引き分け言い分 はらたつやつ

神「お互い考えた、腹立つやつを発表してもらいます。」
A
「オセロをしている。相手のターンですさまじく自分のコマがひっくり返されてしまうことが確定していて、それでも自分の番で取ったコマをひっくり返すとき。」
「これ、どうせすぐ変わるに決まってんだけど」とぼそぼそ言いながらコマをひっくり返すやつ。
B
「将棋をしている。ほぼ自分の勝利が決まっていて、ここで最後の一押しのとき。」
「その決定打となるコマをさすとき、そのさすべき場所より少し前に、音を立ててコマを叩き置く。」
そのあと、にやりとして、相手を見ながら、ゆっくりと盤上を滑らせて、所定の位置にコマを移動させてくるやつ。
神「お前ら何言ってんだかわかんね。even!!。」

卒業文集 8番

卒業文集
8番 楠田枝里子
大きな人になりたいのです。
この間、お母さんと買い物に行ったとき。
スーパーの大安売りコーナーで、人とお母さんを押しのけてまで並ぼうとしたとき、思ったのです。
「もっと余裕のある、こころの大きな人にならなくては、だめだ。」
大きな人になりたいのです。
少し前、急いでいるのにホッチキスの針がなかったとき、ホッチキスに怒ってしまいました。
そのとき、思ったのです。
「もっと余裕のある、こころの大きな人にならなくては、だめだ。」
これからは、そうしようと努力します。
フタの開いていない状態のティッシュに、ティッシュカバーがかけられていても、怒らないようにしようと思います。
忙しくても、木に風船がひっかかって泣いている子を見かけたら、風船を取ってあげようと思います。
ケースくんが、私の大切にしていたプラネットマンのキン消しをなくしてしまったことも、許そうと思います。
大きくなって、将来はみんなを楽しくさせる仕事につきたいです。
注:本文いかなるオブジェクトも、全てフィクションです☆

テーブル カンバス

その食べ方で、アイデンティティが存分に表現できる食べ物といったら、何だろう。
例えば、そうめんとスパゲッティを比較し、どちらが「多く表現できるか」を考えてみる。
<そうめん>
普通の
にゅうめん
てんぷらの衣に使用
ビーフン
<スパゲッティ>
ナポリタン
ボンゴレ
カルボナーラ
ミートソース
ぺペロンチーノ
etc・・・
思いつく限りを挙げたが、どうやらスパゲッティの方の種類が豊富そう。
単純なのだが、その種類が多ければ多いほど表現の幅が広い、と言えるかもしれない。
「俺、そうめんは、一口サイズにくるりとまとめられた状態を崩さないで食べるんだ。」
個性である。
「俺、ぺペロンチーノ食べるとき、一本ずつを油取り紙に通しながら食べるんだ。」
個性である。
そうめんや、ぺペロンチーノ部分を他の種類に変えることで、やる人がいるかはともかく、自由度はより高くなりそうだ。
ゆえに、種類が多いものが、アイデンティティの存分に表現できる食べ物になる。
「かに」の食べ方なんかも、色々できそうだ。
「かにの爪は、あとで遊ぶので、稼動部分を破損しないように食べます。」
個性である。
そのほかにも、
「まずは全ての身を取り出してから、それをほおばるようにして食べます。」
「身の細い、ワタリガニ系のものは、殻ごと噛みしだいて、その身をしゃぶります。」
「かにの手足は好きですが、本体は、びろびろがなんだかこわいので、手を出しません。」
「かにしゃぶって、何なんでしょう?」
という点でも、個性が表現できそうだ。
以上を踏まえると、アイデンティティを表現できる食べ物とは、こんな風にまとめられそうだ。
1.種類が多いもの
2.食べるのに過程が必要なもの
ということは、種類が多くて、食べるのに過程が必要なもの。
この2つの条件に当てはまる食べ物が、今回求めているものだ。
この点、一般的にかにと呼ばれているものは、遜色ない。
「俺、ケガニは正座しながら食べることにしてるんだ。」
「タバラガニだと思って食べてたのが、実はタラバガニだったの」
「え、うち、かにの身はストローで吸うよ?」
「僕の食べようとしたかに、タコがとろうとしたんだ。タコだけは許せねぇ」
「近畿地方では、ほとんどの子供がタカアシガニの足をしゃぶっています。ほのかに甘いのです」
「高峠町が毎年行う「スベスベマンジュウガニによる中毒撲滅キャンペーン」にはたくさんの人が訪れ、食べられずに余るスベスベマンジュウガニを用いたゲーム「くずしてがっぽりんちょ」でついにキャプテンブリーダーの獲得者が誕生するなど、大盛況となった」
「たてぶえにかにの身を仕込むというネタを、もう2つも確認しています」
個性の数は、かにの数。

