夜中にヘンな帽子をかぶって、ブレーキゆる効きの自転車に乗っていればあやしまれるのは当然なのである。
久しぶりの職務質問。
「ちょっとすいませーん。」
自転車で坂道を滑走する僕の背後から、こんなゆる声が聞こえてきた。
0時を過ぎている。
こんな時間に声をかけてくるのは、霊だ。
この道は墓場に隣接している。
間違いない。
とりあえず無視していたが、そこは霊。
いとも簡単に捕獲されてしまった。
「いや?、こんな時間にどちらへ?」と言う霊に対し、僕はしどろもどろ。
このときの僕は、すごくマズイ状況にあったのだ。
・ジーパンを直に身につけ、ノーパンの開放感を味わっていた。
・右のハンドルにかかった手さげカバンに、アブノーマルなDVDが。
・リュックに「パトレイバー」のフィギュアが。
・どうなるかの試しに、サドルのついていない自転車に乗っていた。
・胸元のポケットに詩集が。
なかなかアツいプロファイルのやつが現れたが、僕ではない。
まだこんなんだったらよかった。
そのときの僕は「田んぼのハスの花の具合を見に行く」途中だったのだ。
その頃、とにかくハスの感じが「もう少しです」状態となっており、見に行っていたのだ。
けど、深夜に自転車に乗っている理由がこれではいけない。
おそらく警官は、学校にて「深夜にハスの花を見るとか言うやつは、撃て。」と教わっているはずだ。
いけね霊で通していたんだったまぁいいか。
僕は「えーまー、帰り途中です。」みたいなことを言った。
すると警官は「いいひとそうだし、大丈夫ですね」と言った。
わ、わかるんだ数分で!!。
・・・
と、このように職務質問プロトコルどおりの感ありにて、僕はリリースされた。
それからの僕は「ハスの花を見に行く」時に職務質問を受けたら、どのように解答すればよいのか、考えっぱなしだった。
次回、職務質問への模範解答を考えてみる。
カテゴリー: 雑文
ぼくのなつやすみ
ここのところ、サザエさんの替え歌が頭から離れなくて、困る。
この替え歌は、別に「今日はサザエさんの替え歌を作ろう。」と考えたりしたわけではなく、勝手に生まれ出たものだ。
サザエさん終了時に流れる曲の「今日は楽しい 今日は楽しい ハイキング」が、
「Don’t forget summer time. Don’t forget Never time. ハイキング」となる。
意味としてはそれほど替えられていないので、その点は安心。
つづかない。
昨日からはつづかないんで。
【あらすざない】
「様」のはんこほど、迎合した人生は送りたくないと思っていた7942だが・・・。
「様だけを押し続けるはんこって、どんなものにでも様をつけるから、なんとなくへりくだってる感じで見えるんや。」
「ちなみにわいは猿や。」
昨日「様」を烙印(かっこよすぎ)し続ける罪を負うたはんこについて、そのやるせない生き様を書いたのだが、読み返してみると、なんと最後に「つづく」とか書いてある。
つづかねーよ!!。
昨日の7942!!。
何がつづくんだ、このヒジかっさかさが!!。
と、すごんでみても、何も進まない。
考えてみる。
確かに、昨日7941だった身としては「様以外にも、色々なはんこがあるよね。」という感じで今日を埋める気だった。
今、思いついたはんこは「がんばりましょう」「親展」「公正」くらいか。
「がんばりましょう」は何かしらひねくりだせるかもしれないが、その他のはちとキビシイ。
よって、話は「はんこ、色々あるよね→こんなはんこがあったなら。」のようになるはずだ。
「こんなはんこがあったなら。」
僕らは日々、どれほどはんこのことに思いを馳せる時があるのだろうか。
全く思いつかない。
また、思いついているものもあることはあるが、シミュレーションしてみると、確実に心の傷を負うものばかりなのだった。
よって、本日のブログは、昨日からつづかない。
僕、結局傷だらけだから。
ところで冒頭の「ちなみにわいは猿や。」は、前の文章「見えるんや」の名残のようなもので、出典(?)は「プロゴルファー猿」。
書いたあとで何なのだが「ちなみにわいは猿や。」はないだろう、猿。
