だるまがどのような状態で売られているか、気になってきた。
きっかけは「選挙で落選したため、目に墨を入れられることのなかっただるまたちがどうしているか」である。
そんなことを考えているうちに、そもそもだるまがどんな具合で売られているかが気になった。
「だるまは両目が入れられた状態」で売られていただろうか?。
今年の正月、近くで小規模な「だるま市」がやっていた。
見に行っとけば良かった。
だが確か、うつろだが普通に売っているようなやつ(だるま)の両目は、黒々と墨が入れられていた気がする。
ちょっとわからないが、たぶん入っていた。
でも、そうなると、選挙のときの目がないやつは何なのだろうか。
特注なのだろうか。
憶測で申し訳ないが、僕は特注だと思う。
なぜならば、特注しておかないと、作成者がうっかり目を入れてしまうからである。
作成者にとっては、だるまの完成がある意味目的達成であり、しかもそれがだるまに目を入れるという作業で遂げられるという、なんだか万々歳な感じだからである。
ということで、立候補する人はだるまを特注しなくてはならないということになる。
だるまの製造期間はどれほどなのだろう。
そこそこの期間が必要だとすると、立候補どうこう以前での発注をしなくてはならない可能性もある。
勘のいいライターは、まずはだるま屋に張り込むのだった。
いや、待てよ。
立候補する人は、だるまのことなんて考えている暇がないんじゃないだろうか。
そうなると、だるまについてはむしろだるま屋から注文を受けに訪れる方が自然ではないだろうか。
稼ぎ時なのだから。
選挙のことはだるま屋とそこに張り込むライターに聞けば、そう悪いことにはならなそうだ。
さて、今回の結論としては
「だるまの目は、マスコットやインテリアなどで用いられるような大きさのものには入れられているが、そこそこの大きさのものでは、買う人の目的意識などが高いため、目が入れられていない」
「だるまの目は、その大きさによって、入れられていたり、そうでなかったりするのだ。」
ということになる。
いや、ならない。
今回は「選挙で落選したため、目に墨を入れられることのなかっただるまたちがどうしているか」が気になっていたのだ。
でも、わかった。
そんなだるまたちは、だるま屋が夜な夜な回収しに来るに違いない。
捨てるわけにもいかないし、飾るわけにもいかない。目を入れることもできない。
そんなだるまたちを、稼ぎ時の過ぎただるま屋が引き取りにくるのだった。
そのときのだるま屋は、少し祭りのあとのような寂しさを感じているだろう。
カテゴリー: 疑問結論など
疑問、2点。
ここのところ、特に主張することはなく、のどかな日々である。
だが、それでは何なので、2点ばかりピックアップしてみる。
まずは、アンパンマンのHP、キャラクタ紹介に「ぷろふぃーる」とあることについて。
この「ぷろふぃーる」から気付かされるのは、世間ではカタカナよりもネットが先だということ、ではない。
なんだかんだいって、プロフィールはひらがなで書いちゃだめなんじゃないか、ということだ。
ひらがなでは「プロフィール」の質感を損ねるのではないか。
有識者に聞きたいところだ。
また、どうしてもひらがな、ということなら「しょうかい」でいいじゃないか。
カタカナ語をひらがなで扱う意図、気になるところである。
2点目は、電車内モニタに表示される「占い」について。
JRのある電車にはモニタがついていて、なんかやってる。
そこでたまに流れる「占い」。
提供が「ザッパラス(株)」である。
異論もあるだろうが、僕は「占いを提供するザッパラス」というのが、変だと思う。
ザッパラスという響きのものが占いを提供してはいけないと思う。
「ザッパラス」
明らかにウルトラ怪獣である。
しかも、ヘタするとウルトラQ時代の、である。
そんなやつが星座占いをしてくれる。
何かメリットはあるのだろうか。
その意図、気になるところである。
もちろん以上の2件より「それいけ! アンパンマン おおざっぱかいじゅう ザッパラス」などを考えないわけにもいかなかったが、さすがに欲張りだ。
具2
【あらすじ】
お好み焼き屋さんやピザ屋さんのメニューに「トッピン具」ってあるんだけど、それを見るたびに心の病気になりそうだよ・・・。
前回、トッピン具の意志について、最後に触れた。
「トッピン具の意志」。
それは「人のだじゃれる意志」に他ならない。
今はまだいい。
トッピングくらいしか知らないから。
