こないだ考えた「外人さんに教えたいギャグ」というものに、こういうのがある。
「ワタシノ コドモハ ヒザコゾウデス」
しかし周りに手軽な外人さんはいない。
ここで誤解されたくないのが、このギャグを「ある異国の母国語使用から出る排他的劣等感を笑おう」というものでは決してないというところだ。そして僕は何を言っているのか。
まあとにかく、決してない。
正直なところ、僕が「ワタシノ コドモハ ヒザコゾウデス」という外国人に出会ったら、その頭の良さとセンスにおののき失禁するだろう。
それは明らかに演出だ。
例えば日本なら「日本語をそんな風にずらして話す外国人、という自分」をこの外国人は演出しているのだ。
すごい。
脱糞ものだ。
そしてひじを指差したりしてしまうのである。
もう、いたれりつくせりである。
この外人さんは、目の前の日本人に対して最高のおもてなしをしているのである。
ああ、失禁と脱糞が一緒に来てしまったとき、それをなんと表現するべきなのだろうか。
なんとなく「失糞禁脱」とすると、なんだか聖人だか70年代アイドル的な感じをもよおすが、また「もよおす」ってのがどうも。
ここでは「失禁と脱糞が一緒に来てしまったとき」のことを「自由」としよう。
ひじを指差す外国人のまえで、僕は自由だ。
僕は何を言っているのか。
今日は何を言っているのかと思うことが、ひたすら多い。