昨日からのつづき。
【あらすじ】
花粉症の薬の効きがいまいち。
去年くらいまではもらっていた「強めの薬」を要求してみる。
=====
現在処方してもらっているのが、飲み薬と目薬と点鼻薬だ。
このうち、目薬と点鼻薬はよく効いている。
以前書いたと思うが、幼少の頃の点鼻薬はその効果もさることながら、やっているときの間抜けさもいまいちなものだった。
しかし今のは、確かに効いていることが実感できる、ような気がする。
目薬も、さした時は「なんか入れちゃいけないものを入れたような気がする」と思わせる妙な刺激を感じるのだが、徐々にかゆみがひくのがわかる。
ただし、点鼻薬はその使用を「必ず朝に1回ね」と念を押される。
要は1回以上はちょっと、というものらしい。
目薬はそのような作用はないらしいが、一方で物理的に使用回数が制限される。
あまり量がないのである。
ということで「飲み薬」にもがんばってもらいたいのである。
以前は、強めの薬と称して「頓服薬」と書かれたものも処方してもらっていた。
ちゃんとした薬名は控えてなかったのだが、確かにこれは効いた。
それだけは覚えている。
ただし、やはり医者は「とにかくきついときに、1個ね」と妙に念を押していた。
本日、「ちょっと強めのやつを以前は処方してもらっていたんですけど」で始まるやりとりで、わかった。
やはり、その頓服薬も「1回以上はちょっと」というものだったのである。
「ああ、あれ?。飲まない方がいいよ」
そうだったんだ。
まあ何となくはそうなんだろうとは思っていたけど。
アレルギー、免疫系、代謝あたりと。
片方を抑えればもう片方が過剰というような恒常性のことを考えると、デメリットなしの薬というのはなかなか難しいのだろう。
その日は「いつものやつよりも効くらしいが、より眠くならない」という、最初からそっちで頼みたい薬を処方してもらった。
出し渋った理由もあるのかもしれないが。
それにしても、医者にとって僕はいつ「あれは飲まない方がいいよ」ゾーンに加えられたのだろうか。
もう、あれには耐えられないような表情になっていたのだろうか。
カテゴリー: 雑文
干し草積まれる鼻の高さまで。 1
幼少のころは花粉症がひどかった。
あまり詳細を覚えていないのだが、血液検査の結果を見た医者がうなって、周りの看護婦さんをみんな呼び寄せてその数値を見せていた。
覚えていない事を少々逆手に取った誇張術を披露した訳だが、うなっていたのは本当。
なにせ朝、目が開かない。
鼻で呼吸ができない。
目やにと鼻水が固まる。
朝はこれをお湯でやさしく取り除く事から始まるのである。
ある本に、ある麻薬を過剰に摂取したときのことが書いてあった。
起きた時、大量の目やにで目が開かなかったのだという。
花粉は麻薬だったのか。
それを読んだ時、そう思った。
今年は花粉少ないと噂されている。
しかし、これはなぜだか分からないのだが、僕にとって「花粉予測、花粉予想」的なものは信じるに値しないものとなっている。
というのも、一般的には花粉が多くないと目される雨天のときが、よりひどい症状だったりするからである。
そういうこともあるのだろうか。
最近受けた血液検査では、幼少のころほどはスギ花粉に対するアレルギー反応はないという数値が出て安心した。
しかし、それと今年の花粉予測を持ってしても、薬はもらっておくに超した事はない。
ということで薬を飲み始めているのだが、なぜかあまり効かない。
ひどいときは、夜中に目をかきむしっていて朝、充血どころではない、ピンクの目になっていることがあるのだ。
ということで、去年くらいまではもらっていた「強めの薬」を要求してみる事にした。
ついで。
「立ってるやつなら親でも使え」というのは、こう見てみるとそれだけで結構いじりやすいが、僕が主にこれを聞いたのはコタツにまつわるエトセトラ。
たいがいはみかんの運搬係を決めるための言葉だったように思う。
などと言っているが、実は我が家にコタツはないので、一体どこで聞いたのだろうか。