しかし、こうなったらどうだろう。
「フィッシン具」
このとき重要なのが、トッピン具の「具」は何であったのか、というところである。
僕が考えるに、それはお好み焼きにおける「チーズ」であり「モチ」であり「エビ」などだろう。
もちろんピザでは「チョリソ」であり「コーン」であり「イカ」である。
「トッピン具」とまで言っておいて、「具」がソースを塗るハケであったり、ピザを切る、くるくるーっとやるカッターを指しているとは考えにくい。
以上の点を踏まえると、「フィッシン具」における「具」はフィッシュ、魚であることは間違いないだろう。
しかも、ターゲットの魚を指す。
アジ狙いのフィッシン具の具は、アジなのである(ややこしいな・・・)。
なにはともあれ「フィッシン具」では、フィッシングした気にならない。
「トッピン具」の意志を持った人と一緒に魚釣りに行ったりしたら・・・。
上記の悲劇を経験しなくても済むという保証は、ない。
「フェンシン具」
「具」は明らかに「人間」だろう。
そこで人間を意識させてどうするんだ。
「武器とか使ってますけど、人間本来の戦いを追求しています!!」
フォローにもならぬ。
==========
ある日突然、健全なスポーツが悲劇に見舞われた。
「日本フェンシング協会は、本日より日本フェンシン具協会となります」
==========
お、俺たちのフェンシングが・・・。
こう泣き崩れる関係者続出である。
こうなってくると「トッピングの意思」、すなわち「人のだじゃれる意志」の凶悪さが、より見えてくる。
「ボーリン具」における「具」は、ピンと球で半々くらいであるが、やはり人に「ボーリン具に行く」とは言いづらい面構えだ。
「ショッピン具」のは、食材だったり雑貨だったりするが、わざわざ「具」のどうこうを示すまでもなく、かっこ悪い。
「ウキウキウォッチン具」のは、僕の中では100%タモリだ。100%っていうのもないが。
「まいっちん具」のは、明らかにマチ子先生であり、ある意味「具」という言葉との相性もよく、自分でも驚いている。
とにかく、「グ」を「具」に変えたときの、堕落っぷりときたら、ない。
「こんな変なこと、言う人が出るかい!!」と思われる人も多いだろうが、人々の「だじゃれる意志」がかなり強く、しかも継続することは身近な商品の名前を見ればわかることである。
現在、「トッピン具」くらいでその意志が留まっている時点で、すでに奇跡である。
しかし、それだって僕が知らないだけで、もう「クリーニン具(具:Yシャツ等)」くらいは来ているかもしれないのだ。
店先の「トッピン具」に、えもいわれぬ不安を感ずる者達にとっては、つらい時代である。
※ちなみに、僕が今回惜しいと思っているのは、「剣道」とのリンクができなかったことだ。
「具」って形、剣道の防具に似ているな・・・。
具
「ファミコン、くにおくんのそれゆけ大運動会で友人の悪行に激怒。動作中のカセットを引っこ抜いて帰宅する」
俺にもそんな時代がありました。
でも今は、家の前で断りもなく5月くらいに出初式がやられたとしても、微笑んで見ていられる。
少し、心の海図が詳細になりました。
それでも、お好み焼き屋さんやピザ屋さんでときおり見られる「トッピン具」という表記には、殺意を抱かざるを得ない。
何考えてんだ、あれ。
見た目も、意図(あるのか、意図)も、口に出して言った感も、全てが爆弾だ。
これに関わった全てを消し去る能力を持っている。
くそう、何なんだ。
2人でお好み焼き屋に来店。
焼きあがるのを待つあいだ、おもむろにメニューを眺めだし「なぁ見ろよ、トッピングのぐが、具、だって」。
僕がもんもんとしているのは、上記のような話になったときに
「なにそれ」とそっけないことになる場合でも、
「え、うそ!!。ぐが具、って。面白いじゃん!!。おーい、みんな呼ぼうぜ!?」ということになる場合でもない。
2人がある程度お互いを知っているのなら、相手も
「あ、ほんとだ。何考えてるのかね」と合わせてくれるだろう。
※お好み焼き屋に2人で来るのは、それはお互いをそこそこ知っていなくてはダメだろう。
親密度でいうと「一方が読み進めている小説のネタバレを背後でぼそっと言い、じゃれあう(異性同士限定)」くらいの、一見度数に見えない新密度だ。
だが、そんな点でもない。
1人でお好み焼き屋に来てしまって、そのとき「トッピン具」を発見。
やるせない気持ちになる。
そんな点でもない。
もう、存在自体だ。
