○月×日に誕生することを決意

中学生の頃、なんだかわからないけど「あなたの人生録」みたいなものを、該当者に無断で想像。
勝手に「36歳にして、初めて「ジンバブエ」と口にする」とかをノートに書いて、本人に見せていたことがある。
だいたい0歳から長生きの人で80歳くらい。
20代の若さでこの世を去る人もいました。
両手で数えられるくらいしか書かなかったけど、おおむね気味悪がられた気がします。
面白がられるは少数派でした。
そして、誰かにすごく怒られたのでやめました。
ところで。
自分の人生が書かれた文庫本みたいのがあって、1ページだけ見られるとしたら、どうしますか?。
もちろん過去のページは見ないでしょうけど、結婚適齢期、60歳前後の退職後など、見たいページは多いはず。
目次を見れば、寿命も見られるかも。
でも、すごくペラペラだったら、色々と滅入りそう。
「俺の人生、扇風機の取扱説明書に負けてるよ!!」
そりゃ滅入る。
せめて売られているような、普通の文庫本くらいの厚みはほしいところ。
日々の食事などは、気を抜いているとたぶん記録されないので、
「竹筒にプリンを仕込み、焼き上げた「竹焼きプリン」なるものを調理。不味だが、ごまプリンでの試行は必要。」
「○月×日の朝は、ポークソテーを食べると決意」
など、意識的なフォローが必要だと思います。
もちろん食事などに限らず、ポイントとなる部分を日々作れば、そんなに薄っぺらい人生にはならないはず。
みんなもがんばってポイント付けよう。
ちなみに僕は、「解説」を誰が書いてくれるのかがとても気になります。

「ありがとう」と 君に言われると なんだかアセりが生じるみたい

教習所で「サンキュー事故」というのをはじめて聞いた。
駐車場の入り口付近から出てきそうな車に対し「先にどうぞ」と車道側の車が待つ。
待たしては悪いと、駐車場側の車はあせりが生じたりするため、十分な注意を払わずに動き出す。
よって、歩道の自転車や対向車線の車への接触事故などを起こしてしまうことが多くなるわけだ。
このようなシーンのとき、駐車場側の運転手には様々な情報が流れ込んできてしまう。
上記に挙げた「相手を待たしている」という認識のほかに
・歩道に危険はないか。
・ゆずられた空間にはどれほど車体を入れることができるか
・縁石に乗らないで済むような角度で侵入しようとしているか。
・対向車線にどれほどはみ出るか。
・入ろうとしている場所の前の車は高価そうか。
・ゆずってくれた車の人は怖そうか。
・今日の前髪の調子はどうか。
これらを速やかに消化できる情報処理能力が必要となる。
雨の日は視界の悪さと最後に挙げた項目の重要性も手伝って、より大変だ。
僕の場合、だいたい上記をクリアして次のイベント「ハザードを付けてありがとうを伝える」前に脳内大騒ぎに達してしまう。
とにかくこういう場面では、車の運転はよりゆっくり、確実に安全を確認しなくてはいけない。
さもないとサンキューの後味が最悪になってしまう。
それにしてもネーミング。
ポジティブすぎやしないか。サンキュー事故。
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「お弁当買ってきたよ。」
「おー。ありがとー。」
「はい、これ。」
「・・・。鳥のから揚げが入ってるヤツって言ったのに・・・。」
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「こんな暗い話題の電話、夜更けまで聞いてくれて、ありがとね・・・。」
「・・・うん・・・。」
===============================
「故あって逃げなくちゃいけないけど、ここにいて本当に楽しかった。今までかくまってくれて、サンキュ!!。」
「えー・・・。」
以上、サンキュー三段。

くじかれるのは鼻先から

「冷え性は足先から」らしい。
僕は冷え性ではないので、その辺のつらさが分からないのですが、なかなか体が温まらないのは、寝るとき大変そう。
でも、僕が最初に思ったのは、「大変そう」ということではなく、
「さみしさは指先から」という謎コピーでした。
お。
何かうまいこと言ったんじゃない?。
それとも最近このブログに書いたような「油断」かな?。
4/7俺の後ろには、立つな。その1
でも、冷え性の話をしていて「さみしさは指先からだよね?。」とかいう友達がいたら、やだ。
もしくはその意図をいろいろ考えてみて、やだにたどり着く。
ちょっと、へんだ。
僕が人よりもへんな点を考えてみたところ、「ばかっ毛を引っ張って遊ぶというクセ」が思い当たりました。
それと関連があるのか・・・。
ちょうど何かのツボ部分にばかっ毛があるとすると、かなりの回数、刺激しているはず。
確認方法としては、抜毛したら冷え性について真剣に考えるようになるかどうかを見たらいいかもしれない。
でも、「ばかっ毛を引っ張って遊ぶ」ことができなくなるくらいなら、僕は「さみしさは指先からだよね?。」と言ってしまう方を選んでしまうのです。

