雨男、雨女についての、なにやら否定的な内容の文章を何度か見たことがある。
「そんなやつは科学的にいるはずがない」
「勘違いだ」
まとめると、そう言っている。
しかし、口では雨男雨女と言いつつも、本気でそれを信じているかとなると、疑問である。
そういった人たちは、上記の科学的どうこうを見て、こう思うだろう。
「そらそうだ」
そして次にこう思う。
「そらそうだけど、まあ話の材料くらいなんだし。雨男雨女の用途」
「そんなにがっつり考えなくていいじゃん」
となると、科学的どうこうの人は、こうなる
「いや。僕だってそんなに深くは。でも、一応はっきりさせておく必要があると思って」
このあとは「でもね?」「そうだけれども」が飛び交う冷戦となるのは明白である。
というわけで彼らの仲介が、雨男雨女にとって唯一無二の責任となる。
彼らが切に明日の晴れを願うのは、その名誉挽回のためだけではないのである。

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