押してみる。

僕の知る限り、「オオゾウムシは硬く、押してもつぶれない」と記した昆虫図鑑は2つ以上ある。
ような気がする。
この記載だけで毎年多くのオオゾウムシが人間の親指と人差し指の間で絶命していることを考えると何とも言えない気持ちになってくる。
今後、オオゾウムシを見かけても押しつぶそうとするのだけはやめていただきたい。
さて、今「アライグマを捕獲」というニュースがやっていた。
話は変わるが「捕獲」と「保護」の境界線は何だろうか。
言うまでもないかもしれない。
その後の待遇が、かなり違うのだろう。
悲しい事だ。
上記のオオゾウムシは、せめて保護のほうでお願いしたいところ。
もちろんアライグマも。

はじめての死亡届

死亡届を、ここではもちろん自身の死亡届になるが、自分で書く事はできないのだろうか。
さすがにその提出になるとほぼ不可能だろうが、もしできたとしても窓口にどんな顔して現れればいいのか。
おそらく後ろの風景が透けているため、窓口係はすぐに事態を把握、こう叫ぶだろう。
律儀!!
ユーアー律儀!!
2個目のはいらなかったと思うが、まあ難しいだろう。
となると、せめて死ぬ前に書いておくことはできないだろうか。
もちろん唐突な死である場合も難しい。
例えば死亡原因に「飛行機事故」という旨の事が書けてしまう「死亡届事前記載者」がいたとする。
となるとどうしても「そんなことがわかっているのなら、飛行機に乗るなよ!!」と思ってしまう。
しかし彼彼女にはわかっていたのだろう。
たとえ飛行機に乗っていなかったとしても、そのときが来たら飛行機が自分のところに墜落してくることを。
だから堂々と「原因、飛行機事故」。
世にも奇妙な物語みたいだ。
そもそも、僕は死亡届に「死亡原因」欄があるかどうかも知らない。
日常生活で触れる機会のある、この語句と似たことば「志望原因」のポジティブさを鑑みると、どうしても書きづらい「死亡原因」。
いや、履歴書なんかでも、まず「志望原因」なんて記載されていないな。
どちらかというと「志望動機」だ。
となると、死亡届にあるのか気になる「死亡動機」。
確実に自殺の詳細枠である。
自殺はいけない。
死亡届も書かなくていいや。

換算

オーストラリア?オーストリア換算を用いると、オーケストラはオーケストラリアになり、より安定性が増すことが知られている。
嘘である。
換算できたとしても、我々はオーケストラリアというものを知らず、それは全然安定していない。
サーチエンジンで検索しても「オーストラリアではありませんか?」などと、丁重にオーケストラリアの存在を否定してくれる。
一方、同換算を用いるとオーケストラはオーケストラリアではなくオーケストリアになる報告もある。
これもいまいち信用おけない感じだが、早口で「オーケストリア」と言うとほぼ「オーケストラ」になるため、安定性は比較的高い。
これを書いている間、僕自身はどんどん安定しなくなってきたが。

うに

うにをちゃんと食べた事がない。
いわゆる食わず嫌いなのだが、正直食欲をそそられる要素がひとつもない。
黒いし固いし、とげなのである。
しかも彼らは、すごくゆっくりと動いている。
すごくゆっくりと動いているものは、何かすごくこちらの次元とは違うことを考えていそうで、気味が悪い。
しかし多くの人はそれをおいしがる。
まあそうなのだろう。
さて、先ほど触れたが、うにはとげのある事が知られている。
うに好きの人はそれがあたかも「おいしさ」を守るためのものと思われているかもしれないが、実はあれ、うに自身の「いのち」を守っているものである。
おいしいものとは全ていのち由来なのである。
おいしい、言い換えれば栄養があり、毒がないとなるか。
自分のいのちがおいしくなければ、天敵なんていなくなるのに。
そう思っている自然界在籍の生物は思っているだろう。
しかし自分自身はおいしいものを欲しており、事実取得しているわけだから、結果的に自分もおいしくなってしまう。
ふぐは例外かもしれないが、多くの生物はこの関係に属している。
食物連鎖はおいしさの伝播もかねていて、そのつながりを断ち切るには「おいしくないものを取得し、おいしくないものを産出する」ことが必要なのである。
今、どきりとした。

