精神年齢3

先日まで精神年齢について記していたが、そのあいだに気付いたことがある。
「精神年齢は実年齢と大きく違わなくてはならない」だ。
考えてみよう。
コンパ。
25歳のあなたに対して、同性の友達が「お前、精神年齢30歳だよー」と言った。
このとき、あなたはどうすればいいだろう。
安全なのは、「それじゃ、実年齢とほとんど変わんねーじゃん」とおどけた態度をとることだろうか。
というか、思いつくのがそれしかない。
あとは全然違う話(最近、突然ほくろができた、など)をするしかない。
僕は思う。
この同性の友達は、完全にあなたをその場から滅殺しようとしている。
どうしようもないことに、巻き込んでしまおうとしている。
恐ろしく敵対心を持っているような気がする。
一方、友達が「お前、精神年齢が80越えてるよ」と言ってくれたなら、その人は良い友達だ。
素晴らしく美しい放物線を描くトスを上げてくれている。
あなたはただ、80超え話(物忘れ系からの派生がデフォ)を異性に披露するだけでよいのだ。
以上の例でポイントなのが、精神年齢と実年齢の差である。
その差が少なければ、年齢相応の精神、ということで、精神年齢の考え自体が虚ろになる。
一方、その差があればあるほど、実年齢に対しての精神年齢というものが必要になってくるだろう。
ということで以上、「精神年齢は実年齢と大きく違わなくてはならない」でした。

精神年齢2

昨日からのつづき。
【あらすじ】
精神年齢が80歳なカレ。
で、何が彼をそう呼ばせるのか?。
※「精神年齢80歳」を司るものを、ここでは「80感」と呼ぶことにする。
=====
まず、多くの人が思い付くこととして「趣味、写経」がある。
確かに80歳臭のしそうな趣味だ。
また、盆栽、身体能力関連も見逃せない。
枝を間違って切っただの、足が上がらないだの「80感」を与えるのには十分だ。
だが、「80感」を出すものには、歳を取っていることならではの「落ち着きっぷり」や「悟り」というものもあるだろう。
すなわち、精神年齢が80歳なカレについて考える点で重要なのが、「80感」をどうとらえるか、ということである。
例えば何か、厳かな、畏敬な感じが「80感」であるとするならば、精神年齢80歳の彼はストイックで、確実に座禅を組み、鳥のさえずりに和み、杯に花びらが入る。
一方、年寄り的な、ほんわかな感じが「80感」であるとするならば、彼は確実にこめかみに見慣れぬ小さいパッチをはっており、さるまたまるみえである。
結局、精神年齢の情報だけを手に入れても、その人がどういった人物なのかは分からないのだ。
今回、話題となった「精神年齢が80歳なカレ」は、友人らしき人から、確かに精神年齢が80歳であると言われていた。
でも、それだけでは、彼が何をやったのか、わからない。
残念ながら、電車内での見知らぬ人らの会話なので、これ以上の進展は望めないだろう。
彼が、残ったご飯粒をたくあんでまとめて、一粒残すこともない人物風なのか。
コントに見られるような、地上を杖の先で打ちまくる老人風なのか。
永遠に分からない。
絶対分からない。
その友人らしき人は爆笑していたが、それもさるまたまるみえで笑っていたとは、断言できない。
「お前、高潔すぎて精神年齢80歳くらいに見えるよウヒャヒャ」
こうなると、当ブログ的には、もはや友人も無視はできないのである。

精神年齢

帰る途中、こんなフレーズを聞いた。
「こいつ、精神年齢が80歳だからな」
精神年齢が80歳とは、具体的にどういうことなのだろうか。
・頭の中でものを考えるとき、すべて語尾が「?じゃ」になっている。
・脳がしわくちゃ。
・思い描く風景が、すべてセピア色。
と、これらは他人が確認できるようなことではない。
「俺、どうも考え事をするとき、心の言葉の語尾が「?じゃ」なんだよね」
本人がこう言ってくれたなら、彼の精神はアラエイーと言ってもよさそうだが、こんなことを打ち明ける人はあまりいない。
「俺、どうも考え事をするとき、心の言葉の語尾が「じゃ」なんじゃよね」
これは精神年齢が80歳ではなく、ただの80歳もしくは80歳を目指した何かである。
ともかく、こういったことではない、何か決定的な「精神年齢80歳」を司るもの(ここでは「80感」と呼ぶ)を出したがため、彼は精神年齢がそうであると言われたのだ。
さて、何をやったのやら。