猿だったら、何はなくともとりあえず最初に「私は猿です。」と言うべきで、何かのついでに「あぁ。ちなみに私、猿なんですけどね。」という感じでは言うことじゃないぞ、猿。
確か「プロゴルファー猿」の歌では「わいは猿や。プロゴルファー猿や。」と言っていた。
そうだ。
ゴルファーよりも、プロよりも、まずは猿であることを伝えるべきなんだ。
わかってるじゃないか。
天狗軸
ずいぶん長い間気になっていた漫画をやっと手に入れた。
それをペラペラめくっていると、こんなシーンがあった。
「忍者屋敷にありそうな、回転する壁を押し回す主人」
この「回転する壁」というのは、思わぬ襲撃にあったときに身を隠したり、隠し財産などを保管する場所への入り口にあったりと、様々な用途に使われる。
そのギミックの面白さゆえ、ドラマや映画などでは結構見かける。
しかし、現代において「今もコイツ、現役です」という場所は、ないだろう。
さて、僕は漫画のそのシーンで、感嘆した。
その、回転する壁には「天狗の面」が飾られていたのである。
全然気にしていなかったが、絵で見ると、わかる。
回転する壁には天狗の面がすごくよく似合う。
いろいろ考えた。
掛け軸?。
確かに悪くない。
絵画?。
ありそうだ。
般若?。
かなりいい。
でも、やはり天狗だ。
圧倒的だ。
ただ、今の感覚で考えると、何かを隠したいと思っている場所に天狗の面は、ちょっと冒険心あふれすぎているのではないか、と思われる。
しかし、おそらく昔の人や隠し財産を持っている人にとってのそれは、壁を傷つけてしまったときの補修跡や、ビールジョッキを持った水着の女性のポスターのようなものなのだろう。
ところで、隠してある何かを探すのが目的の人々にとって、この一般人と隠し人との差異は重要だ。
探し人が一般人と同じ感覚の持ち主だったら、壁の天狗に違和感をおぼえるだろう。
だが、隠し人と同じ感覚だったら、天狗に違和感をおぼえない。
それどころか、探している間に天狗を井上和香のポスターに変えても気付かない。
そんなものだ。
よって隠し人は、回転する壁に天狗を飾るべきではなく、ヘルメットや妻のパッチワーク作品、息子の5歳のときの絵などを飾るべきだ。
また、壁の端に「PUSH!!」と書かれたシールを貼ったり、手形のマークとそのそばに「ここを斜め45度に押す」という説明などがあったりすると、なおよい。
さらに、回転軸が大幅にずれ、ほぼただの扉になっていたり、回転の半径と部屋の広さが合っておらず、壁を押し回すたびにもう片方の壁がガンガン他の壁に当たる仕様だったりするのが、すごくよい。
そして、その跡を探し人が不思議がっているときの隠し人の心境を考えるのが、ここちよい。
追記
回転する壁の、どの位置に天狗の面をつけるのかを考えるのも、ちょっとおもろい。
かさねがさね冤罪
幼少の頃よりサスペンス劇場をたしなんできた僕にとって、ドラマ上の有名人配置から犯人を探し当てるのはわけない、と思っていた。
サスペンス系ドラマでは、犯人はもう一人の主人公である。
やはり、全く見たこともない人というわけにもいかないので、だいたい有名人を配置することになる。
さらに、2時間で番組が終わる以上、犯人はちょこちょこ画面上に登場しなくてはならない。
「なんでこんなシーンが必要なんだ?」と思うこともしばしば。
このような背景から、サスペンスドラマの犯人は分かりやすいものが多い。
ドラマ上、どうしてもあるパターンが見え隠れしてしまうのはしょうがないことなのだろう。
それは多くのサスペンサー(!!)が知るところだし、そこが楽しみのひとつでもあるとも言える。
それにしても僕は、有名人で画面上にちょこちょこでなくてはいけない犯人に、深く同情する。
本当は目立つ行動をしたくないだろうに、ドラマ上、意外性を持つために主人公やカメラの前をさまよわなくてはならないのだ。
この前見たドラマも、僕が考えるに、圧倒的に「専務」だったんだ。
ところが、専務が犯人であることを母親に告げると、うれしそうに「違うよ」と言った。
前に見たことのあるドラマだったようで、犯人を覚えているみたいだ。