ともかく、それは「ついでにやってもらえ」という意味を少なからず含んだ言葉である事は間違いなさそうである。
さきほど、この「ついで」というものの意味が気になってきた。
例えば「立ってるやつなら親でも使え」。
これに「ついで」の意味を見出しているとすれば、それは「立ってる親に何をしてもらえるのか」という事が重要で、そこが気になったのだ。
まずはみかん運搬係。
これは問題ないだろう。
そもそも運搬系は大丈夫だ。
やってもらえるか、親に対する敬意については疑問が残るが、少なくとも「ついでついで」している。
「ついでにパン焼いてきて」
これはちょっと難しい。
先ほどの疑問もさることながら、「立ってること」と「パンを焼くこと」はちょっと違うのではないか。
そう、少なくとも親は思う。
「ついでに特産キノコがある場所教えて」
モンハンである。
これも「立ってること」と「特産キノコがある場所」はちょっと違う。
ここ、キノコないし。
そんな風に思う。
「ついでにゴッホが自殺にいたった経緯を30字くらいでまとめてきて」
もう全然「立ってること」と関係ない。
むしろむずくなっている。
「ついでにコタツの温度下げて」
親怒る。
このように、「ついで」にしてもらうためには本来の動作とそうかけ離れる事なく。
しかもその動作と同等あるいは簡単でなければならない。
上記の例は、すこし「立ってること」と離れている。
人間の成長過程で、「何かにつかまりながら二足歩行ができるようになる」の次が「コタツの温度を下げる」であれば、上記の「ついでにコタツの温度下げて」は問題なかった。
親は怒らない。
何たって二足歩行の次にやってきたことだから。
しかしそうではなかった。
二足歩行の次はおばあちゃんをより喜ばせる、とかだった。
故にこれらは「ついで」にはなりえなかったのである。
上記のようなことをやってもらうなら、本来の動作のレベルをあげてもらう必要がある。
「ねえ、満漢全席のついでにパン焼いてきて」
やはり親怒る。
「パンが入る余地はねえ!!」
母のパラドクス その2
昨日からつづき。
【あらすじ】
「ばいも(貝母)というものが何であるかを知らなかったが、調べてみたら花の事だった」
なんか不満。
=====
不満である。
それは「バイモ」という、なんとも未確認なものに対する期待が、普遍的な「花」だったということの不満というよりは。
知らないままで、その期待を抱き続けていればよかったという後悔に近い。
貝母は花。
そして花言葉は「謙虚な心」だという。
先ほどの不満も手伝って、このことを知っていれば、調べなかったのにと思う。
何事も簡単に調べられるからこそ、知らない事が財産であることもあるのだ。
しかし、このことを突き詰めると、難しい問題が出てくる。
「花ということは知らないが、花言葉は知りたい」
貝母が花ということは知りたくないが、その花言葉「謙虚な心」を知り、知識欲の横暴を阻止したいわけだ。
どうすればいいのだろう。
おそらく確実に必要と思われるのは「誠実な協力者」だ。
彼は僕が貝母のことを知りたがっている事、そして僕の性格を熟知していなくてはならない。
そして「貝母」をサーチエンジンにかけようとするときに、こう言うのだ。
「なんか分かんないけど、謙虚な気持ちって大切だよね」
さすが「誠実な協力者」。
こいつどうしたんだ、の所業。
母のパラドクス その1
小さなころから気になっているものが「うんも」と「ばいも」だ。
「うんも」は「雲母」。
確か国語の教科書で。
「ばいも」は「貝母」。
確か水木しげるの妖怪の本で。
このあまり見かけない「もで終わる言葉」らは、一体何なのだろうと思わせつつも、特に調べない。
そんなカテゴリに属していた。
先日「ときめく鉱物図鑑」という本を見つけた時、雲母のことを思い出した。
このときには「きら」「きらら」とも呼ばれるそれを「なんかわからないがとりあえず鉱物」くらいには知っていた。
