「目の前でやってくれるんなら、そら見るけど、わざわざ見に行くのはなー。」
これが、5年ほど前の僕の考え方。
映画。
DVDで見たらええがな。
歌。
歌えばええがな。
劇。
いつも演じているがな。
こんなんだった。
では、5年後の今、僕はどうなのだろうか。
「中曽根元首相のソックリさん・クリスマスディナーショウ。」
「あのステラーカイギュウの胆石、日本初公開。」
「ドキュメンタリー映画・5円玉で五重塔を作る。」
このようなものを見るためなら、家族の誰かを病気に仕立てたり、質に入れたりするのだろうか。
実は、全然変わっていません。
むしろ「わざわざ見に行くかい」という気持ちは、もはや僕の中では不動のものになっている。
こいつはもう、揺るがない。
なので、とりあえず揺るがないものは横に置いといて、新規の気質を探したくなったのです。
「わざわざ並んでまで・・・」という気持ちを内在しながら、何かの順番を待つ。
結構いいもんです。
行ったら行ったで、面白いしね。
この気質を確実にモノにできたら、いつだって、僕はどのようなふるまいをするのだろうか。
楽しみだけど、たぶん日和見感炸裂。
月: 2007年7月
ふるまい2つ。の2
客席もほぼ埋まり、後は陽水氏(養命酒みたいだ)が出てくるのを待つのみだ。
騒がしい客席も、養命酒が出てくれば静まるだろう。
定時になり、大きな音でブザーが鳴る。
かなり長く。
「始まるから、お前ら静かにしろ」という意味だろう。
そんな中、前の席のおやじが、よほど何か喋りたいことがあるのか、ブザーに負けじと大声で何か言っている。
会場を静まらせるためのブザーに、あくまで対抗するおやじ。
ブザーはおやじに気付き、さらに音量を上げたいところだろう。
そして、伝えたい言葉を伝えたい相手に伝えるため、さらに声高らかなおやじ。
相乗効果である。
ブザーの大音量に混じって「若い人が少ない」旨の会話が聞き取れた。
「一役買っているお前が言うな。」は、ブザーの前に掻き消えた。
ふるまい2つ。
昨日、知らないおじさんの後ろに並んでいたら、近くで2人の男達が路上コントのようなものをやり始めた。
みんな集まれ的なことを叫んでいる。
並んでいるおじさんも、僕も、そちらに目がいく。
「はい、目を閉じてくださーい!!。」
人を集めといて目をつむれとは、どういうことだろうか。
「では今から、ドナルドダックの笑い声のマネをしまーす!!。」
そうか、マネするか。
と、次の瞬間、かなり驚かされた。
ドナルドダックのものまねを聞いた観客達が、予想以上の歓声をあげたのだ。
もちろん、ここで書きたいことは、ドナルドダックのマネがどうこうや、コントの出来などではない。
予想以上の歓声は、観客達の多くが、今までの人生の中でドナルドダックのマネをしたことがないことを示しているのだ。
僕が思うに、ドナルドダックをマネる能力の獲得には2つのステップが必要だと考えている。
1つ目は、ドナルドダックの声に触れることだ。
これは、油断さえしなければ、幼少期に経験済みとなるはず。
単にガーガー言うだけでなく、いかにも何か言ってそうな、怒ってそうな口調(?)は、僕らの脳裏に焼きつくはずだ。
2つ目は、声喩を口にすることだ。
これだって、たいていの人は「ワンワン」とか「キュイーン」とか「どーん」とか言っているはず。
好きな曲があれば、そのメロディーをも口に出してしまうムーディも多いだろう。
そして、口に出すからには本物の音に近づけたいというもの。
例えば、どーんと言う人は、
「あぁ、あれね、言うの?、あぁ、はいはい、どーん、と。ほら、ね・・・。」
とかいうよりは、
「ずごごごごごご、どぅどぉーーーーーん!!、じょふぁああああああ!!、ぎゃあぁぁぁぁ!!!、シィィィタァァァァァ!!!!!!」
とかのほうを目標としており、
「パズゥゥゥゥゥゥ!!!!!」となるはずだ。
この2ステップを学ぶシーンを逃さなければ、たいがいどこかのタイミングの「どーんリアル節練習中」において、「あれ、何かドナルドっぽくね」的な口の形と吐息の出し方が発見されるのである。
歓声をあげた人たちは、これらのステップのどちらか、もしくは両方を学ぶタイミングを逃したがゆえに、「自分には到底ドナルドは無理だよ」と思ってしまっている。
そんなことはない。
その気になれば、ドナルドはいけるはずだ。
並びながら、そんなことを思う。
ふと、前の背中に気付く。
おじさんはドナルドを聞きに来たのではない。
僕だってそうだ。
場所、NHKホール。
井上陽水コンサート会場だ。
指定その2
昨日からのつづき
【あらすじ】
「R指定」って、色んなところで使えそうだけど、疑問もあるな。
「R指定」への疑問点は、その指定が定数で区切っちゃっているところ。
年齢だ。