なぜ、一度見たサスペンスをまた見ているの?。
でも、とにかく専務じゃなかった。
そうか、専務じゃなかったのか・・・。
ところが、そのあとすぐに出かけたその先で、ふと思いついてしまった。
「あ、副主任だ!!。」
確か、副主任はなかなかいい具合の人で、先ほどの犯人ステータスを全て持っているように僕は感じた。
そうか、副主任だったのか・・・。
犯人が、専務でも副主任でも、どうでもよかった。
そしてどうでもよかったことが一週間過ぎると、何もなかったことになる。
一週間後、なんとなく母親に聞いてみた。
「突然で悪いんだけどさぁ、この前のサスペンスの犯人、副主任でしょ?。」
彼女はサスペンスのことを覚えていてくれた。
「違うよ。」
違った。
しかも、副主任は殺されてしまったとのことだった。
最近のサスペンスはむずかしいな。
違ったよ。
でも、何もなかったことから、副主任で15分ほど盛り上がることになった。
ありがとう、副主任。疑ってごめんネ。
そして、このようなハートフルな展開になって、副主任も浮かばれることだろう。
追記
サスペンサーとか書いたら、サスペンダーの話を思い出しました。
「ナポレオンは、なぜ青いサスペンダーをしていたのか?。」
答えの分かった人は、心にしまっておいて。
つもり。
映画「パプリカ」のオープニングで流れる曲(媒介野という、「野」の持ち味を生かした曲名)がいたく気に入った、のに気付いたのが2時過ぎ。
もう近所のツタヤが閉まっている時間だ。
ところが僕は、映画を見る前にサウンドトラックを借りていたらしく、PCに曲が入っていて狂喜竜虎乱舞してしまった。
このように、僕は見ていない映画のサウンドトラックを借りたり、持っていないゲームの攻略本を買うのが好きだ。
曲だけを聴いて映画の流れやシーンを想像するのは案外楽しいし、攻略本だけでなんとなくゲームをした気にもなれるというものだ。
それでいて、実際に映画やゲームに触れたときに「このシーンであの曲流れるんだ?」や「やっぱり町外れのほら穴から入れるんだ?」などの、別の感動を味わえる。
ただ、あんまり知らないような映画のサウンドトラックは、あまりに聞いてても分からないので、だめだ。
TVのBGMでときどき流れる、くらいのものがいい。
もちろん超有名でもOKだ。
その点では、ジブリ系はかなり使用されているよう。
ジブリ系は映画館では見ないということが、僕のポリシーかつマニフェストに挙げられているのだが、サウンドトラックはいち早く借りる。
※もちろん、買わないのは僕のポリシーかつマニフェストに挙げられているのだ。
映画では聞くことのできない、歌詞つきの曲なんかがあるので、TVで曲が流れたときに歌うと「こいつ何言ってんだ」感が広がる。
それでいて映像もあとあと楽しめるので、大変よいのだ。
攻略本に関しては、詳細なデータが掲載されてれば、ほぼ図鑑と同じ楽しみ方ができる。
「生息地 本州、四国」という情報と「HP120 火に弱い」という情報が等価なのだ。
「この虫、うちの近くにもいるかも」と「じゃあ、火属性の武器が効くんだな」と思うのも同じ。
ただ、虫は現実世界にいるが、HPが120で火に弱いヤツは、ちょっと現実世界で探すのは難しい。
僕の場合、ゲームすらやらない可能性があるので、現実世界でも、ゲームでも出会わないだろう。
そんな、必要性皆無の情報が載っている点こそ、持っていないゲームの攻略本のいいところだ。
ところでいきなりだが、気になってきた。
永遠に出会わないかもしれないやつが。
明日
HP120で火に弱いヤツについて考える。
お楽しみに。
えび・空からのおくりもの
道を歩いていると、「海鮮かつ丼」という旗が、はためいていた。
かつ丼にえびの天ぷらがのっている商品のようだ。
かつ丼のお店ということもあって店側はゆずらないだろうが、これは「天丼の上にとんかつがのっている」という見方もできるはずだ。
と、なると。
天丼屋がそのような商品を開発したら、どのような名称となるのだろうか。
「かつ天丼」
一見大丈夫そうだが、ちょっと「肉の天ぷらだけがのっている?」と勘違いされやすそうだ。
