第3の選択

第三者の登場が、物事に深みを与えるかどうかは、場合によるだろう。
例えば「漁夫の利」という言葉。
確か、貝と鳥が争っているときに漁師が登場、貝も鳥も捕まえちゃいました、とかいう話が背景にある。
この場合、貝と鳥にしてみれば、漁師の存在は完全に第三者で、しかも自分ら捕まってしまうので、とほうもなく悪である。
しかしことわざもできたし、その点「深みが出た」と我々は言うことができそうである。
一方「矛盾」の話、「何でも貫けるヤリと何でも防ぐことのできる盾があいまみえると・・・」というやつでは、ちょっと第三者出現は困りそうだ。
子供「おじさん。このヤリで盾を突くと、どうなるの?」
「チョーップ!!」
ここでの第三者は「おじさんのチョップ」であるが、これで深みがどうこうというと、それは子供の頭部にいくらかの深みができるのかもしれないが、基本的には深みは生まれていない。
「琴欧洲と千代大海、土俵中央で動きません!!」
ここで行司が、あの芭蕉扇みたいので千代大海を叩いた。
ここでの第三者は「行司」であるが、すごい問題にはなりそうだが、やはり深みは出ていないのではないか。
どうやら「第三者」として登場、それで深みを出すのは、なかなか難しいことのようだ。
無論深みを出さないような第三者のほうが、面白いのだが。

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