それは、万物に害のみを与えるもの、ことば。
救済の余地なし。
「トッピン具」は悪しき気を発しているのだ。
次回
「トッピン具」の意志における危険性
いきなりレストリクション
久しく会っていなかった友人に偶然出くわしたとき。
その人が今、どんな「具合」なのかを判断するのに、制限をかけてみよう。
裕美「あ、久子。久子じゃない?」
久子「あ、裕美。ひさしぶりー。」
裕美「ほんと、久しぶりね。今日は、何の発表会の帰りなの?。」
このやりとり。
久子が昔から色々なものを発表していることで有名である場合を除くと、かなりの制限事項を裕美は久子に課していることになる。
すなわち、このときの久子が「何かの発表会に関係している」「関係している発表会の何かを、すでに終えている」と私(裕美)は思っている、ということを久子に知らしめているからである。
もちろん、この制限事項はあくまで相手の「具合」を見定めるためである。
裕美は、久しぶりに出会った久子に対して昔と同様に、友達のような話をするべきなのか、落ち着いた内容の会話で、徐々にお互い慣れていこうと思うのか。
裕美は久子の回答に注目している。
このような制限を用いたときの結果と判定は、以下のようになると思われる。
・ケース1
久子「え、発表会?。私、そんなキャラだっけ?。」
:このような回答の場合、やはり長年会っていなかったことが災いして、やや他人行儀である。
久子も「徐々にお互い慣れていこう」という考えであると思われるため、お互いの近況などからの会話が好ましいだろう。
悪くない具合だ。
・ケース2
久子「え、発表会?。私の回答、その範囲内で答えなくちゃだめ?。」
:疎遠な感じではあるが、この内容の会話で重要なのは、相手の言い方である。
フレンドリィな感じなのか、邪険にしてそうなのかを判断し、前者の場合は修学旅行、後者は朝青龍の話などをしよう。
・ケース3
久子「え、発表会?。そうそう、友達がペタやっててね。」
:なかなか機転がきく久子である。具合もいい。そして、この回答は大人である。
何が大人かって、どんなに長い間会っていなかったとしても、この回答後、ペタについての創造話でそのブランクは大抵埋まると思われるからである。
僕は、実はケース3をいつだって用意しているが、ここのところ「具合のいい出くわし」が全くないのだった。
ポーズ
だいぶスキップをやっていなかったので、やり方を忘れてしまった。
そんな話は多い。
これは、しょうがないだろう。
スキップはそれほど効率のいい移動方法ではないと思うし、そもそも大人がスキップをやっている姿は悲しく、それを想像してみても、だいたい回りにモヤがかかったような映像しか出てこない。
スキップはこの辺にしておいて、最近僕が気に入っているポーズの件に入る。
それは「まんが的に、これからすごいスピードで走る人の、スタート直前ポーズ」だ。
図解しない点は申し訳ないのだが、要はまんが等で「足部分が何重かの楕円で表現されるような走り方をする人の、そのスタート直前のポーズ」であり、「要は」になっていない点で二重に申し訳ない。
とにかく、ポーズである。
さて、このポーズ。
何日かおきにやっておかないと「あれ、どうだったっけな?」と僕に思わせる。
そうなると気になってしょうがないので、大きな鏡の前でポーズを行い、その完成度の高さを再確認するのだ。
「スキップは忘れても、このポーズの質は落としたくない。」
率直な心境である。
隙あらば近くの人に見てもらい、そのまんがっぽさ、これから速く走るっぽさを評してもらいたいと思っているが、あいにくそういう隙のある人があまりいない。
ざんねんだ。
パジャマ期
僕は寝ているとき、貼っていたサロンパスを「なんか違和感ありの様相」と、はがしてしまう。
昨日そんなことを書いたのだが、ふと思い当たった。
この件を考えると、密着度の差はあれど、パジャマだって同様の感じを人に持たせる危険性がありそうではないか。
サロンパス?パジャマについて、考えてみよう。
寝ているとき、サロンパスははがしてしまうのに、パジャマはなぜ脱がないのか。
※一般的に、人は寝るときにパジャマを着るが、人によってはなんかいやで、半裸、全裸で就寝を試み、見事成功しているケースも多いだろう。
しかし一方で、パジャマは一般的に親しまれており、この世に「パジャマ界」を確立しているといっても過言ではないのだ。
サロンパスとパジャマの差。
それは慣れ、であると思われる。
