともに足音なく近づくえもの」自体を早く言うことで解決しようとしただろう。
「足音なく近づくえもの」
「足音ないえもの」
「あしおとえもの」
「あえ」
「あれ」の誕生。
「あれ」は「かに」よりもちょい早めの誕生なのである。
置換三昧
「いっぱい」の「い」を「お」に置き換えたら・・・な感じのシリーズ。
1.浅野内匠頭の「い」を「お」に置き換えたら
→浅野 いにお
2.大江健三郎の「ざ」を「お」に、「け」を「お」に、「ん」を「お」に、「ぶ」を「お」に、「う」を「お」に、「お」を「※」に置き換えたら
→怪しげな魅力増す
3.マツコデラックスの「ツ」を「つ」に、「コ」を「縫合」に、「ク」を「触手」に置き換えたら
→大手術
4.つのだ☆ひろの・・・
→☆
5.枕元のケータイを硯に置き換えたら
→寝坊
卒業文集 14番
卒業文集
14番 姓名判断
ご卒業おめでとうございます。
みんなが卒業できることは、だいたい分かっていたのですが、やはりそのときになると感無量です。
僕も一緒に卒業できることを誇りに思います。
僕がどのくらい誇りを持てるのか、それもだいたい分かっていましたが、卒業式のときの校長先生の話は感動的でしたね。
僕も泣いてしまいました。
・校長先生の話の感動ぐあい
・誰が卒業式で泣くか
・体育館内における涙の総量
この辺もだいたい分かっていました。
僕はその人の名前を聞くだけで、だいたい分かってしまうのはみなさんご存知のところです。
だから、みんなが卒業できることは、だいたい分かっていたのです。
ところでこのような占いを信じない人もいました。
宋くんもそうでした。
しかし、実は信じる信じないどころではないのです。
すべての事象は、すべての占いから生じているものなのです。
そしてすべての占いは僕、姓名判断が基となっているのです。
例えば姓名判断にて「左が吉」と出ればそれは正しく、占星術でも手相でもそのような結果が出ます。
ここで速やかに改名します。
すると、その手続きが終わるかどうかの時に、手のしわがぐにゃっぐにゃになります。
そして手続き完了の瞬間、前とは違った手相になるのです。
この変化した手相こそ、改名後における「左が吉」の手相なのです。
同様に、星の位置も変化、移動します。
映画「ディープインパクト」の冒頭にある、安易に改名を行う男のシーンが有名ですね。
まあ上記は全て冗談ですが、名前が変わるというのは究極魔法メテオに負けず劣らずの衝撃、環境の変化をその人に与えるというのは本当です。
このへんまでを、仲人をやる機会があったら話してみたいと思っています。
最後にもう一度、卒業おめでとう!!。
不可読の空
空気が読めない。
それは自分でもわかっていて、気をつけているつもりなのだが。
自分の誕生日を祝うために準備してくれている場に、ひょっこり現れたりするのである。
その瞬間の空気ってのは、あったもんじゃない。
どうにか気づかないふりをするのだが、心の中は済まない気持ちでいっぱいだ。
このあいだもやってしまった。
ある駅のホーム。
「おとうさーん!!」
「おー、元気だったか。見ないうちに大きくなったなー!!」
この二人の、あいだにいちゃった。
察するに、久しぶりの親子の再会なのだろう。
通常なら、お父さんはその娘(想像だと、エリカという名前)をひょいと抱きかかえ、ぐるんぐるん回したくなることだろう。
でも僕がいちゃったので、そんなことができないのだった。
「知らない人を挟んでの感動の再会」は少しへんな気もする。
そんな混んでなかったし。
しかしそのとき、僕は激しく後悔した。
「ああなんでこういうときに、あいだにいちゃうかなー」
僕としては、あいだで息を殺している僕なんかは気にせず、ぐるんぐるん愛情スイングをやってもらって一向にかまわない気持ちだった。
それで1回転につき1回、もしくは2回蹴りを加えられようとも、その感動の再会に水を差すようならば、それをとがめる気も起こらないわ。
そんな僕の懺悔を知ってか知らずか、お父さんとエリカは楽しそうに何か話し込んでいた。
そして僕は少し持ち直した。
彼らのことを「空気読めないな」と感じるほど、僕は空気が読めないわけではないことがわかったから。
パッチ
「このほど、度重なる政府の不祥事を鑑み、明日午前7:00より修正パッチが適応されることになりました」
そんな緊急ニュースが流れた翌日。
いつもはうるさい電車の音も聞こえず、静かな朝だ。
いわく
「ゲーテ曰く」
これだけで何となく言いたいことはわかるだろう。
「曰く」とつけられる人の存在だ。
一般的に、有名な人でないと「曰く」はつけられない。
斉藤さん曰く「絹ごしではなく木綿のほうがいい」
誰なんだろう。
ただし、ここで注意したいのが、その「誰なんだろうか」感が、別に豆腐のくだりのせいではないというところである。
なんか深さげなことを言ったとしても、有名な人でない以上、「誰なんだろう」感はぬぐわれない。
斉藤さん曰く「究極の節約は究極の浪費に等しい」
誰なんだろうか。
一方、有名であれば「曰く」がついても違和感がないし、さらに「ありがたみ」のようなものが増大する。
川上哲治曰く「優れた打者は、打席に立ったときに打球の描く線が見える」
そしてお察しの通り、特にどうってことないことを言っているときであれ、有名な人は「曰く」の恩恵をいけることになる。
川上哲治曰く「3倍モードで録画せずにはいられない」
なにそれ録画に値することだと言っているのか、逆にそうでないのか。
考えてしまう。
我々は、どうにも有名人の言うことには何かしら隠された意味があると考えがちなのである。
まさに「曰くつき」ってやつだ。
劣化する代替案
ある、おいしい中華屋さんに入った知人から聞いた話である。
注文したラーメンに箸を入れたとき、金たわしのかけらが入っていたという。
それとなく指摘したところ、それを詫びた店員さんは帰り際、腐ったみかんをくれたのだそうだ。
「腐り」の件が故意であるのなら、これは人類文化にとって大事件なのではないだろうか。
それは「代替が代替をなさなくていいという思想」。
代替が必要となった時点で、被代替者の不利益が決定しているのだ。
「家の天井、発注内容よりもだいぶ低いじゃないか!!」
「じゃあ、かがみながら生活してください」
「イ・ビョンホン似ってメールにはあったのに、全然違うじゃない!!」
「まずはランチにでも行こうか」
「ピザ、注文したのと違うんですけど」
「これ超おいしいっすよ」
その後いろいろあって、むしろ代替以上のものを得られました、ということもないことはないだろうが、たいがいは不利益となってしまうはずだ。
そんな思想がこの町から発祥するとはね。