障害物競争の今後

昨日からのつづき。
【概要】
?障害物競走のあけぼの?
原始的な障害物競走の誕生
?体系確立?
穴々越え越え競争の誕生と流行
?転機?
積極的障害競走の誕生
?近代における障害物競走?
積極的障害競走の敗退と障害物競走の誕生
*****
?現代の障害物競走?
障害することを人に依存するのではなく、モノで選手を障害しよう。
そうすれば、ずるは起きない。
「障害物競走」が現在に形に至るまで、障害物の試行錯誤の連続であったことは、よく知られたことである。
【成功のほう】
網くぐり
おたまに卓球の玉
でんぐり返し
跳び箱
etc・・・。
【錯誤のほう】
トラバサミ
開かない自動ドア
まきびし
暗室ゾーン
地面に引っ掛け棒が多数あり、うまく避けないと靴紐がほどける
貴金属を置いておく
焼けた灰
粉々になった蛍光灯
電話の受話器から水が吹き出る
一面にビー玉
一面に千羽鶴
キャプテン☆ドみの
踏み絵
ドアマンのいない回転ドア
こたつ
子供達が大切にしているぬいぐるみを踏まないと、進めない
地雷
もうそろそろひっくり返さないと焦げてしまうホットケーキ
放水
立てかけられていた5?6mの木材がばらばら倒れてくる
トリモチランチャー
このような変遷を経て、現在の障害物競走は完全なものに近づいている。
しかし、その進化はとまらない。
今後、以下のような障害が誕生すると見込まれている。
赤外線
イライラ棒
SASUKE風
ミッション・インポッシブル風
DOORS風
筋肉ミュージカル風
コース上にマインドシーカーを用意し、クリアしてもらう
というか、障害物競走自体をファミリートレーナー(古いほう)で済ます
PTA
このラインナップでは、障害物競走の発展が期待されるばかりである。
未来は明るい。

障害物競走の近代化

昨日からのつづき。
【概要】
?障害物競走のあけぼの?
原始的な障害物競走の誕生
?体系確立?
穴々越え越え競争の誕生と流行
?転機?
積極的障害競走の誕生
*****
?近代における障害物競走?
穴々越え越え競争選手ニギの発案した競技を聞いた委員たちは、あっと何かに気づいたような表情を一様に浮かべたという。
彼の案は単純だった。
「障害物たる穴を、より積極的に障害できる、人にかえる。」
さっそく、詳細な案が練られた。
障害人は選手を体で遮ってよいが、触れてはならない。
障害人は選手を追いかけてよい。
選手からは、障害人に触ってもよい。
など・・・。
人々は、穴々越え越え競争とはまったく違う、ダイナミックなこの「積極的障害競走」に熱狂した。
迫る障害人をいかにうまくさばくか。
追いかけてくる障害人たちを後ろに、ゴールへ駆け込んでくる選手は半英雄化された。
そして、その英雄は、ほとんどの場合がニギだったのである。
この流行に疑惑の暗雲が立ち込め始める。
「どうにも、ニギへの障害人がまじめにやっていないように見える。」
些細な投書だった。
しかし、調査をするまでもなく、問題点が浮上した。
ニギが障害人に賄賂を握らせていたのだ。
そして、その見返りとして
・自分(ニギ)に対する遮りをゆるくすること
・自分以外の選手への障害は、ばっちり行うこと。
・もしやり過ごされても、相手を追いかけていき、あわよくば追い抜くこと。
このような問題点が生じては、もはや「積極的障害競走」に競技としての面白さを求めることはできない。
二ギがその世界から追放されるとほぼ同時に、世界の人たちは「何かいい競争はないか」と探し始める。
「やはり、賄賂で動く障害がまずいのではないか。」
「モノなら、そんなことにはならないのではないか。」
現在見られる「障害物競走」の時代が始まろうとしている。
明日。
現代の障害物競走。
未来の障害物競走。