創造事故

人は、創造する。
どんなに創造できないと思われるタイミングでも。
創造を忘れた人は、ブーである。
いつごろだったか。
連日大忙しで、疲れ果てていたとき。
自宅について自転車に鍵をかけたとき、自然と口にしていた。
「あぁ、もう、つかれんチョフ書記長だよ・・・。」
「疲れた」 + 「ゴルバチョフ書記長」なのだが、なのだがで片付けられないほど、「 + 」してはいけない2つだ。
何がいけないかって、とにかく単位が違う。
単位が異なるものを単純に比較してはいけないのである。
ただ、生み出した私の親心というわけではないが、口にしてみるとちょっと幸せになるような気もする。
どちらにしても。
もてあますような創造をした人は、ブーである。

俺の後ろには、立つな。その2

昨日からの続きなので。
しかし、この「油断」から、万人が手を挙げて喜ぶようなものが生まれてくることもあるはずである。
「油断」した人が見つけたものが、「油断」していなかった人にとって青天の霹靂のようなものであった場合。
第三者の登場により、パワーバランスが一気に崩壊するのだ。
例えば、どこぞの会議室で「飴の新製品」の商品名を考えていたとする。
ポイントは
「さわやかな味」
「口臭をおさえる」
「ノンカロリー」
である。
「爽やかスッキリ飴」
小さく「ノンカロリー」と印刷。
これでとりあえずは丸く収まるはず。
しかし、家族関係、愛人関係と色々油断していた部長が、さらに「油断」していた。
「くちびらき、というのはどうかね?。」
「口開き」
・・・用も無いのに口を開きたくなるくらい、口臭もなく、さわやかであるということか・・・。
会議室は静まり返るだろうが、社員達の心の中は騒然としている。
「妖怪みたいで怖い。」
「ノンカロリーに触れないのは何故。」
もちろんこの例は僕が「油断」しているため、適切なものとは言えない。
だが、似たようなことがおきてうまく転がった例は、商業などにかかわらず結構多いのではないかと考える。
ビオフェルミンという商品のCMでは、「おなか急降下」というフレーズが登場する。
これとて、社員に紙を渡し「何か書いて」と依頼したら全て「おなか急降下」と書かれてあったわけではあるまい。
もしかしたら上記のような流れがあったのかもしれない。
今、僕は「油断」している。
「使える」と思う言葉が、出てきているのだ。
「ねむくなる成分」
先生の話。
何かのエッセイ集のタイトル。
ハンドルネームなど。
「含まれておりません」と組み合わせると、かなりいけると思うのだが、いかが?。
追記
僕が知らないだけで、みんな使っているとしたら、恥ずかしいなぁ。

俺の後ろには、立つな。その1

人間、こうも日々をただ過ごしていくと、どうしても「油断する」瞬間というものが出てくる。
ここでいう「油断」とは、別に車に轢かれたり、バイクに轢かれたり、自転車に轢かれたり、セグウェイに惹かれたりするとかいう方面ではない。
例えば、「今年の夏は、はいからバディ」というコピーが、どこからか発信されたとしよう。
はいからバディ。
2007年4月現在において、「来てはいない」言葉だ。
このコピーを受信した人のほとんどは、聞き流してしまうか、「ヘンなコピーだな」と少し思うだけだろう。
しかし、「油断」をしているとそうはいかない。
「えっ。はいからバディ・・・?。・・・よ、良くね・・・?。」
もちろん、上記の「・・・」では、彼は思いのほかいろいろ考えるのである。
「はいからって、今がちょうど寝かせどき?、それとも旬?。」
とか
「はいからな体型って、ちょっと想像できないな・・・。でもその分からなさがコピーとしては人の目をひくかもな・・・。」
とかである。
そして、総合的に「イケる!!」と踏んでしまうのだ。
ところが、結果はそのときの社会、文化にそぐわないものとなる。
彼は「油断」してしまったのだ。
ちょっと前に香水をどうこうする話を書いたが、その時期、僕は油断していた。
「人から花のかおりがするのって、考えてみたらおかしい。」と思ったのである。
外見
:ヒト、女性
:ヒヤシンス
かおり
:同一
ヒヤシンスの香水はないと思うが、こういうことだ。
外見、かおりのみの点を考慮する。
我々男の子がヒヤシンスに対してどきどきしたり、気をひくためにいじわるしないところを見ると、女性に対して意識するのは「外見>かおり」ということになる。
そして、上記の結論が出たあたりで「あぁ、僕は、「油断」していたな・・・。」と気付き、結論は「いいかおりの人は、良い」という事実に露と消えるのだ。
明日があるさ。
続く。

