ふと、「今だからこそ、未知の水棲生物に○○ッシーって付けまくろう」と思い立ったが、あいにく未知の水棲生物をあまり知らない。
例えば遠目でイルカが泳いでいることがわかったとき。
ぎりぎりイルカかどうかわかるわけだが、確信が持てない点では未知と言えよう。
そうなると「イルカッシー」になるわけだが、これはほぼイルカである。
あの「○○ッシー」のぞんざいさ。
あの甘美な雰囲気がない。
「ああイルカなんだね」
そう思われてしまう。
違うんだ。
「イルカッシー」なんだ。
考え方を変えて、場所狙いでいってみようか。
イルカを見たのが相模湾だったら「サッシー」になるわけで、一見イルカ臭はしない。
ただ、気になるのは昔有名になった「タマちゃん」の存在だ。
あれは、場所名でありながら「ちゃん付け」とかわいらしい存在。
なぜ「タッシー」じゃないんだ。
あまりにアザラシが目に見えたからだろうか。
ああもうあの役で石黒賢ってのがあやしいんじゃないのか、反町よ。
ごめんこっちの話。
ともかく、「○○ッシー」なんだ。
今度、知らない人に勝手にこれであだ名でも付けてみようか思う。
カテゴリー: 汎用性より低い
エルバッキーシークエンス
少なからず「と学会」の本を読んでいて、いい意味での毒気を浴びていた。
なので、PSvitaのディスガイアに「エルバッキー」という猫が登場していたことに対して、少し愛着が持てた。
そんなことを本屋で思い出したので、その日は迷わず大槻ケンヂ氏のドルバッキーを買う事にしたのだ。
最近、本屋で迷う事が多い。
たくさんありすぎて、何を買えばいいのかわからないから。
僕の親友が大槻ケンヂにはまっていた頃、僕は基本的にドラクエだった。
頭の良かった親友はその点でもおもろいやつだったわけだが、一方の僕は全力のファミコン。
言い換えればお楽しみを取っておいたとも言えよう。
ドルバッキーを読みながらコーヒーを飲んでいると、なんとなくエルバッキーはうちの猫に似ているな、と思ってきた。
正直、エルバッキーは猫なのだが、他の猫に比べても、うちの猫、ももはかなりエルバッキーに似ている。
目も光るし。
ももは捨て猫だが、やたらもこもこした毛をしており、ぱっと見「ソマリ」という高級くさい種類にそっくりである。
しかし、ここだけがおそらくエルバッキーとは違うのだが、いわゆるかぎしっぽ。
曲がり角にしっぽが引っかかり、進めないと怒っている猫がいたなら、それはももである。
僕はディスガイアのエルバッキーに、みみと名付けた。
みみはももと一緒に捨てられていた猫で、姉妹のはずなのにももとはだいぶ違う。
スローロリスのような猫だ。
しかし、ここだけがおそらくスローロリスとは違うのだが、いわゆるかぎしっぽ。
曲がり角にしっぽが引っかかり、進めないと怒っている猫がいたなら、それはみみであり、お互いのしっぽが引っかかって両者引けをとらずに怒っている猫たちがいたとするなら、それはももとみみなのだろう。
さっき違うと言ったけれども、もしかしたらエルバッキーもかぎしっぽだったんじゃないだろうか。
降るために飛ぶ。
二日ほど前から「空をとぶおたまじゃくし」のイメージが、ふと浮かぶ。
あの、お世辞にも上手とは言えない緩い速さで目の前を泳ぐ感じ。
なかなかいいと思う。
しかし、おたまじゃくしはその可愛らしさと同じくらい、群れたときの気持ち悪さを知られている。
朝起きたら顔に群れている。
そんなことにもなるかもしれないのだ、「空をとぶおたまじゃくし」は。
ゆっくりながらも体が小さいので、十分な戸締まりが必要である。
また、彼らは雑食性であるが、普段は落ち葉などを食むだろう。
というのも、彼らは決して捕食に長けているわけではないから、動くものを食す機会は少ないだろう。
ということで、ここに「空をとぶおたまじゃくし」の最も映えるだろう画、「空中でわっさーなってる」の可能性のないことが証明された。
もし鳥を追っているのだとしても、その遅さから人は「空を飛ぶおたまじゃくしが鳥を追っている」とは思えないだろう。
例え鳥が瀕死の状態であったとしても「空中でわっさー」は無理だろう。
鳥の瀕死と飛行の速度は比例関係にない。
ともかく、ざんねんだ。
しかし「空を飛ぶおたまじゃくし」には、他にも魅力はある。