「肉天丼」
これも「かつ天丼」と同様の問題点があるだろう。
「肉感天丼」
なんだか、歌舞伎町とかで売っていそうな感じになってしまった。
このように、天丼屋では「かつ+天丼」商品の命名がうまくいかない。
これは、天丼で最重要項目である「えび」を「天ぷらの天」に置き換えてしまっているからである。
ためしに、天丼の天を、本来のえびに戻してみよう。
「かつえび丼」
かつとえびがのっていることは明白だろう。
※えびをミンチ状にして揚げた、いわゆる「えびかつ」とは単語の順が違うので「えびかつじゃないよ」雰囲気も出てる。
なぜ天丼屋は「えび」を「天」と置き換えてしまったのだろうか。
思うに、以前「えび丼」と呼ばれる食べ物があったからではないだろうか。
それとの差別化をはかるため、あえてえびのことには触れず、天ぷらを取り上げたのではないかと推測できる。
また「もともと天丼はえび以外にもいろいろな天ぷらをのせていた」という可能性もある。
この説の優れているところは、現在も天丼にはししとう、きすなどの非えび食材が使用されている点にある。
昔の名残なのだ。
さらにしゃちほこが関与していた可能性も否定できない。
「えび丼」なんてなかった。
「えび」しかのせてなかった。
だが、いつかのアイデアマンが、天丼のえびを城の天守閣の屋根に君臨するしゃちほこに見ててしまったのだ。
結果、天丼と呼ばれることになる。
天丼屋はこの「天」問題を解決しなければならない。
そうしないと、もし「天丼の上にとんかつをのせたもの」を開発しても、それは「天丼の上にとんかつをのせたもの」としか呼ばれないのである。
ハーブの扱い
時間のある土曜日は、とある喫茶店でウィンナーコーヒーとガトーショコラを食べるのが習慣になってきた。
ヘタすると、24時間、口に入れたものがウィンナーコーヒーとガトーショコラと空気だけという日もある。
あと、どのくらいこれを続ければ「習慣」が「風習」にレベルアップするのだろうか。
それはさておき、ここでガトーショコラを注文すると、ショコラにかかった生クリームのそばに「ハーブの葉っぱ」がついてくる。
僕はいつもこいつを見ると、2つ、困る。
1.食べるものなのか
2.葉っぱの「っぱ」って何なんだ
ぶっちゃけ2は今考えたのだが、1はずいぶん前から気になっている。
おそらく「こってりしたケーキを食べたんだから、これ食ってさっぱりしろ」みたいな意図のメッセンジャーなのだろう。
だが、あくまでそれは推測であって「いろどりです。まさか、食べないよね」みたいなものだったら、僕は過ちを犯すことになってしまうのだ。
赤ちゃんは、何でも手に取ったものを口に入れるという。
上に挙げた話は全く関係ないが、実は何度かこっそり食べ、ハーブの清涼感を味わったことがある。
やはり、前者が正解かもしれない。
ついてきたハーブの葉っぱは、食べてOKの安心食材なのだ。
でも一方では、こんなことも思い出す。
「料亭などで、飾りとして料理につけられた「生のさわがに」を食べて、寄生虫がついてしまった男」
料理の飾りを食べて、良からぬことになってしまった話だ。
これを思い出すと「あくまで飾りなので、食べたときにどうなるかはわかりません」と言われたらどうしよう、とも思う。
だがよく考えてみるとこの、ハーブとさわがにの件を単純に比較することはできないことに気付く。
先ほど挙げたように、ハーブには「これ食ってさっぱりしろ」的な効果が期待でき、店側も客がそのような考えを持つだろう事が容易に想像できる。
一方、さわがにに対して「これ食ってさっぱりしろ」という意図を感じ取れるのは、いのししくらいのものだろう。
僕の「食べたときにどうなるかはわかりません」への恐怖は無駄と言え、口を開けるのもしんどいくらい、スースーしてよいのだ。
今日は残したが。
最初×最初・2
昨日からの続きです。
【あらすじ】
かなり昔の人「ルーシー」のことを人にしゃべったが、そこには重要なポイントが2つあった。
1.猿人にルーシーって名前は、ないんじゃない?。
