毒虫の犠牲術

例の、あれだ。
毒々しい毛虫とかの、あれだ。
一度その虫を食べて、毒によってつらい思いをした鳥は、その色の虫を見てももう食べないっていう、あれだ。
この話がとにかく腑に落ちないのは、なぜだろう。
やはり、最初にして唯一となりえる、犠牲者の虫のことだろうか。
自己犠牲心がものすごい虫なんているのだろうか。
あやしい。
それとも、こうだろうか。
「毒々しい色をしているが、一度は食べられていないとその毒々しさの意味がない」

「しかし食べられるのは、自分じゃないだろう」

「毒々しいで、いこう」
ついばまれてしまった毒虫の心情はいかに。
「おれ?、おれなの?」
あるいは毒虫を食べて相手が死んでしまった場合。
それが毒虫であると他の鳥には伝わらないため、鳥がやはりそいつをついばんでしまうのではないだろうか。
と、ここで勘違いというか考え不足な点に気づく。
毒虫の毒は、相手を殺すための毒なのか、嫌な思いをさせるための毒なのか。
前者なら戦略は「虫>鳥」の絶対的な数の違いを全面に押し出しての、虫勝利である。
しかし虫側にも相応の被害が出る。
一方後者なら、鳥は減少はしない。
ただし天敵としての素質も下がるだろうから、虫勝利ではあろう。
そして何よりも気になるのが「鳥間での情報伝達」があるのかないのか、あるいはどれほどのものなのだろうかという点。
「おれあいつ食ったらすげーつらかった」
この旨を相手の鳥に伝えられるのなら、後者の虫の戦略はかなり効率がいい。
その伝え方はアイコンタクトかもしれないし、虫を食べてつらそうに口を開けている姿を見られることかもしれない。
食べてすぐ出すのもいい。
そうすると見ていたやつがまた食いついて、またすぐ出すだろうから、犠牲1で2粒おいしい計算になる。
とはいえ、これらの戦略どちらせによ、あんまりに虫勝利になってしまうのは考えものだ。
天敵の減少による虫の爆発的増大から、えさ不足によって虫死滅も考えられてしまうから。
だから虫としては、鳥もつらいかもしれないけど少しは自分たちを食べてもらいたい、と思っているだろう。
当事者はもちろん「おれ?、おれなの?」だろうけど。

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