例えば箸の先にマシュマロを刺して、おたまじゃくしを誘導する遊びがある。
また、わっか状の器具を用いて、彼らをシャボン玉で囲う遊びもある。
息で動かし、一カ所にたくさん集めるのもいいだろう。
これらは、おたまじゃくしがとろい故に楽しめるものである。
だが、そんな牧歌的な「空をとぶおたまじゃくし」も、やがて足が生えてくる。
彼らにとっての足とは、何なのだろうか。
確か、宇宙に連れて行かれたカエルは、四肢がぴーんなっていた。
「足が生えたぞ!!」
空を飛ぶおたまじゃくしの足は、それ以上の何かはないだろう。
意味なーし。
A「娘さんを僕にください!!。幸せにしてみせます」
B「娘さんを僕にください!!。もう幸せにしています」
C「娘さんは僕のものでした!!。ゆえにもう幸せなのです」
D「娘さんは僕の兄妹でした!!。極めて正常な家庭環境です」
E「娘さんは僕でした!!。DNA鑑定の結果、判明したのです」
F「娘さんを僕にください!!。DNA鑑定の結果、幸せにできるみたいなんです」
G「娘さんと僕を交換してください!!。僕はスカートをはくのが大好きです」
H「僕はスカートをはくのが大好きです。ゆえにもう幸せなのです」
I「娘さんは僕のものでした!!。娘さんは僕のものでした!!」
J「お父さんはもう娘さんには飽きたでしょう。顔に出ていますよ」
K「お父さん、キャッチボールしませんか。娘さんは置いておいて」
L「どうですお父さん。この球は娘さんじゃあ出せないでしょう」
M「娘さんを僕にくれれば、もれなくこのキャッチボールがついてきますよ」
N「あと、僕と幸せも」
rcf
全てを終わらすことのできる言葉というのに、ずいぶん前に触れた。
いろいろ 1
いろいろ 2
先月あたりに思いついたのが「ルビーせしめてフランスへ」だ。
※「周期表第1族元素」の覚え方のひとつ
「香奈は小さい頃から夢だった化学者になっただけでなく、とても美しく成長した。そんな彼女も、ルビーせしめてフランスへ(オリジナル)」
どうだろう。
ちゃんと終わっているのではないだろうか。
「失恋をやさしくなぐさめるかのように、やさしい雨が降り出した。そんななかを僕は、ルビーせしめてフランスへ(オリジナル)」
「星々の香気を追って、旅を始めねばならない。私はリーの細い手を取った。ルビーせしめてフランスへ(中島らも 永遠も半ばを過ぎて)」
みんなもいろんなフレーズに「ルビーせしめてフランスへ」を、心の中でつけてみよう。
僕はこう、日々の生活における会話の最後にこの rcf (ルビーせしめてフランスへ)を心の中でシミュレーションしてみたところ、おおよそ2割、面白かった。
正直なところ、この「周期表第1族元素」の覚え方については、その最初が水素(H)、現状ラストがフランシウム(Fr)ということで、どうしてもその内容は「エロいが、最後はフランスへ行く」で落ち着いてしまう。
結果、遊びの範囲はそう広くない。
しかし、今回のようにさまざまなフレーズに合わせることで夢が広がり、かつアルカリ金属の一部を覚えられるというのは、けっこう有意義ではないだろうか。
さあみんなも、ルビーせしめてフランスへ。
エロめに。
勉三さんについて。2
昨日からの続き。
【あらすじ】
キテレツ大百科に登場するガリ勉王、勉三さん。
「稽古と勉三さん」というものを考えたとき、どんな稽古なら違和感なく、僕は睡眠を取ることができるのだろうか。
=====
結局のところ、発端は「勉三さんがお稽古ごとなんぞするかい!!」なんである。
そして僕はいままで「お稽古ごと」をしたことがない。
とりあえずユーキャンのサイト(2011年11月3日午前3時)で、講座を調べてみると、国家資格。
つまり稽古というよりは学習というものから、趣味実用というものにいたるまで、様々なものがあった。
なんとなく面白そうなものを、なんだか眠れないので見繕ってみる。
「勉三さん、今日は体育館で「古武術介護」のお稽古です」
一体なんなんだ「古武術介護」とは。夢あり過ぎじゃないだろうか「古武術介護」。
サイトにあるその項目にはリンクが貼られているが、もちろんそれを確認するという無粋なまねはしたくない。
なんか、介護プラス脱臼くらいは治療できそうな感じ。
明日はこれの想像でもしてみるか。
