浸透と劣化

当ブログの数少ないリンク先、ダミアン氏のブログを拝見させていただいているとき、いつだったか「最近、文章が長くなってきた。」ことについて触れた回があった。
こないだ、僕もそれを感じたことがあったのを思い出した( 2006/05/09 語る言葉に恨み無し)。
最近、また僕のも長くなった。
それが、僕はいやだ。
長くなる原因は2つあると思う。
一つは、書くことがないから。
明確に書くことがないと、とりあえずの文に、そこそこの意味を持たせるため、どうしてもだらだらと書くハメになってしまう。
例えば日記に「このビームを受けて、立ち続けられた者はいない。」というシーンを書くことになったとする。
そして、その日は本当にビームのことしか起こらなかった日なのである。
さて、実際の出来事は「その、受けると必ずやられてしまうビームを受けたんですけど、僕はどうにか大丈夫でした。」で終わってしまうのだが、これは悲しい!!、と思った「私」は、だらだらと書いてしまうのだった。
=========
「その、直撃すると体を貫通し、背後の街をも壊滅させてしまうビーーームを、いとも簡単に受け流した私だが、受け流し先に小さな子犬が!!。」
「子犬の身を案じた私はタイムリープを用いて子犬の前に瞬間移動し、あまんじてそのビーーーーームを受けることにした。」
「かず子、すまない。みゆき、きれいになったな。近所のマイティ、ファミコンのカセット返さなくて、すまない。おやじ、長生きしろよ・・・。」
「だが、後ろの街は守ってみせる!!。貫通させるものかああああぁぁぁぁぁぁ!!」
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
・・・
気付くと、私は片ひざをつき、動けなくなっていた。
どうにかまだ生きているよう。街も無事だ。
だが、危機はまだ去っていない。
動けない以上、私に何ができるというのだろうか!!。
to be continued・・・
=========
おうっ!!。
長いぜ。
もちろん、だらだら文でいいのが、日記やらブログのいいところ。
今書いてて、楽だし、楽しかった。
次、ドッキンガーJ(私)がどうなるのか、超気になる。
僕のはこういうだらだらが、ほとんどだ。
でもどこかで「もっとおもろいことをスパッっと言いたいんだけどなー」というのも、どこかで感じているのだ。
=========
そして、今回ももう長い。
明日へ。

俺にとっての、まさし。

こないだ珍品料理の話なんかを書いたときに思ったんですけど、「○○は現地の人にとって、貴重な××だ。」っていうフレーズは、おもしろいよ。
普通だったら、
「イモムシは現地の人にとって、貴重なタンパク源だ。」
どうしてもアボリジニを思い出してしまう。
今のは普通なので、次からはいろいろ嘘とかを入れてみて、楽しんでみよう。
「酢味噌は現地の人にとって、貴重なタンパク源だ。」
だいぶつらい場所であることは、分かる。
「近江牛は現地の人にとって、貴重なタンパク源だ。」
二重に納得。
「打楽器は現地の人にとって、貴重なキッチン用具だ。」
意外と使いやすかった。
「カレーは現地の人にとって、貴重な飲み物だ。」
ウガンダという元祖デブタレさんが、そう言ってたらしい。
「ゆーとぴあは現地の人にとって、貴重な娯楽だ。」
現地の人が「give me 娯楽!!」と望んだら、ゆーとぴあが遣わされた。
もう、○とか×を超えて、楽しんでみよう。
「ポストはお相撲さんにとって、貴重な稽古道具だ。」
「てっぽう」の練習。
「地球はみんなにとって、大切な宝物だ。」
なにやってんだ!!。こっちにきて、みんなで歌おうよ!!。
「テレビは僕にとって、唯一の話し相手だ。」
ちょっと無口なんだけど、根はいいやつなんだ。
「アリはオオアリクイにとって、格好の獲物だ。」
オオアリクイが、主食にアリを選んだ勇気に対しては、ただ脱帽である。
「まさしはきよみにとって、ちょっと気になる男の子だ。」
「まさしは今年、9歳になる男の子だ。」
「まさしは水をつけないでぎょうざの皮を閉じるのがうまい、きよみにちょっと気にされている、9歳の男の子だ。」
「まさしは掃除のとき、ちゃんとイスの足の裏についているホコリを雑巾で拭くのを怠らない、ぎょうざな男の子だ。」
「まさしはテニスが上手な男の子です。」
「まさしはペンを持っています。」
「まさしはペンを持っていますか。」
「まさしはどこから来たのですか。」
「誰がまさしですか。」
まさし is over.