「R-18」なら18歳、「R-15」なら15歳未満だっけか。
「R-54T」ならかなりロボットっぽい。
「R-120」なら未来への先手打ち過ぎだし、かなり生きる気満々だ。
人間、10歳になったら全員さかあがりができるといった十把一絡げ的な性質は、ひとつも持っていないだろう。
だから、
「R-15」を見るに耐えうる精神を修行で得た10歳が「R-15」と書かれたゲームの前で「もー!!、もー!!!!!」と地団太を踏むのを、
家庭が複雑で、まぁ色々あって、「R-18」を経験できる、絶えず安定した精神状態を保持できる能力を獲得した12歳が「R-18」と指定された覚せい剤根絶キャンペーン映画のDVDを手にとって「もー!!、もー!!!!!」とハンカチを噛むのを考えたとき、
なんとなく不条理な気がするのだ。
ちなみに、後述の例では、いよいよ本格的に不条理な気がするのだ。
よって、「R指定」は定数で指定しないようにするといい。
「R親知らず期」
:一生お世話にならない人もいる。
「R反抗期」
:子供向け、親向けと用途が分かれるため、表記は
「R反抗期」と「R反抗期(親用)」に分ける。
(子用)と付けないのは、エチケット。
「R倦怠期」
:ある意味、だいぶ過激なものになりそうだ。
消費者は、期待する商品を手に入れられるだろう。
指定その1
「R指定」というものは、もっと色んな風に使えばいいと思う。
例えば、書店などではよく「中学生のあいだに読んでおきたい本」みたいなものがあるが、これには「逆R(アンチアール)」を仕掛ければいい。
「AR15指定」なら、16歳以上の人には売らない。
こうなれば、なんとなくでも15歳までには読んでおかなくちゃ、となるはずだ。
もちろん、ネットなどで「AR18指定のものを違法に配信する」ことなどが懸念されるが、おそらくそんなに問題にはならないんじゃないかと思う。
なぜなら、「R指定」では「もっと人生積み重ねなくちゃいけないのに、それを一足お先に」的な需要が存在するけど、「AR指定」ではそんな需要に相当するものがないから。
「へっへっへ。「ライ麦畑でつかまえて」を46歳でも読んじゃったよ?」
相手が「あぁ、よかったね・・・。」と悲しい笑みを浮かべるのが、目に見える。
でも、この「R」の指定ってのには、疑問点もある。
明日へつづく。
自我開放
幸運なことに、今まで僕は「骨折」というものを経験したことがない。
したいとも思わない。
やはり、痛いのだろう。
身近にも、骨折したい人はいないし、骨折したままにしている人もいない。
ところで骨折は、患部がたいへんなことになっているか、たいへんなことになっていないかで分類されることをご存知だろうか。
・閉鎖骨折:骨出てない
・開放骨折:骨出てる
※「患部がたいへんなことに・・・」と、明確な文章を書かずに申し訳ないが、それは、いきなり「骨出てる」とかいうのはちと衝撃的すぎるか、と考慮したためである。
やはりいじりやすいのは「開放骨折」、しかも「骨折して、その骨が皮膚を突き破る」ケースである。
本来、皮膚は外から闖入者が入らないようにしている組織のはずだ。
だから、内側から刺される、しかも自分の組織に、となると、寝耳に水に違いない。
「皮長!!、内側から刺傷が発生しました!!」
皮長は骨たちのことを間者とののしるに違いない。
一方、骨のほうは骨の方で、すでに割れてしまっている。
もう、大ピンチである。
しかも、骨は感染症に弱いとのことだ。
なんとしても体内へ引きこもっておきたいところ。
でも、皮が。
皮のやつらが。
骨が開放していくのを止めることができなかったのである。
開放骨折は、このような展開により、骨と皮の確執という、なんとなくスネ夫を思い出さずにはいられない問題を引き起こすのである。
幸運なことに、今まで僕は「骨折」というものを経験したことがない。
もし骨折してしまって、それが開放骨折だったりしてしまったら、僕はこの諸問題を思い出し、痛みを少しでも忘れようと思っている。
あと3回は使いたい言葉。
囲碁というものの遊び方を、僕はほとんど知らない。
オセロの仲間程度に思っていたが、誰かに聞いたところ、何か分からな
いけど囲んで倒す、というゲームなのだそうだ。
このまえ、電車内でサッカー少年達に囲まれてしまった。
やつらはたいがい大きなバッグを所持しているので、それが邪魔になり、逃げるに逃げられない。
囲碁というものの遊び方を、僕はほとんど知らないが、黒い敵に囲まれた白い碁石は、こんな心境なのだろうか。
四面楚歌。
四方から聞こえてくるのは歌ではなく、「たけしのスパイク」やら「他校生徒の足の速さ」やら「Jリーグ」やら。
気分はすっかり、サムライブルーである。
おっきな兄さん連盟
誤解を恐れずに言うなら、からだの大きさと人間関係の広さは、比例する。
