準備中その1

ある駅で「準備中」のシールだけが貼られた無地の看板を見つけた。
僕が合っていると思うのだが、おそらく何も準備していないだろう。
無地の状態が何となくしのびないから、とりあえず準備中ステータスにしたのだ。
飲食店でもよく見られる、この「準備中」。
どうも我々は「特に何もしていません」ということに罪悪感を持つらしく、たとえ何もしていなかったとしても「準備中」としたがる傾向にあるようだ。
「準備中」の札がかけられたドアの向こうで、人気が全くないというそば屋は、まさにそれにあたる。
このことは、タイミングによっては利用客の怒りをかうことにすらなる。
そばが食べたかった人が、札の前で憎らしげに言うのだ。
「準備なんかしてねえじゃんか」
例えばこれが、「準備中の札出し + 店内の椅子が全て店外に出されている」だったとしたら、ああ準備中なんだねと納得もできる。
「準備中の札出し + 店内で店員が整列して立っている」。
これも納得だ。
「準備中の札出し + 段ボールいっぱい」。
「準備中の札出し + 調理道具がぶつかり合う金属音」。
「準備中の札出し + クラウチングスタートの構え」。
どれもこれも、納得博覧会だ。
と、このように受け手側としては「準備中」には準備中たるもう一手が必要と考えていることもあるわけだ。
そこで駅の看板の「準備中」。
「準備中ではないのではないか」。
違和感を感じた僕に対して、本来どんな一手が必要なのだろう。
明日。

死神

ひとりでに開いた(ように見えた)自動ドアの近くでうどんを食べていた僕は、同じくうどんをすすっている先輩に「死神が来ましたよ。このうどん屋の誰かが、死ぬ」と告げた。
彼は、またこいつおかしなことを、という感じで聞き流し、いったんしまった自動ドアがまた開き、子供を先頭にした親子が入ってきた。
死神どうこうなんて、一見なんだそりゃという感じをもたれるかもしれないが、僕としては「自動ドアだけを開けるいたずらのようなもの」のほうがよっぽどだ。
「もっとやりようが、あるでしょう」
ともなると死神云々でも持ち出さない限り、僕がやられてしまうのである。
もちろん自動ドアが勝手に開いたからといって、そんなものが入ってきたとは信じていない。
自動ドアが開いたのでそちらを見ると、何もいない。
しかし傘立てに、さっきまでなかった鎌が立てかけられていた。
これくらいなら信じてもいいが、単にうどんを食いに来たともとれるため、うどん屋は難しい。
自動ドアが開いたときから、ドアに近い人順に死んでいく。
これくらいなら信じてもいいが、その存在、ありようを誰かに伝える事ができなさそうで、生きることは難しい。
そもそも、条件付けにも左右されるが、まず「自動ドアが開いたので死んだ人」というのは考えにくい。
もしいたとしても、それは「自動ドアは開いたが、特に何もなかった人」の数にかき消されてしまうだろう。
それに、例えば「自動ドアは開いたが、特に何もなかった人」の調査しているなかで、実は「自動ドアが開き、尿意をもよおした人」の数がすごく多いことが判明してしまった場合。
尿意は音も立てずやってくるが、センサーには反応する。
そんなことをうどん屋では考えたくなく、僕が死神とあらわしたのはなおさら賢明と言えるわけだ。