王座は1ドアにつき2箇所

ものまねをするとき、何と言うかは、ものまねのうまさよりも重要にちがいない。
例えを、いかりや長介で考えてみよう。
どこぞの2人が、何かしらの覇権を争っていた。
ある日、神秘的なことがおき、「いかりや長介ものまね」のうまい方が権利を掌握できるということになった。
決戦場に向かう2人。
そこには一脚の机。
机上にはくちびるが1セットある。
それを見るやいなや、シゲルは走り出し、装着。
ジャッジ用カメラの前に立ち、自信に満ちた顔で開口一番
「母さん。どっかに俺のペーパーナイフあったろ」
視聴者「・・・(な、なにーっ!?)」
その後、何の細工もせずにカメラの前に立つヨウコが、ひと言。
「だめだこりゃ」
このように、ものまね対象の持つ外見的特徴がうまく表現できなくても、そもそも異性でも、セリフでどうにかなる。
ヨウコは、だめだこりゃの瞬間、電車のドアの横スペースを獲得できたのである。
この例では「だめだこりゃ」以外で太刀打ちするのは、かなり難しいかもしれない。
シゲルが「だめだこりゃ」を思いついていれば完全勝利だったのだが、今回は及ばなかったようだ。
「青島!!」だったらどうだろうか。
わかるけど、やっぱりだめだこりゃの圧倒的な数値(何かの)には勝てないだろう。
「ブー!!」
そもそもブーを呼んだシーンなど思いつかないし、これだけでは不正解のブザーとなんら変わらない。
もちろん、
「我々は、生と死という相反する属性を象徴する不安定な存在である」
などではものまね以前の問題であるし、
「アジャパ!!」
では色々と最悪である。
やっぱり、だめだこりゃなのである。
して本題。
土曜日にやる「途中下車の旅」とかいう番組のナレーターは、よく聞くボイスである。
聞いたことのある人は分かると思うが、それはそれは、まねされ、まねしやすい声だ。
最近、彼のものまねをするときに言うべきセリフを番組中で発見した。
「あのまあるいのが、フランスパン?」
かなりいい。
「おやおや見栄晴さん、今日はどちらへ?」
今思いついた、「っぽさ」を詰め込んだセリフと比べてみても、遜色ない。
このセリフでそれっぽく言えたら、たぶんオファー来る。
※以前、ミッキーマウスのものまねについて書いたことがある。
(思わず口にする、美しい言葉)

避難訓練その2

昨日からの続きなので。
あらすじ
「鼻の穴を広げる」というコミュニケーション法を人類に先駆けて習得した7942。
しかし、久々の広げで、何か違和感をおぼえるのであった・・・。
出てこないガチャガチャ機を前に、僕は道行く人へ、無言の意思表示「広げ」を披露した。
その、顔の中央にそびえたつ峰に意識を集中、黒洞々たる闇に支配された穴を、徐々に広げていく。
ガチャガチャの前で呆然と立つ僕をみてゆく、みんな。
僕の「気にしてないよ」シグナル、受け取ってくれたかい?・・・。
そうして「野球が下手な人のバッティングセンター」並みに一方通行のシグナルを不特定多数に発信したのち、事件は起きた。
・・・???。
鼻の穴を広げたのはいいけど、どうやって閉じたっけ・・・。
あまりに久しぶりなので、閉じ方を忘れてしまったのである。
いや、もしかしたら以前から閉じ方なんてなかったかもしれない。
力を抜けば、自然な具合になっていたのかもしれない。
でも、それすらわからない。
力を抜いても、なんだか鼻に違和感。
なんだ、この感じは。
ボクサーの人なんかは、鼻を折られることがあるかもしれないけど、とりあえずこの件とは関係ないな・・・。
とりあえず、触ってみる。
とりあえず、付いていることは確認できたので、微調整してみる。
鼻の微調整。
生まれてはじめてだ。
鼻を高くしたくて、シリコンか何かを入れたら、こんな調整が必要かもしれない。
朝起きたら、目の下とかに移動しているのだ。
いや、それどころではない。
「広げ」状態なのか、「休止」状態なのか。
それすらわからない。
今でも、その感じは続いている。
こんなことになるなら、日ごろから気をつけておくべきだった。
して、タイトル。
訓練は重要だ。
いざというとき、「私、走るときって左足からだっけ!?」とかなる。
心して。