ダウザーズ・ハイ

くるりと逃げたストローの先が異性に向かっていたとしても、それが金脈水脈である保証はどこにもないのであるが、それにしても「ストローをくわえようとした人の顔」はなんだか面白い。
それは本人もわかっていることで、見られてしまった事に気づくと恥ずかしい表情になるはずだ。
そこで毅然とした態度なんかをとられたりすると、そんなストローで毅然とされてもという気になる。
あるいはストローの先が逃げたことが引き金の事件、そのトラウマか何かがあるのかなと思う。
ある意味、せっかくストローの先は逃げてくれたのだから、礼儀としても「口を開けながらそれを追い続ける」しぐさはやっておきたい。
見た目の「ストローを使いこなせていない感じ」が面白いから。
「面白さとは差別のことである」
そう昔から言われているらしいが、ストローのくだんはまさにこれにあたる。
だからストローを逃がそうと、開けた口からそっと息を吹き続けることを悟られては、絶対にならない。

くじらについて2。

昨日からのつづき。
【あらすじ】
たいやき、へそまんじゅう、ねこじゃらし。
これに対して「くじらやき」「くじらまんじゅう」「くじらじゃらし」は何なんだろうか。
=====
くじらやき。
おそらくくじらの肉を焼いた料理だろう。
団塊の世代が「なつかしいなあ」という。
くじらまんじゅう。
おそらくくじらで有名な町で生産されるおみやげ品で、大きい。
くじらの形は、していないと思われる。
くじらじゃらし。
おそらくくじらの目の前を泳ぐ小さな魚のこと。
大きなくじらの前には誰も行きたがらないので、天敵に襲われないというメリットがある。
その事を知らないと、いつもくじらに追われているかわいそうな魚として見える。
まごのて。
背中をかく。
くじらのて。
実現しないことを表すことば。
「彼の身だしなみがきちんとしていることは、くじらのてを見つけるようなものだ」
まごのくじら。
自分の息子、娘が先見性の持ち主で、その子供にくじらと名付けた場合のこと。
あるいはおじいさんくじらから見て孫にあたるくじらのこと。
たこのまくら。
棘皮動物で、うにの仲間。
くじらのまくら。
内蔵されたスピーカーからくじらの鳴き声が聞こえるまくら。
よく眠れるというふれこみだが、うるさい。
たこのくじら。
たこが所有するくじらのこと。
例が少ない。
おおいぬのふぐり。
春先にかわいらしい青の花を咲かせる植物。
「おお」が「いぬ」にかかっているのか「ふぐり」にかかっているのかは不明。
「いぬのふぐり」にかかっているのは、夢がないともっぱら不評。
くじらのふぐり。
滋養強壮に効くとされるが、入手困難。
そもそも効果なしであるとも言われている。
あるいはある疾患に侵されてしまった人における症状の一つを指す。
昔はたいへんそうだった。
おおいぬのくじら。
これで「おお」というものが「いぬ」にかかっていることが判明。
しかもくじらを所有できるところを見ると、思いのほか大きいこともわかる。
以上。

くじらについて。

「くじらのつまようじ」とくれば「さけとば」のことなのである。
今勝手に考えたのである。
何かそこそこ大きくて固くて長いため、下ネタに走らずこのような命名をしてみた。
このように何かに例えた商品名、あるいは和名というものは数多い。
たいやきという物がある。
鯛の形状をしている。
へそまんじゅう。
これはどうやら、へそのようなへこみがあるから。
ねこじゃらし。
これはそのまま。
しかしこの手のものは、商品名作製に手を抜いていると思われても仕方がない気もする。
僕は、手を抜いているのを、見ている分には大好きである。
ここでは、とにかくいろいろなものを何かに紐づけてみる。
ちょうどさきほど「くじら」が出てきたので、それを用いてみよう。
たいやき。
これは「くじら」にとって何なのだろうか。
いきなり難しい。
「くじらの稚魚」はどうだろう。
「くじらの稚魚」とくれば「たいやき」のことなのである。
ここで賢い子供が、くじらは魚でないことを挙げ、家族間に会話が発生、円満になるのである。
へそまんじゅう。
どうもさきほど思いついた「手を抜いているんじゃない?」モノは、あんこが深く関わっていることが判明した。
「くじらのへそ(原寸大)」はどうだろう。
「くじらのへそ(原寸大)」とくれば「へそまんじゅう」のことなのである。
「原寸大」という言葉のリアリズムといったら!!。
ねこじゃらし。
これは「くじらの産毛」が正解ではないだろうか。
「くじらの産毛」とくれば「ねこじゃらし」のことなのである。
くじらの背中を草原に見たてるなんて、ファンタジーじゃないですか。
こうなってくると、単に「くじらの○○」で表すことが面白くなってくる。
「くじらの八重歯」とくれば「三角コーン」だろうし、「くじらの背もたれ」とくれば「飛騨山脈」、「くじらの草野球」とくれば「日本シリーズ」であり、「くじらのキャメルクラッチ」とくれば「水爆」だろう。
「くじらの立ち読み」とくれば「本屋を恐怖のどん底に突き落とす万引き集団K」とかだろうし、「くじらの音読」ならば「空港近辺の騒音」だろう。
だろう、ってのものないですが。
ちなみに冒頭。
下ネタに走った場合、まずは「○○のミイラ」になることうけあいである。
次回。
逆に「くじらやき」「くじらまんじゅう」「くじらじゃらし」とは何かを、なんでくじらを例にしたのかと自分を呪いながら考察。