とりあえず、古武術のおかげで、勉三さんがより稽古から遠ざかったことは確か。
「曲がり角で勉三さんにぶつかったら、彼の鞄から「これだけでいいよ!英会話」のテキストが見えた」
何か切実である。
あるいは、ぶつかったあとで「めがねめがね」している勉三さんに対して「これだけじゃだめなんじゃないの!?」とツッコミを入れてしまう。
そんな衝動にかられるに違いない。
「勉三さんの机の上に「楽しいちぎり絵」」
これも何か、心にくるものがある。
想像するに、模試の結果用紙とかだろう。
「勉三さんの!! 土日でドッチョ!!」
なんとなく飽きたので、ラジオの新番組である。
勉三さんが与えられた時間を、とにかくしゃべりで通します。
ちなみに、ユーキャンには「タイトルネーミング」の講座がないため、ドッチョになりました。
このほか、ユーキャンには「つづけ字」や「ラブリーイラスト」、「話し方」など、勉三さんとそれをより際立たせる講座が目白押し。
みんなも生涯学習ならユーキャンだね、という感じで終わらさせていただきます。
勉三さんについて。
「ケイコとマナブと勉三さん」
何となく思いついた。
「マナブと勉三さん」はよくわかる。
キテレツ大百科という漫画で、形式美極まるガリ勉像を確立している勉三さん。
彼と「マナブ」は、「マナブ」をわたせせいぞうの描く好青年としてとらえても、もちろん「学ぶ」としてとらえたとしても、おそらく仲良しであろう。
そして「ケイコとマナブ」は、やはりわたせせいぞうの描く恋人同士とみても、もちろん「雑誌」としてみても、なんら問題ない。
ここは、「ケイコと勉三さん」だ。
「ケイコ」を女子としてとらえるなら、「あの、生けるガリ勉像である勉三さんと女子が、どうしたんだ」という疑問がどうしても生じてしまう。
確かに、我々は勉三さんを少々甘く見すぎているかもしれない。
勉三さんだって、女子と「と」で繋がることもあるわい、と。
しかし、確か勉三さんはメガネを外すと、顔に「さんじゅうさん」という数字が浮かび上がるはずだ。
ここに、「ぶあついメガネを外すと美男子」というモテ男の一例があえなく脱落する現実がある。
今回は、勉三さんを少々甘く見ていく方針を取る。
で、実は「ケイコ」女子説は特に発展しない。
上記の疑問だけなのだ、「ケイコ(26歳OL 独身 甘いスクランブルエッグが好き)と勉三さん(学生 独身 学生服は布団の下敷きにしてピシッとさせる)」についての内容は。
出来ることと言ったら、ちょっとした付加情報で夢広がるようにしとくくらいだ。
僕が「ケイコと勉三さん」で気になるのは、むしろ「ケイコ」を「稽古」として見なした場合。
「稽古と勉三さん」
こちらのほうが、女子の方よりもよほどイメージしにくい気がする。
勉三さんは「マナブ」とは仲が良く、「ケイコ」とはいまいち臭い。
これらのことにより、勉三さんがからむと「ケイコとマナブ」は結構質の異なるものであることに気づかされる。
で、それはさておき、勉三さんは何を稽古すれば、あるいは稽古しているイメージになれば、「ケイコと勉三さん」の違和感がなくなるのだろうか。
かなり面白くなさそうだが、次回。
かまいたちによる。
かまいたちについては何度か触れているかもしれない。
それは人に気づかれないように、その足とかを切るという妖怪。
切られた人はそのまま帰宅、家族のものに「あーたその傷どうしたの!?」と指摘されることで初めて気づき、その不思議さを持って話が終結するのが一種のならわしになっている。
さて、このかまいたち。
3匹が1チームで、このよくわからないワークをこなすことになっている。
まず1匹がターゲットに突撃し、2匹目が切り傷を作る。
そして3匹目が痛み止め、あるいは血の出なくなるような薬を塗る、とされている。
この手順によって、人は傷を負ってもそれに気づくことがない、という訳だ。
今回は「いろいろなことを3つの役割に分けてみよう」と考えている。
【採血】
1匹目が患部にアルコールを塗る。
2匹目が注射器をさして血を吸う。
3匹目が「はいここ抑えておいてくださいねー」と言う。
こんな感じ。
看護士さんは3匹目でした。
【代返】
1匹目が登校する。
2匹目が咳払いで喉を整える。
3匹目が声色を変える。
【10倍界王拳】
