そこが、「暗転」するかしないか。
大違いである。
例えば何か、お笑いの舞台があったとして。
ひと話終わったあと、照明が落ちる。
また、その意味合いと同等のものとして、幕が閉じるとか、TVだと場面が変わったりとか、赤いカーペットが「動く歩道」のように動作する。
このように、自動に一区切りがつくことは多い。
しかし、それが多いゆえ、その恩恵がいかにすごいものか、忘れている人もいるだろう。
考えてみよう、暗転がない場合を。
あなたの頭の中のコンビ「ふぉ?ちゅんついんず」がネタをしている。
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正一「だからこそ、印字されている文字が丁寧に消されてるサンテFXを用意しておけばいいじゃん。」
正二「もういいよ!!」
正一正二「どうもありがとうございました?!!」
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ここで、自動に彼らがはけていく場合は問題ない。
漫才が終わり、美しく句点が打たれたのである。
しかし、暗転がない場合、あなたの頭の中のポップコーンはどうしているだろう。
何か、えへへしながら歩いて去っていくのではないだろうか。
「さっきまで、切れのいい漫才をやってくれてたのに・・・」
なんとなく後味が悪い気がしないだろうか。
この、暗転の恩恵は、お笑いだけに限ったものではない。
ニュース番組や音楽番組でも、話題の切り替えやCM入り等、暗転の変形型によって、いつもの放送が救われていると言える。
一方、ゆるりと続くトーク番組などは、暗転が必要ないだろう。
だが、その恩恵はほとんどのシーンでは有効そうだ。
誰だって、一度や二度、奈落へ続く穴が開いていたら、そこにダイブしたい、と思ったことがあるだろう。
それは、どんなキビシイシーンでも、別にそうでなくても、綺麗に一区切りしてくれる点にある。
有用性、忘れてはならないものである。