なめくじに「かかと」があるのか、ということは全然考えていなかったが、なめくじの話だ。
なんとなくだが「かかと」がしっぽの部分だとしたら、かかとかさかさななめくじは進む事ができないだろう。
小さい頃、なめくじの通ったあとの粘液を見て心配だったのは「あのねばねばは、なめくじのかけらみたいなものであって、進めば進むほどなめくじは削れて小さくなってしまうのではないか」ということだった。
進めば進むほど小さくなるなめくじを想像して、幼いながらに消費社会におけるある種の顛末を見せられたような気がしたものだ。
うそである。
僕がむしろ心配していたのは「進んでいるなめくじのすぐ後ろを進んでくるなめくじは、どんどん大きくなるのではないか」というものだった。
例の粘液を吸収していき、巨大化する。
雨の日、塀をF1っぽく相手の後ろをとりまくるなめくじたちを想像し、ある日ぼたりと夏みかん大のなめくじがいたらどうしようなどと考えたものだ。
そこまで巨大化するのは大変だったろう。
こう道ばたに落ちているのも、あまりに体が大きく、重くなりすぎて塀にへばりつけなくなったがためだ。
なんとなく垢擦りで垢がこんなにとれました、というのを思い出しながら、僕はそんななめくじを見たときのために、驚くシミュレーションなんかをしていた。
うそである。
僕は昔から、なめくじに対してなんら感情を持ち合わせてはいなかった。
まあ、気持ち悪かった。
かたつむりほどに持つところもなく、分泌系で、何より「つー」と進むのだ。
「つー」と音を出して進んでるようにすら見えた。
そしてなにより、これ以上に決定的な何かが僕となめくじのあいだには起こらなかった。
サンドイッチのなかに入っていたとか、額を這われたとか、あるいは逆に卒業式の日に塀に「おめでとう」となめくじで書かれていたとか、なめくじをいじめようと探していたら「しおやめて」となめくじで書かれていたとか。
こんなにも何も起きないかね、なめくじとは。
決定的な何かが、僕らには起こらなかったのである。
なのになぜ今回、なめくじなのか。
それは例の、かかとってくだりが、さ。