投げるフリ

もしかしたらちゃんとした研究があるのかもしれないが、人間というのは「投げるフリ」をされると、何でも受け取ろうとしてしまうような気がする。
ボーリングの球なんかもそう。
相手に投げるフリして、驚かした人も多い事だろう。
何なんだあれは。
お前無理だろ、ボーリングの球を受けるなんて。
もちろん例外もあって、例えば雪合戦。
雪玉を投げるフリされると、みんな避けようとする。
当たるとアウトなはずだから当たり前なのだが、あれはかなり人間の「受け止めたい思い」を抑制した、異常な状態なのではないだろうか。
異常な状態なのに、きゃっきゃきゃっきゃしてんなおまえら!!
と、雪が降った時、近くの公園へ聞き耳を立てていたが、そういった声が聞かれない。
最近の若者は雪が嫌いなのだろうか。
それとも猫なのだろうか。
いや、そうではないだろう。
人間だから、やはり雪玉であっても「受け止めたい」のだろう。
それを許さないルールが、若者の雪合戦離れを引き起こしているに違いない。
どうすればいいんだ。
受け止めてもいいが、当たってはいけないとなると、もう「体から超高熱を発し、受け止めてもいいがその前に雪玉が蒸発する」方法しかない。
それは僕の「どうにか物事を落ち着かせたいという思い」を促進した、異常な状態なのではないだろうか。

みかん

先日、みかんを持って歩く、と書いた時、不謹慎ではあるが「みかんは持って歩けないだろう」と思った。
それはもちろん「みかんを持って歩く事がおかしい」ということではなく、とにかくみかんは投げやすい。
もしかしたら人は、何かしている状態でみかんを持たせたら、投げてしまうのではないかと思ったのである。
例の、こたつの件は気にしなくていいだろう。
確かにこたつ上にあるみかんを投げるやつなんか見た事はない。
あるとすれば自分の目の前にあるみかんを、対岸のこたつ同居者に投げ与えるくらいだろう。
長い、こたつではある。
しかしあり得ない事ではない。
ところがこれが、家の中ではなく外。
そして歩いているときになんかみかんを渡したら。
「投げる訳ないじゃないか」
もっともである。
しかし「歩きながら上に放り投げる」。
これはいきなりありそうではないだろうか。
上に投げて、上に投げて、相手に投げるフリ。
あながち、である。
そうなると冒頭の「みかんを持って歩く」というのは、正しくは「みかんを上に放ったり、投げるフリしたりする」であり、そして「みかんを上に放ったり、投げるフリしたりして、ストレート!!」もそう遠くない。
そんなことを考えると、もっとみかんは大切にしなくてはならない事が分かった。

愛媛県

私の家族は誰も四国に降り立った事が無いように思う。
私の生まれる前だったり、何かしらの理由でこっそり行ったというのなら分からないが、とりあえず「こないだ暇だったから四国に行ってきたよ」と聞いた事がない。
そういう点で、四国はフロンティアである。
ただ、その中でも「愛媛県」は、とにかくみかんが有名だと分かっているから、フロンティアとしてはかなりの情報が得られていることになる。
愛媛県のみかん推しはずいぶんと前から情報操作、プロパガンダが横行しており、その影響はもはや方向の修正が不可能な域にまで達していると思う。
「いやー愛媛県とくればLANケーブルの爪がよく折れる県として有名だよね」
誰も信用せず、「LANケーブルの爪がよく折れるのも有名だが、それよりみかんでしょ」と補正されてしまう。
それどころか、嘘を否定しない上でのみかん推しということで、もうみかん以外の何物も入り込むニッチはないようだ。
だが一方で、ここまで「愛媛県=みかん」の構図が出来上がってしまっていると、例えば愛媛県でみかんを片手に歩いていると、少し恥ずかしいのではないかと勘ぐりたくなる。
愛媛県でみかんを持って歩く。
少しできすぎな気がするのだ。
ということで、夜中の2時前にこれほどまでに愛媛県とみかんのことを考えてしまって。
愛媛県からはみかんをたくさんいただきたい気分。