紫煙八景・緩衝溶媒

「言葉があいだになかったら・・・。距離が縮まっちゃうじゃないか!!。」
ある、おしゃべりな芸人がこう言った。
ごめん言ってない。
僕はなんとなく、「たばこを吸うのと、しゃべるのは似ているなー」と思っていた。
しゃべることが、ある人にとってバリアのようなものであるとしたら、たばこを吸う人にとっての煙も、そんなものであるのだ。
たばこを吸う人を見ていると、こう思う。
「何を和らげようとしているんだろうか。」
紫煙があたりを包む。

カノン?

よくわからないのだが、こういうことはできるのだろうか。
1.何かの楽器で、録音をしながら曲を弾く。
2.別の楽器で、再生した1の曲と合わせつつ、曲を録音しながら弾く。
3.「1と2」を繰り返す。
4.すごい大演奏になる。
僕が見たいのは、この過程を全てリアルタイムでやっているもの。
1を行ったら、録音したものを再生しつつ2の準備をする。
そしてもう一度1を再生するときに、2をかぶせるのだ。
これを繰り返せば、ひとりオーケストラとも言うべき、ちょっとさびしいニュアンスを持つ行為も可能なんじゃないか、と。
歌のうまい人がやれば、全て自分で演奏した曲に、歌をのせることができ、かっこよさげだ。
そして、これを舞台で一人でやると、すごくいい気がする。
色々な楽器を一人でこなさなくてはならないので、大変そうだが。
ただ、誰かすでにやっていそうな気がする。
DVDとか出ているんじゃないだろうか。
出てたら、み、見たい・・・。
今「ひとりオーケストラ」で検索してみたら、なんだか正月のかくし芸での青木さやかの見世物がひっかかる。
残念だ!!。
近頃のかくし芸は、全然視聴していないので、「青木さやかのひとりオーケストラ」がどんなんだったのか、わからんのだ!!。
そういうのは、もっと押していこうよ、さやか!!。
かくさなくても、いいじゃないか!!。
と、そういう感じのことができたら、結構迫力があって面白いと思った次第で。