小学校低学年では、隣の机のマリちゃんと、給食のおかずを気にしていればよい。
しかし、その高学年にもなると、他のクラスになってしまったマリちゃんの他に、隣の机のハルカも気にしなくてはならない。
さらに中学生になり、からだが大きくなると、他のクラスのマリやハルカの他に、隣の机のケンタも気にする必要があるし、他のクラスのジュンコに気にされてしまったりするし、エロ本を貸してくれると約束したハカセには最大限の気配りが必要となり、大変である。
さらにその後、成長しつつ、他校との交流試合があったり、高校へ行って「マリ・ハルカ・ケンタ・ジュンコ・ハカセ」的な関係が2倍にも3倍にもなったりする。
そして、校庭を暴走族が暴走し、その名の由来を窓から見る者に知らしめるのだ。
たいがいのものは、この辺で成長も止まりだすので、人間関係もそれほど新規開拓されない。
例えば会社に入ったとしても、「からだ成長期」時代ほどの頻度では人間関係は更新されないのではないだろうか。
たまたま「からだ成長期」と義務教育期間が重なっているため「学校で、様々な人と出会う機会があるから人間関係が増える」と思われがちだが、実はそうではなく「からだが大きくなるから、人間関係が増える」のである。
だから学校に行かなくても、からだが大きくなるにつれて、上記の「マリ」を担当する者が、エロ本をくれるハカセを担当する近所のおっきな兄さんがいやおうなしに登場するのである。
・・・納得いかない?。
それもそうだ。
でも、見たまえ。おすもうさんを。
隣の人と、くっついてる。
見たまえ、おすもうさんたちを。
ほぼ融合している。
過去形修飾
ここのところ、アナフィラキシーな気分だ。
いや、ノスタルジーな気分だ。
全然違う。
ひでり。
最近、すごいひでりなのだ。
ひと昔は、もっとおもろいことを書いていた気がする。
もう少し、友達がいた気がする。
何もないところでなんか、つまずかなかった気がする。
ちょっと前を思い出させる、まぶしい光。
ふと、小学生のとき読んだ、国語の教科書を思い出す。
好きな話があったな。
「夏みかんのにおい、どうこう、云々」とかいうものだ。
数年前、この話をもう一度読みたい、という友人と遊んだ。
「あの、夏みかんの話がもう一度読みたい。」
「どんなんだっけ。」
「においが、どうこう。」
「あぁ、確かに、夏みかんのにおいを嗅ぐ話だった気がする。」
そのときは夏みかんのにおいを嗅ぐ話に興味がなかったので、さりげなく「テレビに映る鳥を取ろうとする猫」の話に移行させた。
今なら、もう一度読みたいと言った彼の気持ちがよく分かる。
なんたって、夏だからね。
しかし、それだけじゃない。
太陽の光と思い出の物語が、僕に追憶を感じさせる。
あー今すごく、蚊に刺されている。
これも一因かも知れない。
今まで、光と物語でそんな気分になったことはなかったはずだ。
蚊なのか、ネタがないのか、老いたのか、全部なのか。
どちらにせよ、過去を思い起こさせるものに過剰に反応してしまうのは、いろいろとざんねんな証拠だ。
そして、過剰な点のみを考慮すれば、冒頭の言い間違いは、一概に間違いとは言えないのだ。
あなたのハートにインプラント
最近、深夜1時ごろに、外からある音が聞こえてきて困ります。
音を活字でどのように表現すればよいのかわかりませんが、
ニュアンスを失わない形容は、思いついています。
「2001年宇宙の旅」に出てくるUFOが降りてきそうな音。
無理して字におこしてみると、
「ぴゅーーーーウィンウィンウィン、パーパーパー」という感じ。
ファクスか何かで、電話に出ると「ピーヒョロロロロ」という、明らかに国家レベルの暗号的な感じのヤツがありますが、あれをさらにUFOが降りてくる感じにしたものです。
これが深夜、しかも結構な音量で聞こえるのです。
誰かに確かめたところ「車の防犯ブザーではないか」という不明瞭な回答を得ました。
うーん、不明瞭。
なにが不明瞭かって、
車の防犯ブザーは毎日、定時に鳴動するのでしょうか。
なんて、律儀な自動車泥棒なのでしょう!!。
また、防犯ブザーを「UFOが降りてきそうな音」にする必要があるのでしょうか。
矢追さんに幾多の誤報が集まることでしょう。
さらに、車の持ち主は、毎夜の出来事なのに、なぜブザーが鳴らないようにしないのでしょうか。
交信?。
交信?。
こうなると、一番ありえそうなのが、UFO関連なのです。
「一番ありえそうなのが、UFO関連」。
これほど信用置けないフレーズは、そうはありません。
こんな状態なので、僕は回覧板で「カーミューティレーションに注意!!」とかいうチラシが来るのを、待つほかないのです。
追記
数年前、こじんまりと「あなたのハートにインタラプト」というのが流行りました。