2点目のポイントは、初対面の人に「ルーシー」を持ち出す行為に対してである。
実際、初対面だった。
僕は帰宅後、反省した。
「ルーシーは。初対面でルーシーは、いけなかった。」
そもそも、会話の中でルーシー適正をかもしたのは相手側で、地学が好き、みたいな話からだった。
僕の地学知識は「プレートテクトニクス(なんか動く)」くらいであり、しかも発音するのに高度な舌の動きが必要で、何度もかまざるを得ない言葉だ。
だが、知識ではないが、地学がやたら懐の深い(物理や生物というカテゴリ分けに対して、やけに範囲が広い感じの)学問であるというイメージがあったので、地層→化石に話を持っていってみたのだ。
僕の化石知識は「三葉虫(ぞうりみたいだね)・アンモナイト(うずまいてるね)・ルーシー(ビートルズ)」であり、地学より2個多い。
いつか書いたが、2つ以上はたくさんなので、少しは話をできるのではないかと踏んだ。
どうにか「地学→地層→化石」ルートで化石雰囲気になってきた。
相手も、どうやらルーシーのことを知っているらしかったので、その名の由来を伝えた。
そんなこんなで、どうにか全く喋らない時間というものを生み出さずに、この会話は幕を閉じた。
僕はすぐに思う。
「きみ、誰だっけ?。」
おそらく相手も。
「で、あんた、誰?。」
僕がこのとき危惧したのは、相手の中で僕が「ルーシーの人」とかになっていたらやだなぁ、ということだった。
それならまだしも、そのまま「ルーシー」というあだ名を付けられたりしていたら、どうしようと思ったのだ。
僕はルーシーじゃない。
だいぶ遠い。
30分かけてやっと家に着いたのに忘れ物に気付いて、それを取りに行く道すがらに思う、家に帰る道の長さを考えたときくらいの遠さだ。
ルーシーを伝えることは、互いに名告ることもできず、しかも片方にルーシー疑惑を生じさせる。
最初の人のことを初対面の人に伝えるのは、そこだけ考えると意味ありげだが、実際の優先度は、かなり低いのだ。
最初×最初
今ではもう更新されているかもしれないが、人類最古の化石のひとつとして「ルーシー」と名づけられた骨格がある。
こないだそれについて話す機会があったのだが、その帰り道「ルーシー」の話について、ポイントが2点あるな、と僕は感じた。
ひとつはその猿人(アウストラロピテクス?)に名づけられた「ルーシー」という名前だろう。
その由来は、ビートルズの「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」だったと思う。
発見されたときに流行ってた曲で、その調査団が歌っただか聞いてただかして、名づけられたはずだ。
何かの本で読んだことがある。
この話が全て事実かどうかは知らないが、本ブログにおいて重要なのは、この化石を発見した調査団が、猿人に「ルーシー」と名づけることに抵抗がなかったか、という点である。
日本人は、「ルーシー」はグラマラスな金髪美人であるという認識で、だいたい一致している。
一方、猿人というと「サルからホモサピエンスへの変遷図」みたいなやつの、だいたい2番目?3番目のクリーチャーではないだろうか。
残念な事に、我々が彼らに名前をつけるとすると確実に全文字「ザ、ダ、バ行」で構成されるだろう。
これらの点において「ルーシー」の件は、我々日本人に、自ら持つどちらかの固定概念(ルーシー=グラマラス or 古代人はバ行で)を捨てなければならないかもしれないことを知らせるのだ。
海外の人たちは、ルーシーという響きと猿人のイメージをどのように思っているのだろうか。
もしかしたら、天変地異に対してアルファベット順に人の名前をつけたりする外国もあるので、ある意味日本人よりも自然を愛しているのかもしれない。
となると、例えば「ルーシー=みぞれ」とかのイメージを持っていると考えられる。
もちろん、みぞれにグラマーもバ行も関係ない。
そして、例のみぞれがハリケーンでも猿人でも、同じようなものなのだろう。
よって、我々の持つ固定概念は2つとも捨て去るべきで、調査団がルーシーと名づけたのも、むしろうなずけると言えよう。
明日へ。