東京タワー

僕を知っている人の幾人かは、僕の地理の知識のなさを奇跡的だと表現する。
先週、一番心揺さぶられた出来事は「神戸は兵庫県にある」という事実を知った事だった。
それまでは、神戸は大阪か名古屋あたりにあるものかと思っていたが、どうやら兵庫らしい。
しかも、それはかなり有名な事であるらしかった。
すごいじゃないか、兵庫というところは。
猛省した。
そういえば名古屋は愛知県だそうだ。
愛知県は、僕の中の日本地図ではかなり南西に位置しているが、一方で名古屋は結構東京寄りと思っていたため、このカルチャーショックも大きかった。
自国の地理の無知さをカルチャーショックという言葉で表すな、という向きもあるかも知れないが、その自国の事がさっぱりわからないわけで、まさにこの言葉はぴったり。
様々な人の話を聞いてみると、どうやら僕の「愛知県」は、「愛媛県」と「高知県」の強烈な位置イメージが悪影響を受けてしまっているようだ。
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僕が、致命的に義務教育過程の「社会」をないがしろにしてきていたのが、ここにきて露呈しまくっている。
いや、いままでもかなり露呈していたはずだ。
ただ、電車に乗れば目的地には着くし、その辺を散歩している人に聞いてみてもいい。
言いたいのは、何か楽観的な、どうであっても楽しいだろうという根底が僕にはあるらしいことだ。
僕が神戸が兵庫にある事を知った時、確かに恥ずかしかったが、同時にすごくアハ体験だった。
今、アハ体験という言葉がすんなり出てきた事に驚いており、これがさらなるアハ体験を産み出しているが、とにかく兵庫の件は楽しかった。
僕は東京タワーに行った事がないが、もし今後行く機会があるとしたら、そのとき「神戸」の感じをやはり受けるような気がする。
もちろん、「東京」って名前に入っているから大まかな場所は分かっているわけだが、大丈夫だ。
「えっ、こんな曲がり角曲がったら東京タワーなの!?すげー」みたいな。

コンパス

先端というものに対して恐怖や恍惚を受容できない僕は、自分が俗にいう先端恐怖症だったら、なにかひとネタ書けたかも知れないのにな、と思う。
これは、本当にその症状で苦しんでいる人にしてみれば失礼な話だ。
ただ、やはりちょっとよく分からない「先端恐怖症」。
疑問は数あるが、例えば先端とはどの程度の角度を持つものが対象なのか。
「先端恐怖症」というと、とにかく「針」が思いつくのだが、もっと鈍な、鈍角なものも対象になりうるのだろうか。
面白い事に、この疑問の、回答ともなりえるもう一つの恐怖症について、ネット上では結構情報がある。
「球体恐怖症」
あーっ丸い!!
丸い丸い丸い!!
うわーっ!!
こんな感じなのか「球体恐怖症」は。
話を戻して「先端恐怖症」だが、その大きさや距離はどうなのだろう。
東京タワーを見ただけで怖いのだろうか。
あるは東京タワーの先端を大型双眼鏡で見ると怖いのだろうか。
ただ、僕がとんがっているものについて気になるのは、例えばコンパスの針の方を、痛いと分かっているのになぜか指の腹でちょんちょん触ってしまう。
そんな人は結構多いと思うのだが、あれは一体なんなんだということである。

違和感

長い間生き続けていると、体のいろいろな箇所に、ときどき違和感が発生することが多くなってきた。
「肩に違和感がある」
よくある。
寝違えたのだろうか。
あるいはソニータイマーのようなものが人間には備わっているのだろうか。
ただ、よくあることとは言え、野球選手ならこれで休んでしまうくらい重要な事であるから、我々も注意しなくてはならない。
さて、この「違和感」というものについていつも困ってしまうのが「人の言う違和感が、どれほどの違和感か分からない」という点だ。
もちろん他の事柄でも、この「他人と共有できないところ」を持つ表現は数多い。
しかし、例えば「痛い」という表現だと、こう考えられないだろうか。
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友人「肩いってー」

「どのくらい痛いかは分からないが、それを訴えてしまうくらい、緊急性があるのだろう」
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程度は分からないがとりあえず痛いらしいことがわかる。
一方、違和感はどうか。
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友人「肩回すと、なんかへん」

「どのくらい変なのかは分からないが、それを訴えてしまうくらい、変なのだろう」
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「痛い」という表現の明快さに比べて、「違和感」はかなり蒙昧なものしか受け取れない。
従って
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友人「肩回すと、なんかへん」

「ちょっと、肩にコンパスの針の方が刺さってるよ!!」
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というのが、人によってはありえる。
また、
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友人「肩回すと、なんかへん」

「肩のところに値札シールがついてるよ」
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もありえる。
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友人「肩回すと、なんかへん」

「なんか分からないけど、お前が肩回すたびに前の席の青木がため息ついてるんだけど」
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どういう関連性があるのかはさておき、これも「違和感」の蒙昧さのなせる技。
他人の言う「違和感」というのは、思っている以上に違和だったり、違和でなかったりするのである。

僕はやじるし(→)が好きだ。
→も↑も↓も←もかなりいい。
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風が吹く