1匹目が界王拳を発動する。
2匹目が殺されてしまう。
3匹目が10倍界王拳を発動する。
【オムライス】
1匹目がケチャップライスを作る。
2匹目がとろとろオムレツを作る。
3匹目がオムレツをケチャップライスの上に乗せる。
【ジェットストリームアタック】
1匹目がターゲットに突撃する。
2匹目が切り傷を作る。
3匹目が銃創を作る。
【悲劇】
1匹目が2匹目と許されない恋に落ちる。
2匹目が3匹目と結婚している。
3匹目が4匹目に1匹目の殺害を依頼する。
【卒業アルバム】
1匹目が卒業アルバムを取り出してくる。
2匹目のスペースに花束の写真が印刷されている。
3匹目が遠い目をする。
基本的に3匹目がえらいよな。
景観
「景観を損ねる」という言葉を思い出したとき、普通浮かぶのは、吹けば飛ぶよな楳図かずお氏だろう。
しかし景観というものが経時的に可変で、しかも近年になって重要性が激増したことを考えると、どうも「景観を損ねる」という言葉は「その対象を否定する形だけのもの」な気がする。
その実際は「その対象が景観に溶け込むまで、我慢できない」ということだろう。
先日行った公園は、多くの自然が残されたところだった。
樹木も多く、フィトンチッドを体中に、脇とか股間にも浴びた。
そんな清々しい気持ちで歩いていると、唐突にソフトクリームのオブジェクトが現れた。
巨大だ。
一見、森にソフトクリームというのは変だが、特にそれに対して「景観を損ねる」という気持ちにはならなかった。
色あせてコケが付着していたから、何となく周りの樹木に溶け込んでいたし、その後ろにはお店があった。
「ソフトクリームを提供しているお店のある、森」
当初の、ぴかぴかしたソフトクリームに対して「景観を損ねる」という懸念は無かったろうし、そもそもそういう考え方が欠如していたかもしれない。
どちらにせよ、ソフトクリームは「景観に溶け込むまで、ほっておかれることができた」わけだ。
これが例えば「ときどき爆発するドラム缶」だったらどうだろう。
「景観を損ねる」という考え方がなかったとしても、それは許されるものじゃない。
「それが景観に溶け込むまで、我慢できない」
「というか、景観どうこうの前に、危険」
「景観を損ねる」なんて言葉だから、楳図氏の件ではテレビショーに取り上げられるまでになってしまったのだ。
「景観を損ねる」だと、景観って何だ、お前んちはどうなんだ電線はどうなんだとなるし、「景観に溶け込むまで、我慢できない」だと大人げない。
反対派の人はちゃんと「景観は関係ないが、楳図ハウスはいろんな意味で爆発の危険がある」と指摘するべきだった。
そうすれば、楳図氏としては「そりゃいろんな意味で爆発する家を作るよ」と言うことができ、より美しかった。
新聞受け
「真実の口」と言えば、ローマにある手首を食べてしまう人工物として有名だ。
このセンセーショナルな出来事の原因は、「真実の口」に手首を切断するような装置が見当たらないところから見ても、口から先が別次元へつながっているからと考えるのが自然である。
そこで切られるのだ。
おそらく、別次元の、あまり治安の良くない地域の、ある夫婦が住む家の新聞受けへとつながっているのだ。
そこでは自衛手段として、新聞受けをまさぐる手を切断していいことになっているのだろう。
おそろしいことである。
と、「真実の口」という、けっこういじるには勇気のいる題材を持ち出したのは、「真実の口に手を入れたとき、その夫婦にやってもらいたくないこと」を考えたからであって、なんだか局所的。
とにかくいやなのは「ごはんを食べている」「居間でテレビを見ている」だろう。
こちらの世界では手首キラーとして恐れられているそれに手を突っ込み、ありえないとは分かっていても、いくらかの恐怖を持っているわけである。
しかしその向こうでは「ごはんを食べている」。
気づかれていないというのはとても悲しいし、気づかれていて「また手首か」とスルーされるのもつらい。
「小銭をにぎらされる」は結構いい。
そんな大きい額じゃなくていい。
「ローションがべたべたぬられる」だと、口に入れた感が増すので、いやだ。
「何かを持たされたが、それが長いのか口に引っかかって持ち出せない」
これなら、少しは試行錯誤して、夫婦をおもしろがらせたいところ。