幼少の頃からずっと全裸で寝ます、という人はそんなにいないのだ。
誰しも、どこかでパジャマ期を経験している。
「俺は生まれてから45年間、ずっとパジャマ期であったし、これからもパジャマ期が潰えることはない」
こんな45歳の人は多いだろう。
それに比べてサロンパス期はどんなに譲歩しても10歳より前から始まる、ということはなさそうだ。
また、サロンパスには「効果持続」に限界がある、という点も見逃せない。
「半年間ずっとサロンパス貼りっぱなし」という人もいるかもしれないが、たいていは就寝時間のみではないだろうか、「サロンパス期」。
それに比べてパジャマは、使い古して生地が薄くなったなどはあれど、その効果自体が減少することはない。
※ちなみにここでのパジャマ効果とは「ふー、パジャマ着た」という、なんか今日はもう寝るだけ、みたいな気持ちにさせる効果である。
以上の点により、サロンパス期はパジャマ期に比べてかなり短く、しかも不連続である。
したがって、人はサロンパスにあまり慣れておらず、気の緩んだノンレム睡眠あたりで、その異物を排除しようとしてしまうのだ。
※この仮説は「ゆかた」は、はだけやすいという件についても有力だ。
多くの人は「ゆかた期」が少ないため、就寝中に違和感をおぼえてしまうに違いない。
ただし、ゆかたの「はだけ」については、その多くが「物理的な、単なる自然現象」であることも考慮に入れる必要がある。
サロンパスへの慣れ。
それは幼い頃から、サロンパスを貼っておくことである。
サロンパスではなく代替シールでも良いだろうが、僕は好きなのでかまわないが、あのにおいがどうも、という向きでも対応できる点で、オリジナルの方が好ましい。
サロンパスを就寝中にもかかわらずはがさない人は、両親に敬意を表するべきだ。
あなたの両親は「この子がサロンパスに慣れますように」という願いを込めて我が子の背中にサロンパスを貼り、その指先にすーすーするにおいを漂わせているような、先見の明の持ち主である。
あなたの両親は「サロンパスにかぶれないように」と、夜な夜なサロンパスをはがしていたような、子供を思う気持ちの持ち主である。
あなたの両親は我が子に「俺をサロンパスに慣れさせておいて・・・。どういう方面に育てるつもりだ」と思われずに済ませるような、子育て力の持ち主である。
ちょっといきなりじゃねえか
このブログでも、ときたま触れる、妖怪話。
どうやら僕は、人よりも少し妖怪に詳しいと言えるようで、すでにこの文を書いただけで僕の人生の何割かが失われたような気がして、悲しい。
でも、仕方がない。
事実、ちかごろ水木しげるの漫画の文庫にハマってしまっているのである。
故ありて、あまり紹介などをしないブログだが、今回はちょっと理に反してみようと思う。
「鬼太郎の地獄めぐり」という文庫。
だいたい一話完結。
そんな文庫に収録されているある話は、こんな鬼太郎のセリフから始まっている。
「ねずみ男、地獄へ行ってみようじゃねえか」
いきなりである。
最初のひとコマの、右上かどの吹き出しから、このセリフである。
今まで、こんなにも読者の心を掴む出だし、見たことがない。
どんな名作と呼ばれたものを思い出しても、これに勝てない。
こんなの、国語のテストに取り上げられても、なんら遜色ないと思う。
1.次の書き出しから始まる作品名と作者を答えよ。
「ねずみ男、地獄へ行ってみようじゃねえか」
サービス問題の感ありだが、いい作品なのである。
問題ない。
ところでこの、ちょっと無骨なプロポーズともとれる発言の鬼太郎に対し、当のねずみ男も「そりゃあいいや」と意気投合。
ラストにはそのねずみ男が「善の心」について、らしからぬコメントをぽつり、終わる。
僕は何度も「ねずみ男、地獄へ行ってみようじゃねえか」と繰り返した。
いいなぁー。
この人間界、さすがにおいそれと「ねずみ男、地獄へ行ってみようじゃねえか」、言えるものではない。
「なぁ、二人で東南アジアに住むとされる巨大グワッパを見つけにいこうじゃねえか」
グワッパというものがどういう生き物なのか、巨大と銘打っているということは普通のもいるのかなどの謎は残るが、このくらいのセリフであれば、代替されているだろうか。
ところが、いいなぁと思っていた僕は、その次の話で、ひっくり返った。
お話の一番最初に出てくる人物が放つセリフ。
「なんだありゃあUFOじゃねえか」
どうやらこの世界では、UFOは少々認知されすぎのようである。