桶屋が儲かる
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もう理由などは関係なく、有無を言わさない連続性がいい。
この場合、ことわざの本来の意味は消え失せ、「そりゃあ風が吹けば桶屋は儲かるよね」という気分にさせてくれる。
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八兵衛←うっかり
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これもいい。
説明はいらないし、今八兵衛というキーワードがさっと思い浮かんだ事で、よく思い浮かんだなということ、僕らの心の中には思っていたよりも深く、八兵衛が入り込んでいたんだということ。
そして「はちべえ」ではなく「はちべい」なんだな、ということが分かった。
そして当然、こういうのも可能だ。
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ご隠居←おせっかい
お銀←お色気
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いっぽう、これは少し違和感がある。
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うっかり→八兵衛
おせっかい→ご隠居
お色気→お銀
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おそらくこの違和感は数学で言う必要条件、十分条件的なやつで、「八兵衛←うっかり」が「八兵衛枠のなかでのうっかり」というニュアンス。
「八兵衛のなかでは、かなりうっかりの比重が高い」というのが通説であるため、違和感がない。
一方、「うっかり→八兵衛」は「確かに八兵衛はうっかりだが、うっかりとくれば、全て八兵衛なのだろうか」と疑問が残る。
「うっかり」の全てを八兵衛に任せてよいのだろうか。
確か会社の金田さんはすぐに捺印を忘れるっけ。
などと疑問は深まるばかりで、やじるしも使い方には気をつけないといけないことがよく分かった今日である。

オチなし

雲泥の差

「雲泥の差」というのも「月とスッポン」というのも、「たで食う虫も好きずき」換算によっては真逆の意味になるから、注意したい。
泥よりも雲のほうが好きな人は多いだろう。
しかし人によっては泥大好き。
泥がないと土曜日が始まらない、という人がいないとは限らないのである。
確か、大元の意味は「泥→地」「雲→天」ということで、天と地ほどの差、だった気がする。
天が好きなお年寄りは多そうだが、地上でまだまだがんばりたい、というお年寄りも多い。
そういうことだ。
なぜお年寄りを持ち出したのかは内緒にしておくが、この注意点は「ただ、距離が離れている」という解釈で解決できる気もする。
とにかく、「雲と泥」「天と地」くらいに、距離が離れている。
ただ、どっちがどっちにあるのかはわからない。
そういう考え方。
「川越シェフのスイーツと、30%引きシールの貼られたコンビニスイーツは、雲泥の差だ」
川越シェフのスイーツが好きな人も入れば、30%引きシールの貼られたコンビニスイーツが好きな人もいる。
賞味期限の関係から、ときどき川越シェフ監修スイーツに30%引きシールが貼られていたりしてわけがわからなくなるが、ともかくこれらには何か絶対的な「距離」があるのだ。
そういうことだけ、どちらが優れているなどは考慮しない、という考え方なら、もう少し油断しながらでもこの言葉は使用できるようになるだろう。
「月とスッポン」も同じだ。
ただ、距離が離れているだけなのだ。
となると、この言葉を最初に作った人は「月にはスッポンが生息していない」ことがわかっていたわけで、その点、えらい。

リンケージ、野菜スティック。

都心のほうに「バーニャカウダー」が「ただ」の店があった気がする。
お通しのような感じだったか。
僕はニンニクが苦手なのだが、確かにそこへ行って野菜スティック片手にそれ食った時、うまかった。
ただ、僕がより気に入ったのはその「バーニャカウダー」という語感で、何か「日本人には容易く覚えられないぞ!」という意気込みを感じさせる。
要は忘れる。
今日もこのブログを書くときに「あれ、こないだ食った野菜スティックに付ける何かを食べたのに、名前が出てこない」となった。
ちょっと「バーニャカウダー」には失礼なのかもしれないが、一方で彼女にも非がある。
日常生活において、その出現頻度が少ないのだ。
もっと会話に出てきてくれれば覚えられるのに。
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「バーニャカウダー、今日は早いじゃん」
「バーニャカウダー、乗り継ぎ超うまく行った」
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「おはよう」を「バーニャカウダー」に変えてみた。
これなら、その頻度はいままでと雲泥の差になるだろう。
しかし「おはよう」に比べて「バーニャカウダー」は文字がおよそ2倍長い。
日本の挨拶が2倍、かかってしまう事になる。
まあ、ドイツもグーテンモルゲンでがんばっていることだから、ここは「バーニャカウダー」の知名度アップのためにも日本はがんばりたいところ。
だが、一方でこうなってしまうのはどうしたものだろう。
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都心のほうに「おはよう」が「ただ」の店があった気がする。
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失う事でそのありがたさが分かるものって、あるよね。

リンケージ、にんじん。

にんじんというと、僕にとっては小説でも米菓子でも田原俊彦でもなく、「なんか子供の頃は嫌いだったけど、今は食べてる」という印象。
なぜ子供の頃嫌いだったか。
「大人になったときにちゃんとにんじんの嫌いなところを思い出せるようにしておこう」と考えていなかったため、あくまで推測になってしまうが、たぶんちょっと甘い。
にんじんは煮ると少し甘くなる。
あれがいやだった気がする。
野菜のくせに、なぜ甘くなるんだ。
幼少の頃の僕はそれが許せなかった。
だから僕は、にんじんを料理の中から除外したり、寒空の下吊して放っておいたりは、まあしなかったが、よくその衝動を抑える事ができたと感心する。
寒空の下吊して放っておくとむしろ甘みが増したりするような気もするから、賢明でもあった。
ところが今では案外おいしいと思っている。
火が通っていても野菜スティックでもおいしい。
あんなに憎んでいたのに。
僕も甘くなったものである。