変化に、ざわめく。

台風で雨風が強い。
そんなときに川の様子を見に行く人がいる。
危険なので行ってはだめだ。
でも、川の近くに住んでいる人の場合、川の水位が上昇していくことは気になって仕方ないはずだ。
やはり、水位を確認しに川へ向かって事故にあってしまったりするのだろうか。
台風は去った。やたら晴れている。
すると、人々は川を見に来る。
住んでいる場所に関係なく、来る。
まだ川の水位は下がっておらず、危険だというのに。
この行動は多くの場合「興味本位で」という言葉で片付けられる。
なぜ台風後の川に興味を持ってしまうのだろうか。
おそらくそれは「いつもと違う感じになった」からだ。
いくら川辺が荒れ果てて、かなりのスペクタクルになっていたとしても、それがいつもの風景であるなら、人は興味など持たない。
いつもと違ってしまったから、興味を持つのだ。
量子力学では、例えばある電子を観察したい場合、それに他の電子などをぶつけなくてはならないという。
観察対象を変化させなくては測定ができないのだ。
あるタンパク質の構成成分を調べる際、そのタンパク質をぶち壊す方法がある。
これも、上記と同じことが言える。
注目している遺伝子を変化させて、オリジナルとの差異を見てみる、という実験もあるようだ。
これも、しかり。
世の中には、変化がおきないと分からないものがあるようだ。
今までの風景が変化してしまったことにより、それがどんな意味を持っていたのかを知るのである。
そして、その意味を再び確認するには、ほどほどの時間を要する。
もちろんそれは理系の話に限ったことではない。
例えば、国語の教科書などで見られる「森鴎外」と「石川啄木」の写真が実は間違っていて、本当は逆でした、となったとする。
両者の生き様的なことは色々あるだろうが、よく知らない。
よって、これはあくまで個人的な、両者の写真イメージからの推測になってしまうが、
・森鴎外:自分の納得できる濃さになるまで、弟子に硯を3日ほどコスコスさせていそう。
・石川啄木:下手するとシルバニアファミリーの動物達の先生として、教壇に立っていそう。
という感じ。
そして、この「写真が違っていました事件」で、我々は驚愕する。
あの写真(七:三側)の無垢っぷりさと「森鴎外」の名の重々しさの違いはなんだろうか。
あの写真(ひげ側)の人物が夢の世界の住人だったのだろうか。動物達はひげを恐れなかっただろうか。
森鴎外は死に際、「馬鹿馬鹿しい・・・」と口にしたらしい。
上記の「写真違いました事件」によって、森鴎外と石川啄木の写真イメージが融合し、混乱を招く。
そして「森鴎外はシルバニアファミリーの動物達に「馬鹿馬鹿しい・・・」と言い残しこの世を去った。」という珍想像ができたりする。
僕は、馬と鹿の気持ちを考えると忍びない。
こんなとき、やっと我々は「森鴎外の名と森鴎外の写真(本物の方)が、どれほどの意味を持っていたのか」をはじめて知ることができる。
変化がないと、森鴎外と森鴎外の写真のつながりのありがたさは、分からない。
台風のあと、川に来る人は、少しだけそんな感じのものを得るのかもしれない。

転落解除箱

下北沢の駅ホームにて、「転落警報解除箱」なる物体を発見した。
「誰かがホームから転落したときに鳴る警報を、止めるボタンが隠されている箱」に違いない。
おそらく「誰かがホームから転落したときになる警報」は、この解除ボタンを押さない限り永遠に鳴り響くのだろう。
ただ、聞いたことはないがこの警報、かなりうるさいと予想される。
重大なシグナルをあらゆる場所に発信する任務があるから。
だが同時に、うるさすぎて詳細な情報の伝達を妨げる危険性もありそうだ。
事件の一報をいち早く知らせるのは重要だが、その後の対応、情報伝達に遅れが生じるようではいけないのだ。
そんな可能性たちの狭間に「転落警報解除箱」は存在する。
僕は、その箱の付近に「転落警報箱」を探した。
しかし、すぐに止め、反省した。
人がホームから転落した際、そのことを一番早く気付くのは、本人だ。
そして、本人は転落している。
「転落警報箱」はホーム下にあると思われる。
もちろん転落者が気を失う可能性は多分にあり、ホーム上にも存在しているだろうが。
そして「転落警報箱」は「箱」ではない。
「転落警報箱」の発想元である「転落警報解除箱」が「箱」である理由は、
・アホな人が勝手に押して、警報を解除しないようにするため。
・箱を開ける作業を追加することにより、その間「本当に解除していいのか?」と考えさせることができる。
といったものだろう。
「転落警報箱」には、そういった機能は求められていない。
特に「本当に転落したことを知らせていいのか?」といったことを転落者に考えさせるのは、拷問に等しい。
よって「転落警報箱」は「転落警報ボタン」として、まる見えであるはずだ。
僕は次に「転落箱」について考えた。
「転落箱」。
そんなものはないだろうし、よくない。
そう思う。
でも、駅売店でなにやら冷やしているものが、これに相当するのでは、とも思う。
「駅でみかけた箱」について、いろいろ考えた。
どうやら駅には「転落箱」があり「転落警報ボタン」があり「転落警報解除箱」があるようだ。
転落させない気は、ないのである。
僕は最後に「転落解除箱」について、すこし思った。
電車が来る。
なんでこんなことを考えていたのか。
あー。そうだった。
「転落警報解除箱」だ。
ん、なんだ?。
「転落警報解除箱」?。
まず「転落箱」が、駅売店の・・・。
「転落警報箱」が、押しやすいボタンで・・・。
そして「転落警報解除箱」・・・?。
役目を詳細に表そうとするほどに、その存在は、より虚ろとなるのだった。