転嫁

「○○のおかげ」といったら、何になるだろうか。
神さま、自分、社長、みなさん、森羅万象、オリゴ・・・。
こんなところか。
一方、「○○のせい」といったら、何になるだろうか。
・・・?。
入れようと思えば、あることはある。
あいつ、朝青龍、花・・・。
しかし、「おかげ」にされるやつほど、汎用的な「せい」にされちゃうやつはいない。
どうやら、「○○のせい」を考えるとき、人は漠然としたものに対しては責めることはできないようなのだ。
例えば、何か思いもよらないいいことがあったとき、「神様のおかげ」というのは、それほど変なことではない。
しかし、何か思いもよらない悪いことがあったとき、「神様のせい」とはあまり言わない気がする。
その悪い出来事の詳細を一つ挙げ、その原因に対して「○○のせい」と言うだろう。
これでは、何かのせいにしてもいい事を、何かのせいにしにくい場面も増える。
悪い出来事が詳細に分析できるとは限らないからである。
そしてそれは、ストレスになる。
だから、何でもいいから責任を受け持ってくれる何かを生み出したほうがいいのではないだろうか。
「嶋井さん」。
例で嶋井さんを考えてみよう。
この世の全てのいいことが「神様のおかげ」であり、「みなさんのおかげ」であったとしたら、悪いことは全て「嶋井さんのせい」である。
固有名詞としては扱われず、「なんだよー。電車遅れてるよー。嶋井さんのせいだよー。」といった使
われ方をする。
全ての責任を、曖昧にではあるが、受け止めてくれるのだ。
・・・やっぱ、人の名字はだめだよな。
「殿」はどうだろう。
「あー、サイフ忘れてるよ・・・。殿のせいだよな。」
何か力がありそうな分、責任転嫁のしがいがある、ような気がする。
「地球防衛軍」はどうだろう。
・・・あー、だめだ。
地球防衛軍は、ほんとうに「せい」であることが、多いや。

広告

新聞のチラシやネットショッピングなどで、家電屋さんの広告を見るときがある。
このとき、テレビやモニタの商品を扱う部分に注目してもらいたい。
「広告は、画面に何を写させているだろうか」
多くの場合、黒い背景にその商品の名前だったりする。
一方、清涼感のある海の映像や風景、子供モデルや果実の画像だったりもする。
・・・そう。
少々落ち着きすぎなのだ、上記の人たち。
なんかもっと、こう!!。
のような気持ちにさせる。
ということで、例えば砂嵐の画像にをはめ込んでみたらどうだろうか。
そのネガティブな感じに反して、僕はそれほど売り上げに影響しないのではと考える。
なにか、実際その商品を手にしたときの使用感を表現しているような気がするからである。
むしろ一見ネガティブな砂嵐の画像をはめ込む試行は、今後の広告の方法を一変させる結果を生み出すかもしれないのである。
別に家電屋さんとしては、砂嵐の広告的効果を研究する意味はなさそうだが。
そうしたら、アツアツのピザの画像を載せるのはどうだろうか。
「そうしたら」の使い方が間違っている感もあるが、ピザ屋さんとのコラボである。
何気にかなりイケる感じがするため、あっさりと流すが、とりあえず「薄型」という言葉には、非常に相性が良さそうだ。
やっぱり、こたつで団欒している家族の画像か、ここは。
古きよき日本の家族。
そんなあくびの出る印象を持つやつは、もういない。
「なんでこの画像を採用したんだ・・・」
消費者は心奪われっぱなしである。
近いところでは、「むきかけのみかん」の画像。
「一方的な勝利目前のオセロ」画像。
そのほかにも
「店長の子供」画像。
「終了後の花火大会」画像。
「ほとんど売切れてしまっているコンビニのおでん入れ」画像。
「うりこみ中の演歌歌手」画像。
「カチカチに固まった瞬間接着剤の口部分のマクロ」画像。
「誰も乗っていないシーソー」の画像。
たくさんの画像たちが、広告に飾られるのを待っているし、へたすると、これから広告に飾られるためにたくさんの画像たちが生み出されるやもしれん。

つみぶかきおとなたちえ。

今まで、僕は「笑うのは、人間にしかできないこと」という話を耳にし、まぁそうなんだろうと思っていた。
しかし、先日流れていたCMでは「ゴリラは子供のころは笑う」と言っていた。
ここで僕の食指に触れるのは、笑うことは人間以外もできるということや、ゴリラの子供の笑顔がどんなことになっているのか、ということでもない。
「子供」の扱いである。
どうやら子供は半人前、ちゃんとした個体ではないと思われていないようなのだ。
例えば、ヒトの赤ちゃんに、包装紙でプレゼントをキレイに包む能力があったとする。
そして、大人になると、その能力は消えてしまう。
本来、ヒトに対しての「プレゼント包装能力」を考える際、子供時期の能力はないがしろにできないと考えられるのだが、ゴリラの例からみた子供の扱いを鑑みると、どうやら「ヒトはうまくプレゼントを包装できない」となってしまうのだ。
「子供がプレゼントを、ぴしっとあまりなく包装する?。まぁ、子供だからね。」
「子供でしょ?。セロテープを使わずにゆるまず包装するの。でも、大人はできないからねぇ。」
「折り紙と勘違いしてるだけだよ。子供は、うん。」
こんな感じで、不当な扱いを受ける、子供のプレゼント包装能力。
と、あくまで上記のは、例。
ゴリラの例は違う。
ゴリラの子供は、ちゃんと笑ってくれているのだ。
しかし、子供扱いのせいでその能力は特に注目されることなく、末端の人々には「笑うのは、人間しかできないこと」ということになってしまっている。
いいのか、ゴリラの子供たちよ。
大人に大きな顔させていると、せっかくの「笑い能力」が隠されてしまうぞ。
怒れ!!。
ふがいない大人に。
ということで、晴れて「笑うのは、人間にしかできないこと」で、うまくいきそうである。

