いきなりコーヒーの話でなくて恐縮だが、スタバの抹茶クリームフラペチーノはたいへんなおいしさだ。
抹茶風味というものが少し苦手で敬遠していたけど、妙に鮮やかな緑のそれは、死んだらおどろいた。
ごめん間違い。
飲んだらおどろいた。
???中略 おいしさの詳細???
おいしいのだった。
ところで、クリームや砂糖の入っていない抹茶は当然のように苦いが、それはコーヒーにも言える事。
苦いことが第一志望な人たちだ。
そういったものに添加を施すことで、これほどおいしくなるとは。
そう考えると、方向性は違うのだろうけど、やはり甘いものこそおいしいのではないか。
そして苦いものはおいしさよりも、どちらかというと「こんな苦いものを口に入れるなんて、俺も大したヤツだろ?」というアピールが目的なのではと思えてしまう。
※おいしいものを食べる人は「おいしいものを食べるなんて、すごいだろ、俺?」ということにはならず、単においしいものを食べる人であり、せいぜい食いっぷりが評価されるにとどまるであろう。
「どうだい。こんなものも、ぐいぐいいけちゃうぜ?」
こんな感じ。
しかし次、こうきた。
「え、それがどれほどの苦さか分からないって?」
となると、こうなる。
「何言ってんだい。これはちゃんとした手法に則って点てられたものだぜ」
ということで、抹茶やコーヒーに作法があるのは、そのアピールが不正でないことの証の役割を果たしているからかもしれない。
以上より、おいしいものを食べる人に比べて、苦いものを優先している人は、何かしらの他意が存在していることになり、その点めんどくさい。
だから近くには、どっちかと言うとおいしいものを欲する人がいてほしいものだし、苦いものを欲する人は、どっちかと言うとひとりが似合う気がする。