夏の日に 紡いでみたよ 五七五その2

前回の五七五
くそくらえを
 くそ召し上がれと
  言われても
     nimbus7942(O型乙女座です☆)
おいおまえ
 気に食わないな
  なに中だ
     nimbus7942(人と会った時のあいさつ)
ねえかあさん
 血だらけの人が
  立ってるよ
     nimbus7942(見えないことにした)
蒸し風呂と
 人は言うけど
  何なんだ
     nimbus7942(サウナは自分との戦い)
こめかみは
 人の急所と
  言ったのに
     nimbus7942(迷わず狙ってきた)
まじウザい
 語源を探す
  旅に出る
     nimbus7942(いろいろあるみたい)
しみたれた
 Tシャツがいま
  ぞうきんに
     nimbus7942(輪廻転生)
なぜ俺の
 まくらに虫が
  地球爆発
     nimbus7942(字余り過ぎ)
父親が
 何度も口する
  「UFO」と
     nimbus7942(何があったんだ)
ため息で
 風力発電
  できるかな
     nimbus7942(やな小学3年生)
コロコロと
 ボンボン派との
  確執が
     nimbus7942(紙面足りない)
持続時間
 夏ものがたりは
  彼岸まで
     nimbus7942(多少上下する)
もう夏が
 終わると気付くが
  打つ手なし
     nimbus7942(なんかいろいろ)
やめとけよ
 ちょっおまいいから
  やめとけよ
     nimbus7942(いい友達)
なあ春子
 こんな体で
  すまないな
     nimbus7942(何言ってんのよ)
キムタクと
 オダジョー足して
  2をかけた
     nimbus7942(4倍)
食パンと
 チーズとハムと
  食パンと
     nimbus7942(サンドイッチ)
バク転の
 シミュレート時の
  すまし顔
     nimbus7942(だいたい上のほう見る)

不変と可変のダイナミズム

僕は暇なとき、色々と考えて暇をつぶす。
以前、よく考えていたのが「過去の自分を見れたらどうなるか」というものだった。
これは別にタイムマシン云々、とかいう感じの妄想ではなくて、「一定時間おきに僕の残像が打たれる」というものだ。
例えば5秒おきに、僕の残像が打たれる。
ちょうど線グラフの点を打つように。
僕が、道を歩いている。
ふと振り返ると5秒間隔で「僕が打たれている」。
15秒前の僕。
なんと、普通の顔をして歩いている。
10秒前。
なんか、いやらしいことを考えている顔だ。
5秒前。
もうすぐ変身が解けてしまうことを気兼ねしている。
まぁそれだけの妄想なんですが、電車の中とかで風景を眺めているとき、知った道なんかが現れると、ちょっと面白い。
到底覚えていないはずだけど、それでもプロットされた、いくらか前の僕の残像をむりやり想像し、楽しむのだ。
今「生物と無生物のあいだ(福岡伸一)」という本がよく読まれているようでちょうどいいのだが、この妄想と「動的平衡」の概念を組み合わせると、結構面白いのではないかと考えていた。
「動的平衡」の詳細は分からなくて書けないが、その考え方にある「生物の中で永遠に留まっているものなんて、ないよ」というものが、さっきの妄想と合いそうな気がする。
何月か前の体と、今の体の構成物質で同じものは何一つなく、全部、どこかのタイミングでちょこちょこ入れ替えられているのだ。
「過去の残像」を追っていけば、近いうちに「同一の物質でない自分」が見つかるはずだ。
この話にはレアメタルなんかを取り入れても面白いかもしれない。
こんなことを考えてる人はあんましいないかなと考えていたが、近頃、「過去の残像」の妄想とほぼ同じことを書いた漫画を見つけた。
そういうのって、もう、お手上げだ。