半濁音の気宇

昨日からのつづき。
【あらすじ】
生きていく中で考えならねばならないものを考えている最中、「首ちょんぱ」の「ちょんぱ」が気になった。
なんなんだ、ちょんぱ。
=====
【ちょんぱの由来】
1920年代のタイ。
ある村で祭りが行われるため、そのまとめ役と補佐を決定することになった。
そのまとめ役に選ばれたのが、当時村人達に人気のあったチョンさん。
そして補佐には村長の一人娘のハーさんが選出された。
・・・もういい?。
ということで、現在ちょんぱがどのようにこの世に生まれ出たか、知らないのである。
調べればわかるかも知れないが、その行為は「切った爪がはずみで飛んでしまい、それを2時間探す」行為よりも、さらに優先度が低いような気がする。
ひとつ言えるのは、切断という行為を表現するのに、半濁音はちょっとわんぱくではないかと思う。
元気すぎる。
明るすぎる。
日本を元気にしすぎる。
切断なのだから(?)、半濁音は使わずに、もう少しおとなしめにしたほうがいいと思う。
明日。
延長戦。

素肌

くそ寒い昨今。
男にとって、女の子の肌露出や薄着は、想像を絶している。
もはや脂肪がどうこう、という域を凌駕していると感じている。
何か決定的な組織、器官の差異があるに違いない。
いや、メンタル面で寒さをカバーできる能力があるに違いない。
生足を見る度、チーム男性は、そのことで話題沸騰である。
ズボン下なんて本当ははきたくないおやじは、どうにかしてその秘訣を知りたがっている。
「あんなカッコしやがって。見てる方は寒いんだよ。」
そういう男は、確実にうらやましがっている。
寒さに強いことを。
女性の肌に興味を持つ男性が多いのは、単にその美しさによるものだけではないのだ。
「ファッファッファッファッ!!。何を無理やり締めようと思っているのか。」
「やや。そのバルタン的な笑い声は!!」
明日に。

ダミー欲

欲がありすぎるってのも困るけど、無欲っていうのも、困る。
何が困るかって、そんな人に何かをあげなくてはならないとき。
何をあげればいいのか、わからないのだ。
無欲であることは、ほぼ無趣味であることと、言い換えることができる。
趣味くらいあれば、それに関連したプレゼントができるものを!!。
あいつめ!!。
ぎりぎり延長コードが届かなくなれ!!。
と、こういうとき、人はたいてい「王様のアイディア」的なものに走る。
よって、無欲な人には、そういったアイテムが集まりやすい。
無欲な人。
それでいいのか。
そもそも、何をあげればいいかなんてことで、相手を困らすんじゃない。
ということで、大人のたしなみ。
ダミー欲の登場である。
「いやじゃないけど、そんな興味もない」
そんな欲を、日ごろからちょくちょく出していくのだ。
「かえるを集めている」
非常に有用なダミー欲であると思う。
友人は、よろこんでかえるの形をした鉛筆削りをくれるだろう。
かえるはダミー欲である以上、それほど興味はないわけだが、かえるのおかげで友人の手を必要以上に煩わせることもなく、自分も鉛筆削りに困ることがなくなった点で、それは素敵なことである。
もちろんダミー欲は、無欲な方だけでなく、欲欲な方にもオススメしたい。
安価に達成できるダミー欲を利用することで、相手に無理をさせない。
そんなこともできる。
大人である。
ただ、あまりにこのダミー欲に頼りすぎると、それはダミーでなくなる可能性もあり、その時は注意したい。
ダミー時代が長ければ長いほど、度が過ぎる欲になりがちだからだ。

おなじみ哀歌

テレビで、どこかの高校の、ある部活動が紹介されていた場合、その内容を「どうせ、部員が足りないんだろ」と考えるのは、軽率である。
単純な部活紹介であったり、いいキャラの部員紹介であったりすることの方が多いのだ。
しかし私は「部員足らないの件」の方を考えてしまう傾向にある。
「部員が足りていませんが、部長ともども、頑張っています。」
部活動の紹介をしている番組を見ると、最終的には部員不足で締めくくるのではないかと考えてしまうのだ。
これは、古い小学校を紹介する番組についても、同様である。
廃校だ。
「いつも子供たちを守り続けてきたこの学校も、今年限りで廃校となります。」
古い小学校の話題と言えば、これなのだ。
確かに悲しいことで、そのことをどうこう言うつもりはないのだが、私が気にするのは「古い小学校の特集=廃校」の関係ができてしまっていることだ。
たまには「古い小学校ですが、校舎を一新。まだまだ続きまーす。」というのはないのだろうか。
それじゃ、特集にならんのか・・・。