障害物競走のあゆみ

?障害物競走のあけぼの?
大昔、仕掛けたワナを突破して逃げる獲物を追うとき、破壊されたワナをやり過ごさなければならなかった。
そのワナの多くが落とし穴だったが、それを飛び越えるとき、思いのほか気持ちよかった。
そのため、狩人たちは狩猟の帰りにこぞってその穴を飛び越えた。
これがもっとも原始的な障害物競走の形と考えられている。
図:穴に向かって走っていく狩人と獲物を表した壁画
  ●-      |●| 
     -●      \●ぬ
  ●-        |||ぬ
?体系確立?
16世紀まで、原始的な障害物競走は存在したが「なんだか走って、穴を飛び越えて、面白い」だけの扱いであった。
しかし17世紀初頭、哲学者エトークは「一つの穴を飛び越えるだけでも面白いのだから、複数の穴を飛び越えると、もっと面白い。複数の穴を飛び越える競技が必要である」と提唱。
それを「穴々越え越え競走」と定義した。
それから19世紀末まで、複数の穴がコース上にあるタイプの障害物競走、「穴々越え越え競争」が大流行する。
?転機?
19世紀最大の穴々越え越え競争選手ニギは、ある日とんでもないミスをしでかした。
大会が近かったためか、テンションがあがってしまい、まだ穴を掘り途中なのに、スタートしてしまったのだ。
その結果、4つ目に当たる穴にて、掘っている人と対面してしまった。
掘っている人は驚き、どうにかコースをニギに明け渡そうとするが、ニギを避けようとすると、ニギもそちらへ避けようとする。
何度かそれを繰り返すうちに、ニギはやっとその人をやり過ごすことが出来た。
どちらにせよ、穴掘り途中でスタートしてしまう大失敗。
しかし、このときニギは、普段の穴々越え越え競走では得られない高揚感を得ていた。
「遮られたあと、走り抜けることができると、すげーいい。」
穴々越え越え競走から一歩、現在の障害物競走に近づいた形。
積極的障害競走の誕生である。
明日
?近代における障害物競走?

時間感覚

みなさんもご存知のように、エルフは長生きです。
どのくらい長生きかというと、500歳くらいまで生きる、ということでいいんじゃないでしょうか。
人間と比較すると、だいたい5倍です。
「それはすごい。さぞかし、有意義な時間を過ごしているのでしょうね。」
軽率な発言ですね、臼井さん。
実は、そんなことありません。
私たちと彼らの生い立ちを見比べてみましょう。
まず、この世に誕生したときです。
人間「バーブー」
エルフ「バーーーーーブーーーーー」
5倍です。
彼らが発したいのは同じ「バーブー」ですが、エルフは「ーーーーーーーー」分、かかってしまうのです。
次に、小学校です。
人間:九九
エルフ:四五四五
各5倍です。
覚えることよりも、1×1から言っていくことや、書き取りが大変です。
エルフ達は小学30年生までの時間のうち、5%を四五四五書き取りに費やすのです。
中学校を見てみましょう。
人間:障害物競走
エルフ:障害物競走
一見同じですが、エルフの方は、5倍危険になっています。
網くぐり・・・電流が流れています。
平均台・・・設置高度と距離が5倍です。
パン食い・・・20%の割合で釣り針になっており、50%の割合で、疑似餌です。
跳び箱・・・中に人がひそんでいます。
ハードル・・・これだけは横に5倍伸びているのみとなっています。
白い粉から飴探し・・・白い粉が毒になっています。
成人してからはどうでしょう。
人間:成人式
エルフ:市長から「これからもお元気で」という手紙が来る
我々の感覚だと、5倍長生きなんだから、成人のときは20×5=100歳がエルフにとっての成人では、と思われます。
しかし、彼らの世界でも100歳からは、人間のそれと同等の扱いとなってしまうのです。
そして、そこから寿命である500歳までは、世間話に費やす時間が5倍だったり、袋から出たネギの長さが5倍だったり、モチも5倍伸びたり、5倍疲れやすくなったり、5倍長い距離、渋滞になったりしてしまいます。
どうですか、白井さん。
ああ、臼井さんでしたね。
有意義じゃない、とは言えないですが、我々がエルフに対して有意義ですね、とは言えなさそうですよね。

奇跡2つ。

奇跡が2回以上起こる必要はない。
って、誰かが言ってた。
そんなことを以前、書いたりもした。
確率
こんなのはどうだろう。
「妖精や怪物の住む世界で暮らすことになったひろし。途方にくれていると美人のエルフが声をかけてくれた」
あー、もう素敵すぎ。
物語にありそうな感じだ。
だが、残念な事に奇跡が起こりすぎている。
物語とはいえ、起こりすぎている。
まず「妖精や怪物の住む世界で暮らすことになった」くだり。
これを奇跡と言わずして、何を奇跡と言うだろう?。
次に「エルフが声をかけてくれた」くだり。
たいていの人は、SF世界にワープするという超難関をどうにかすれば、そのあとはめくるめく大冒険が約束されていると思いがちである。
実際、何らかの理由でその世界を救うために、SF世界での居住を余儀なくされている、というシチュエーションもあるだろう。
しかし、だからといって、見ず知らずの人類に声をかけてくれるエルフがどれだけいるだろうか。
やつら、長生きらしい。
「あ、人間?。ほら、あっちにこの世界から抜けるための出口、あるで。」
そう言われるに違いない。
そうあしらわれなかった場合も、その多くは「お前の力で大魔王を倒してもらいたいんで」が背景にあるだろう。
さらに「美人」。
エルフは美人である、という説が当たり前のように闊歩している現在。
我々が考えなくてはいけないことは「美人のエルフがいる背景に、普通のエルフはどれほどいるのか」である。
エルフ白書とかが手元にないのでなんとも言えないが、ぶっちゃけエルフじゃなくても、美人に声をかけてもらえるってだけで、奇跡である。
というのは、話としてゆるすぎるか・・・。
とにかく、奇跡だらけである。
ということで、奇跡を1回だけ許容するとすれば、冒頭のヤツは、以下のとおりになる。
「妖精や怪物の住む世界で暮らすことになったひろし。途方にくれている。」
「田無で暮らすことになったひろし。新宿駅から500mくらい離れたところで美人が声をかけてくれた。」
「武蔵小金井で暮らすことになったひろし。コンビニで気持ち耳のとんがった人を見かけた。」
・・・手の届きそうな奇跡、ありそうじゃないか。

