里山からくまが出没したことで環境破壊を持ち出すというのなら、環境破壊はくまから始まるものなのだろうか。
ちがう。
くまから始まっているのは「近くにいたら危険」だ。
すなわち、人間というものは危険が身近に現れることでやっと根源的な問題に気づくもしくは取り組むものなのである。
くまより前から、環境破壊を感じなくてはならない。
公園のベンチで読書に夢中になっている女子の鼻の穴を、ありが出入りしている。
環境破壊である。
ありにとって、鼻孔は致命的に生産的でない場所だと思われる。
「はなくそは?」と思われるだろうが、僕は「せっせと巣穴にはなくそを運ぶあり」というものを知らない。
ありにとって、程度のよい大きさである鼻の穴は、罠に等しい。
また、鼻の穴が故意ではないところに「ありの巣穴に水を流し込んだ」などのベーシックな破壊よりも重大な汚染が存在している。
ありの減少はその勤勉さに感銘をうけていた人々を堕落させ、ポイ捨てとかが多くなる。
洗濯機のなかに、あめんぼがいた。
環境破壊である。
あめんぼは水の流れに逆らってつーんつーんと動くが、それを惑わせる水の動きである。
しかも界面活性剤が入っていることが多いため、おそらく溺れ死ぬ。
あめんぼの減少はあめんぼ見たさに田んぼに集まる人々の失望を買い、GNPが下がり環境どころではなくなる。
シロツメグサで、ネックレスを作った。
環境破壊である。
一見その物質的な面での環境破壊と思われがちだが、ちがう。
ネックレスという装飾品に仕立てたことで、人々にブランド志向を根付かせ、シロツメグサがごっそり取られてしまう。
生産者のネックレス化は、生産者にやる気を失わせ、食物連鎖の底辺を揺るがすことになるだろう。