擬態

生物の中で、擬態という戦略がある。
一般的に、それはまず「強いやつに化ける」と考えて間違いない。
毒を持つ他の生物に似た模様を持つ。
あるいは自分の天敵よりも強い生物を模す。
となると、自分より弱いものに擬態する生物はいるのかという興味がわく。
今何となく考えたところ、まあ人間はそういった面があるという結論に達した。
おそらく多くを書く必要はないだろうが、人間は時として自分をより弱く見せようとする。
おそらく多くを書く必要はないだろうが、それは別の視点からすればより強いからである。
人間には他の生物よりも多様な強さ弱さが複雑に絡み合っているわけだ。
ところでこれまた今思ったのだが、擬態には「強いやつに化ける」のと「周りの風景にとけ込む」という2パターンある気がしてきた。
そして高等になるほど風景とけ込みパターンが多いような気もしてきた。
虫などは両パターンともありそう。
一方ほ乳類は、例えば虎やシマウマが風景とけ込みパターンが思い浮かばれる。
人間はどうだろうか。
例えば成人男性。
スーツをまとう事でかなり風景とけ込みパターンになりそうである。
小学校校庭でどうしても身を隠す必要に迫られたら、半ズボンにより風景とけ込みとなる。
お寺で身を隠すなら髪をそればいいだろうし、女子校内なら、女装でいける。
こうなると、人間の風景とけ込みパターンでの擬態は、とにかく他の人に紛れ込む一点しか考えられないようだ。
それでは、周りに人のいない場所ではどうするかって?。
周りに人がいないということは天敵がいないということなので、身を隠す戦略自体が必要ないんである。

箸で切れる。

大きく考えると、ミルフィーユと豚の角煮はほぼ同じ食べ物と言える。
ミルフィーユのパイ生地は、豚の角煮では赤身の部分。
クリーム部分は脂身である。
その楽しみ方を考えるだけで、このふたつが同じ食べ物であること、むしろ同じじゃなかったら何なんだという気すらする。
しかし決定的に異なる部分もないわけではない。
ごはんがすすむか。
これだけは差異が生じる。
すなわち、豚の角煮をちびちびやるとごはんはすすむのであるが、ミルフィーユは、そうはいかない。
ミルフィーユをちびちびやっても、すすむのはせいぜいコーヒー紅茶のたぐいである。
※この点はむしろ「冷や奴と日本酒」の関係から「ミルフィーユ=冷や奴説」が思い浮かばれる。
実は、これ以外にも「ミルフィーユと豚の角煮は違うんじゃね?」点は存在することはする。
ミルフィーユは、たのしみ部分が交互に、何層にもわたって存在しているが、豚の角煮は、一般的には1.5ターンである。
それは「赤身脂身赤身」の構造で、ミルフィーユのそれよりも見劣りするのである。
しかし考えてももらいたい。
「赤身脂身」が交互に何層もある角煮は、おそらくは豚の調子がかなり悪くないとできない構造のはずである。
したがってそれは異常であり、このことが何ら「ミルフィーユ=豚の角煮説」を揺るがすことはない。
一部の例外はあるものの、ミルフィーユと豚の角煮が同じ食べ物であることは事実だろう。
この考え方に則れば、豚の角煮の柔らかさは、単に柔らかいだけ以上の驚きをもってむかえられるはずである。

武器庫

ビルの屋上に設置されている備品の多くはスーパーロボットの装備品であることはあまり知られていないが、実はそうである。
事実、なんだかかっこいい形をしているので、間違いない。
エヴァンゲリオンみたいなものである。
怪獣が現れたとき、どこからか現れたロボはビルの屋上をさらう。
そして僕らがビルの屋上にあるなんだかかっこいい備品と思っていた物を手に取る。
それは電気を流す武具だったのだ。
そして派手な市街戦を行うのである。
よって、ロボはビル群ですごく強い。
一方、上記理由により山奥や未踏の地ではその力を発揮できないだろう。
観衆がいないから、なおさら。