ことば変数

駅のエレベータの外側を覗くと、アルミで出来た土台部分が見えて、そこには猫の足跡が点々としていた。
僕がそこから得られる情報は、これだけ。
「猫がそこを歩いた」。
ここに、奇跡を付加してみる。
奇跡 + 0
「あ、あそこ。猫が歩いたんだね。」
奇跡 + 1
「あ、あそこ。魚くわえた猫がいたんだね。」
奇跡 + 2
「あ、ルンバだね」
○奇跡 + 1では「何でコイツ、猫が魚くわえてんのがわかったのか」という点が、それにあたる。
足跡付近に魚の尾の跡でもあったのが見えたのか。
前足の跡が強めに残ってたため、体前部に重さが加わっているのがわかったのか。
どちらにしても、彼の能力には驚愕するばかりである。
○奇跡 + 2では「足跡でダンスの種類が特定できるアイツ」という点と、「猫がルンバをたしなむ」の2点がそれにあたる。
彼は、この短い文章で、奇跡を2つも演出してしまった。
ちなみに、彼が猫の色が黒であること、足跡からタンゴであることを見つけ出したら、奇跡数はもう少し上がる。
今度は、まどろっこしさを付加してみる。
まどろっこしさ + 0
「猫が歩いたんだね。」
まどろっこしさ + 1
「あそこ、ほら。肉球のあとが、点々としてるじゃん。あれ、猫が歩いたってことかな。」
まどろっこしさ + 2
「あれ。ほらー、あれ。なんだろ。あの、点々。え、もう電車来た?。でも、ほら。」
○まどろっこしさ + 1では、肉球のくだりが、それにあたる。
そんな跡があるのは、猫が歩いた以外はちょっと考えにくいため、「猫が歩いた」でいいはず。
肉球うんぬんは、いらん。
○まどろっこしさ + 2では、本題に入るのが遅い点と、電車が来てしまった点が、それにあたる。
あー、まどろっこしい。
僕はひとりだったので、心の中で「猫」と思いました。

意味のある欠落

なにやらへんな本を読んでいたところ「○○の調査(1944年?1946年の資料なし)」ときた。
ここで「なんだよこの調査、完璧じゃないじゃん!!」と怒るやつはそんなにおらず、たいていの人は少し、文章以外のところを物思うだろう。
調査内容としては単なる資料無しだが、広く考えると「意味のある欠落」と言えそう。
TVドラマ「古畑任三郎」では、中森明菜が薄幸ただなかの漫画家の、特に薄幸部分を、もう扮しているとかじゃないんじゃないかというくらいに扮していた。
詳細ははぶくが、この回で古畑は、本来はあるはずのものがない、という点に着目。
犯人、中森明菜を見つけ出している。
普通あるものが、ない。
そのことが、あったときよりも多くの意味を持つことが多分にあるのだ。
今、テレビのリモコンが紛失状態だ。
いつも置いてある場所に、ない。
この欠落は、以下のような意味を持ちそうだ。
「違う場所に置いた可能性」
「あんまりテレビを見ないように、という警告」
「誰かがもってった可能性」
だが残念なことに、テレビのリモコンの意味とは「その場所にある」ということよりも「遠距離からテレビを操作する」が重要であり、上記の欠落による意味増加は、それをなんら解決しない。
上記の意味では、物思うことすらできない。
・・・いや、やろうと思えばできるか?。
「あのとき、リモコンを別の場所に置いてしまうくらい、落ち込んでいたんだっけ。あの夏を思い出して・・・。」
「あんまりテレビを見ないように、という警告かもね・・・。久しぶりに墓参り、行っとくか。」
「誰かがもってったのかな。でも、誰もいないし・・・。久しぶりに墓参り、行っとくか。」
墓前にリモコンがあったら、ばんざい。