まぶたの閉じるとき

何かで一日の「まばたき」をまとめるとどのくらいの時間になるか、といった感じの話があった。
気になっちゃったか、まばたき。
人間、意識しちゃうとうまくいかなくなってしまうのが常で、この人も
「どのくらいの時間、目をつむるのがまばたきだっけ?」
「あれ、いつもは左右同時につむって、緊張したときだけは交互につむっていた気がするぞ」
などのまばたき弊害を持ってしまったはず。
昔、授業中の居眠りをとがめられた男子生徒が「さっき目をつむっていたのは、まばたきの余韻です」と言ってオール5を獲得したという話がなかったわけだが、このようなくだりをいれずとも、だいたいの人においてまばたきをする時間は同じくらいだろう。
だから、「まばたきをまとめる」行為は、「まばたきをする回数」に大きく依存すると考えて間違いない。
まとめた時間にしても、まとめる時間にしても、だ。
「まばたきをする回数」を左右するのは、明らかに「目を攻撃されている回数」だろう。
(漫画のように、驚いたときなどにまばたきを連発する人など、いないだろう)
ということは、「まばたきをまとめる」と、その時間は「目を攻撃されている回数」の多い人が多くなる。
よって、「目を攻撃されている回数」の多い人は、まばたきをしないと誓った日だけは、より朝寝坊することができるはずだ。
そんなことはない。
この話では、単純にまとめるだけでは意味のなくなってしまうものをまとめてしまっている。
何より、「目を多く攻撃されている人」はなるべく早く起きるべきだ。
「まばたき」をまとめる話は、僕らが抱く期待を、少し裏切ってしまう内容になってしまうかもしれない。

過去形修飾

ここのところ、アナフィラキシーな気分だ。
いや、ノスタルジーな気分だ。
全然違う。
ひでり。
最近、すごいひでりなのだ。
ひと昔は、もっとおもろいことを書いていた気がする。
もう少し、友達がいた気がする。
何もないところでなんか、つまずかなかった気がする。
ちょっと前を思い出させる、まぶしい光。
ふと、小学生のとき読んだ、国語の教科書を思い出す。
好きな話があったな。
「夏みかんのにおい、どうこう、云々」とかいうものだ。
数年前、この話をもう一度読みたい、という友人と遊んだ。
「あの、夏みかんの話がもう一度読みたい。」
「どんなんだっけ。」
「においが、どうこう。」
「あぁ、確かに、夏みかんのにおいを嗅ぐ話だった気がする。」
そのときは夏みかんのにおいを嗅ぐ話に興味がなかったので、さりげなく「テレビに映る鳥を取ろうとする猫」の話に移行させた。
今なら、もう一度読みたいと言った彼の気持ちがよく分かる。
なんたって、夏だからね。
しかし、それだけじゃない。
太陽の光と思い出の物語が、僕に追憶を感じさせる。
あー今すごく、蚊に刺されている。
これも一因かも知れない。
今まで、光と物語でそんな気分になったことはなかったはずだ。
蚊なのか、ネタがないのか、老いたのか、全部なのか。
どちらにせよ、過去を思い起こさせるものに過剰に反応してしまうのは、いろいろとざんねんな証拠だ。
そして、過剰な点のみを考慮すれば、冒頭の言い間違いは、一概に間違いとは言えないのだ。