それでも、ちょっとこの本には興味を抱いた。
小さな頃の宝物が紫水晶のかけらだった人は多いだろう。
あるいは宮沢賢治の作品で、神秘的な役割を持つ鉱物の描写がやけに印象に残った。
そんな人もいるだろう。
黒曜石の地図は、とにかくいい。
iアプリの元素図鑑も見ているだけで楽しいが、同じような感じで鉱物の写真とテキストを見ているだけで楽しい本だった。
しかし、それよりも「もで終わる言葉」はもうひとつ、よくわからないものが残っている。
「ばいも」だ。
詳細は覚えていないが、なにせ初見が水木しげる。
人間の体にできる妖怪を退治するために「貝母」が効きました、という話だった気がする。
何なんだ「貝母」。
と、ネットの海は広大なので、簡単に調べられるところがすごい。
「貝母」は花でした・・・。
まああるよね、この「あーあ」な感じって。
水のかおり その2
昨日からの続き。
【あらすじ】
水が貴重になったら、どうなるのだろうか。
おちゃらけ方面。
=====
・飲尿療法という言葉が廃れる
・干物、ドライヤーも廃れる
・マラソンの給水所にある飲み物が、全てコーラになる
・蒸発を防ぐため、プールがきんきんに冷えている
・キスの意味が変わる
・流しそうめん文化がなくなり、そのニッチに投げそうめん文化が入ってくる
・雨男、雨女のリストが国で管理される
・川岸30メートルおきに警備員が配置される
・かき氷の氷が、ブイヤベースを凍らせたものになる
・AneCanに雨乞いファッションの特集
・化粧水に煮こごりが添加される
・水を貯えた樹木の切断に必要なため、なたの所持が許可される
まあ、こうやってすぐ終わるのです。
水のかおり その1
沢木耕太郎の文庫本に、砂漠のある事について書かれていた。
それは砂漠という場所においての「水」に対する生物のことで、それはハエ。
外に出ていると、水を求めて大量のハエが人にたかるのだという。
これがカッパなら全身の粘液を求めてハエがたかり、人型ハエ取り紙のような状態になる。
あるいは頭の皿に、ちょうど小鳥が庭に設置したエサ台に集まるような感じでハエの冠のような状態になる。
このとき、カッパはハエの王ベルゼブブへとキャリアアップしているのだろう。
しかしこの話において、カッパは関係ない。
貴重なカッパを危険な砂漠へ連れて行く必要もない。
人の話だ。
要は、水を求めたハエは、人の目と口に大挙するのだという。
水の摂取が難しい砂漠の事情がよくわかる話である。
思うにたいがいの日本人は、さほど水に困った事はない。
そりゃあ一時的には、困った事もあるだろう。
だが、環境的に水の取得が難しい、例えばさきほどの砂漠などに住む人からすれば、永続的でない水不足はまだましだと思われる。
鳥取砂丘の近くに住んでいる人が水にずっと困っているということもない。
すごく困ってる人がいたら、ごめん。
ただ、「たいがいの日本人は」としているし、すごく困ってるのなら、こんなブログを読むべきではない。
そんな感じで、ごめん。
で、何が言いたかったかというと。
日本で水が貴重になったらどうなるかを書いてみたかった。
もちろん、真面目なことは他方に任せる所存。
カサマシのため、明日へ。
おおみそか
来年も、よい年でありますように。
入れ替わり2
昨日からのつづき。
【あらすじ】
映画「転校生」では、階段ごろごろで男女の中身が入れ替わった。
今日は入れ替わって面白くないものを考える。
=====
基本的に、畜生道を避けてこられた我々にとって、人間以外のものと入れ替わったら面白くないこと間違いない。
しかし、「より面白くない、めんどくさいことになる」
その可能性を視野に入れると、入れ替わりたくないもの優先度というものが出てくると思われる。
例えばバッタはどうだろう。
先ほども触れたように、人間が人間以外のものになったら面白くない。
そこらで寝ている猫に憧れる人もいるが、それはただ疲れているだけ。