避難訓練

僕には「鼻の穴を広げる」という、プロフィールに載せるにしてもだいぶ下になるであろう特技がある。
ものがものだけに頻発させることでは無い。
しかし、あるシチュエーションになったときにやることがある。
例えばこんなとき。
最近のお店では、ゲームの購入をする場合、その箱のみが陳列されており、それをレジへ持っていくケースがほとんどだ。
その箱をレジに持っていくと、店員さんは裏でゲームソフト本体を探しはじめる。
その際、なかなか商品が見つからないとき、申し訳なさそうに店員さんは「ちょっとお待ちください。」と言うのだ。
この瞬間である。
僕は、「いいんですよ。」、「気にしてません」とか、単に「はい」の意味を込めて、鼻の穴を少し広げます。
シェイクスピアが理解できても、この広げが理解できる人はいない。
この間、ガチャガチャをしたら、モノが出てこないことがあった。
これは、人間が試される。
店員さんに言うのか、黙っているのか。
今回は、モノが300円ということもあり、言った。
それにしても、ガチャガチャでのこのようなシーンは、購入側としても心苦しいものがある。
例えば、レジでおつりを間違われたら、レシートとおつりの整合性を比較すればよいのである。
しかし、ガチャガチャにはレシートがない。
お金を投入したという証拠が、少なくとも購入側としては「ない」と思ってしまうのである。
(もちろんそれ以前に、物理的な理由により、お金を入れたのにたまっころが出てこない)
後々、ガチャガチャ本体に入れられた100円と、中身の数を比較すれば分かるだろうが、それには手間がかかる。
このような客が店に現れた場合、店としてはとりあえずその証言を信ずるしかないのである。
(ガチャ本体に、その手のことがわかる装置がついていれば話は別だが。)
ということを考えると、こちらも心苦しい。
しかも、そのガチャガチャは店の出入り口にあるため、「ガチャ出ない事件」の終始を他の客に見られているのである。
なんだ、このプレイは。
・・・こんなときは。
広げるしかないな。
そういえば、広げるのはかなり久しぶりだ。
できること自体、忘れていたくらいだ。
よし、鼻先に意識を持っていって・・・。
このとき、あんな凄惨な事件に発展するとは、誰が予想だにしたであろうか・・・。
凄惨でも事件でもないのは明白だが、明日へ続く。
追記
「僕しかいない」→「牧師甲斐ない」との誤変換。
牧師さんには申し訳ないが、このように誤変換ワールドは広がっていくわけです。

セシウムの胎動に抗う術

老いというものは、ほっといても来るものだ。
だが、年齢という数値データ以外には、いまいち不明瞭なものでもある。
老いとは、どういうものか。
例えば、あなたがベンチで座っているとき。
座っているだけなのに、ときどきため息を吐いたとすると、それは、老いだ。
そして、そのため息を隠そうとしない点も、老いだ。
また、そもそも用も無いのにベンチに座るという段階でも、老いだ。
座っているだけなのに、行く人行く人があなたに向かって手を合わせたとすると、もうボーダーラインだ。
例えば、あなたが道を歩いているとき。
前から来た男の子に、
「くせー!!。お前、うんにょ垂れたろ!!。」
と、言われたとする。
老いていないものは間髪いれず、100%のちからで「垂れてへんわ!!。」と言うだろう。
しかし、老いているものは違う。
「垂れてへんわ!!。」と言う一方、数%でも「もしかしたらさっきのおならのとき・・・。」とか考えてしまうのである。
この度合いが大きいほど、老いていると言える。
老いというものは、ほっといても来るものだ。
垂れてないときくらいは、100%のちからで「垂れてへんわ!!。」と言おう。