単眼の交差点

僕の住んでいるところでは、一度だけ夜に計画停電になった。
停電前までに到達できる最寄り駅から、自宅に向かって歩いた30分程度のことをよく覚えている。
かろうじて灯りはついているが人の気配がないホーム。
線路沿いには物珍しそうにあたりを見回し、子供たちがはしゃいでいる。
すれ違う人は多いのに、やけに静かだった印象がある。
夕暮れも過ぎ辺りが暗くなると、夜というものがいかに暗いのかがよくわかった。
どこから仕入れたのか。
妙に細長いランプを食卓に置いて、静かな夜を過ごす。
まるで物音を立てると襲われてしまうような緊張感がある。
ちょうど夜の森は、こんな感じだ。
夕食はカレーだった。
あの日、どれほどの家庭がカレーだったろうか。
灯油ストーブがあれば、暖をとるだけでなくカレーも作れる。
それゆえ、停電のときのカレーほど心強いメニューもなかっただろうから。
ラジオの乾いた音、内容の分からないipadの映画に飽きたのだろうか。
家族の一人が「外の様子を見てくる」と言い出した。
これは、確実に「川の様子を見に行ったまま戻ってこない」フラグである。
彼は酔っている。
正直嫌だったが、僕も興味があるふりをして付き添う。
街は真っ暗だ。
信号機もついていない交差点を、あんがいなスピードで自動車が横切る。
ぶらぶらと歩く彼の後ろにつきながら、僕はランプの灯りのことを思い出していた。
どこぞの民族宗教的な話。
祈祷の儀式を行う際、灯りは電灯などの「ゆらめかないもの」ではなく、たいまつやアルコールランプ、ろうそくなどの「ゆらめくもの」を使用する。
あのゆらめきをずっと見ていると、ある種の陶酔状態になるのだという。
それが結果、見神体験をもたらすのだ、と書かれた本を見たことがあるような気がした。
あの日、どれほどの人がそんな体験をしたのだろう。
近所のコンビニには、店は閉店しているにも関わらず、たくさんの人が集まっていた。

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