実際猫になったら、えさを手に入れるために、いかに彼らが腐心しているかがわかるであろう。
そのような観点で見ると、バッタはやはり面白くない。
そしてヒエラルキーの根底近くに存在していることを考えると、えさ。
面白くない上に、えさ。
そんな彼と階段をごろごろしたいだろうか、という話だ。
昨日から触れている、ハード的な融合。
あるいはホラー映画でハエと合体してしまうような。
そんなことが起きてしまったら、何代目かの仮面ライダーが誕生してしまう危険すらある。
この場合の仮面ライダーは、僕は面白くないと思う。
そもそも正義の味方というのは面白くないだろうし、絶えず彼には「敵に捕らえられて実験室で改造された」のではなく「神社の階段を転げ落ちたらこうなった」という、一般人には想像しがたい負い目がつきまとうからだ。
階段でバッタとともに転げ落ちそうになったら、ぜひともバッタをつぶすべきだ。
かわいそうではあるが、そうすれば入れ替わり対象がなくなるわけで、無事にころげ落ち後も自分のままだろう。
唯一、自分だけころげ落ちたら、階段と入れ替わったりはしないのかという危険性はある。
これは僕にも分からない。
というのも、もし階段と入れ替わる可能性があるのだとしたら、それはつぶれたバッタと入れ替わることもありうると考えるのが普通だから。
もう、僕のキャパシティーを越えている。
「階段になったら、女子高生のスカートのぞき放題じゃないか」
そうなるかもしれないが、残念なことに階段に人間の目に相当する器官はない。
そして何よりも、「のぞき放題だが、そのあとどうするの?」ということを考えれば、おいそれとのぞき放題になびくわけにもいかないだろう。
そんな感じで、乾燥したくちびるがひりひりして仕方がないので、終わりやす。
勝ち負け
「勝ち負け」にはいろいろな種類がある。
昨日の「サヨナラ勝ち」「サヨナラ負け」以外にも、「辛勝」や「惜敗」とか。
他にどんな「勝ち負け」が考えられるだろうか。
何となく今思いついたのが「ボン勝」「ボン負」。
一体何なんだろうか。
「辛いが勝った」、「惜しくも負けた」なら、「勝ち負け」以外に「辛かったこと」や「惜しかったこと」が分かる。
しかし「ボン勝」「ボン負」。
「ボンなこと」とは何だろうか。
爆発したのだろうか。
となると、「爆発したことで勝ち」「爆発したことで負け」とは何だろうか。
そして「ボン」を勝ち負けにつけるということは、「ボン」以外による勝ち負けもあることを示唆している。
「ボン勝」「ボン負」は分からないことが多すぎる。
「瞬勝」「瞬負」はどうだろう。
これはわかりやすい。
すぐ勝ったのだ。すぐ負けたのだ。
むしろ勝負しなくても済みましたけど、くらい。
相撲だと、例えば「はっけよいのこった」のときにちょんとこぶしを土俵につける。
あれを2回やる感じ。
やった方は「瞬負」。
やられた方は「瞬勝」。
「デス勝」「デス負」
たぶん真剣勝負で、次はない感じ。
相撲だと、例えば「はっけよいのこった」のときにちょんとこぶしを土俵につける。
あのあと拳銃で相手を撃つ。
やられた方は「デス負」。
やった方は「デス勝」のち、連行。
「美勝」「美敗」
あとで「深イイ話」とかで取り上げられる勝負のこと。
相撲だと、例えば「はっけよいのこった」のときにちょんとこぶしを土俵につける。
勝負はすぐに着くが、のちに「怪我をしていた右足をあえて攻めなかった」「勝負の日が亡き母の誕生日だった」「拳銃を持っていたが、あえて使わなかった」みたいなことが判明する。
負けた方は「美敗」。
勝った方は「美勝」。
「ウェルカム勝」「ウェルカム敗」
いや、「ウェルカム勝」「ウェルカム敗」もいいが、「相撲に例える」のは案外面白い気がしてきた。
決まり手とか分かんないので、勝手に作ったりしつつ、明日へ。
ちなみに「ボン勝」「ボン負」は相撲に例えると、「はっけよいのこった」のときにちょんとこぶしを土俵につける。
あそこに爆発スイッチがあったりするのだろうか。