夢や希望、未知なものへの恐怖心などを付加しろとは言わないが・・・。
ちょっと、空を飛びすぎているのでないだろうか。
このセリフを見るかぎり。
「なんだありゃあ三高の米倉じゃねえか」
街を歩く高校生と同じ扱いである。
「こうして、ふたりで歩いているだけでも、たのしいね。」
「なんだありゃあUFOじゃねえか」
こ、このセリフなら、いつか言えるのだろうか・・・。
ところが、このセリフを言えるシチュを考えていた僕は、その次の話で、もっとひっくり返った。
最初のひとコマ目の右上かどの吹き出しは、このセリフで埋められている。
「あっ小学生の自殺だ」
お前は井上陽水か何かか。
と、このように3話、しかも最初のセリフだけで、ゆるい小説なんかを吹き飛ばす感が得られたのである。
また、「妖怪」「UFO」「井上陽水」と、当ブログの半年に一回くらい出てくるワードが。
この本、おもろいな。
ちなみに、僕はこの文庫シリーズのおかげで「一反もめんは月に行くことができるらしい」という知識も得た。
どこかでぽつりと言うので、よろしく。
湯気のむこう・その2
昨日からのつづき。
【あらすじ】
人はラーメンを食べるとき、たぶん斜め45度くらいに視線が行くと思うんだけど、何見てんだろ?。
例えば、である。
誰かがラーメンを食べる瞬間に、その斜め45度に「メジャー」もしくは「かたつむり」を置き、すぐに取り上げるということを行ったとする。
ラーメンを食べていた人に問うてみよう。
「あなたの前に置かれたのは、メジャーでしたか?、かたつむりでしたか?」と。
僕は、彼がどのように答えるかを言い当てることができる。
十中八九、「え?」だ。
そう。
ラーメンを食べる瞬間、僕らは目を閉じないまでも、視覚はほぼ遮断しているようだ。
よって、その瞬間に10円玉が転がろうが、チョロQが走ろうが、すごく小さなアルマジロが通ろうが、実は見えていない。
「僕らはラーメンを食べるその瞬間、何を見ているのだろうか」
この深遠な疑問の解答は「僕らはラーメンを食べるその瞬間、斜め45度をちゃんと見ていない」となると思われる。
ちなみに、ラーメンを食べるときに何かをちゃんと見てしまっていたら、それはラーメンを食べているとは言えないだろう。
それは「何かを見ながら、ラーメンを口に入れながら、生きながら」だ。
お前は勉強しながら足やせポーズをする女子中学生か。
だめだ。こんなにも「ながら」では。
ラーメンを食べるときくらいは、ラーメンに集中したいものである。
ところで、超能力者にはラーメンを食べてもらうのはどうか。
湯気のむこうのESPカードは、単に裏返されているときよりも「強い」かもしれない。
単に裏返されているカードを当てられるより。
「え!?、ラーメンを食べる瞬間だけ、その斜め45度のところに置かれるカードを模様を当てたの!?」
真実味が増します。
さらに、その当てたカードが「波」だったりしたら、僕は番組のセンスをビンビンに感じるね。
湯気のむこう・その1
以前から考えていたことなのだが、僕らはラーメンを食べるその瞬間、何を見ているのだろうか。
ちょっとそのときを動作してほしい。
箸を持ち、れんげを持ち。
準備は整った。
目の前にあるどんぶりに箸をつっこみ、麺を引き上げる。
あつあつだ。
だが躊躇はしない。
腹が減っているのだ。
れんげも使わず、その麺を口に持っていき、ひとすすり。
↑この瞬間である。
今、こちらでも動作してみたところ、だいたい斜め45度くらいに、ぼんやりとしたまなざしを送っている感じになった。
考えてみると、真正面を見ながらラーメンを食べる人を見たことがない。
そんな人は気味悪いし、してる本人もあご部分がぬれぬれだ。
多くの人は、あごぬれぬれはいやなのである。
また、目をつむって食べている人も見たことがない。
捕食動物には、捕食の瞬間、目を保護するためにまぶたもしくはそれに相当する膜で目を覆う動作を行うものが多いかもとの、知らない人からの手紙。
僕らは、ラーメンを食するときに目を保護する必要がないことを体得している。
もし保護する必要があるとするならば、よほど「こしの強い」麺であろう。
と、このような消去法の中、斜め45度のみが残されたのだ。
ということで、冒頭の疑問「僕らはラーメンを食べるその瞬間、何を見ているのだろうか」は、
「斜め45度を見ている」という解答になる。
ほんとか?
まぁ、それほど面白くならないけど、実はこういう説もあるよ、という方向へ。
つづく。