バックアタック

ガラスのコップに、急にお湯を入れると割れることがある。
だから先に水を入れてからお湯を入れる。
すると言われるのだ。
「それは死んだ人だから、だめ」と。
小さい頃にそう言われたため、今でもそうすることに何となく罪悪感を感じる。
それにしても「死んだ人だから」というのは、なんだ。
何か、仏壇まわりでの作法なのだろうか。
それともお葬式での決まりなのだろうか。
「さかさみず」というらしいが。
まあよくわからないが「何らかの形で、死者にぬるま湯は必要」ということは確かなのだろう。
それにしても「それは死んだ人だから」というのは、なかなか武力のある言葉だ。
それは特に子供に対してはてきめんで、相応の悪い環境がないかぎりは、子供は死を恐れるものである。
せっかく生まれたのだから、もうちょい生をエンジョイしたい。
それを終わらす死はかんべんね、そういう本能のようなものがあるのかもしれない。
だから、何か分からないが「それは死んだ人だから」という行為にすら、極力避けたいという気持ちがはたらくのだ。
「こないだ亡くなったお隣のおばあちゃん、こんぺいとうが好物でね」
このことを聞いた子供は、こんぺいとうを口にしなくなるだろう。
「そういえば、くしゃみを我慢すると体に悪いと言っていたわね」
このことを聞いた子供は、すこし考える。
おばあちゃんは「くしゃみを我慢すると体に悪い」と思っていたから、我慢していなかったはずだ。
しかし、我慢していなかったのに、亡くなった・・・?。
「くしゃみを我慢すると体に悪い」というおばあちゃんの知恵を信じるか、おばあちゃんの現在状態を信じるか。
子供には難しい問題だ。
「部屋で片付けをしていたら、昔のなつかしいレコードが出てきたらしくて。それを聴こうとプレーヤーを探していたら発作が起きて・・・」
子供はレコードに触れないだろうし、探し物をすることもしないだろう。
しかし探し物をするなんて、無意識のうちにすらやってしまうものだから、それが困ったところ。
何か別のこと、ちょうど日常生活ではしないような、逆さのことをして、それをごまかそうとするかもしれない。
なにか、「ムーたち」を思い出した。

多面体その2

昨日から。
【あらすじ】
「二兎追うものは一兎をも得ず」に、別の意味が見いだせるか。
=====
無理だ。
「二兎追うものは一兎をも得ず」だったんだもの。
まず、追う物がうさぎだってことが決まってしまっている。
これが「キリン」だったら、「2匹同時に追うからだめなんだよ」と「結局キリンなんて1匹もとれなくてよかったんだ」というように考える事もできる。
しかしうさぎだ。
食べる気まんまんであり、1匹も得られないことだけがクローズアップされてしまうのは仕方のないところだ。
そして詳細な内容。
「うさぎを2匹追って、どちらを追うのかを迷って、結果両方逃がしてしまいました」だ。
他の意味が介入する余地が見いだせない。
ただ、何かを付加する事で意味の転換は可能かもしれない。
「二兎追うものは一兎をも得ず、はつらつ」
これで一気にあきらめムードが一新。
これからだという感じになった。
「二兎追うものは一兎をも得ず」
ステンドグラスの光の下で。
場所を特定した事で、かなり様々な意味も付加できた。
「袖すり合うも他生の縁、かな 月しずく」
ここで僕は、すごいやつの存在を知る事になる。
「、かな」だ。
これを付ければ何でも複数の意味を持つようになる気がする。
今までのものに付けてみよう。
「馬の耳に念仏、かな」
「釈迦に説法、かな」
「鬼に金棒、かな」
「猫に小判、かな」
「たなからぼたもち、かな」
「二兎追うものは一兎をも得ず、かな」
付加(負荷)される意味が、どうも無常観だけっぽいのは、仕方のないところかな。

多面体その1

「馬の耳に念仏」ということわざがある。
これは馬などにありがたい念仏を聞かせてあげたところで理解できないよ、ということだったかと思う。
けど、とらえようによっては「馬は念仏のありがたさを充分知っているから、聞かせなくていいよ」という感じでもいけそうだ。
「釈迦に説法」だって、わかりきっているが説法やることに意義ある!という使われ方でもいいと思うのだが。
けっこう、ことわざはとらえかたで深くなる。
「馬の耳に吐息ふきかけて 1987」
今のは関係ないが、「鬼に金棒」は「あまりに定石な、ルーチンなこと」とでも解釈できそう。
「おや、鬼に金棒ですか」
そう理解した死者が地獄に行ったとき、鬼は血相を変えて金棒を手放すかもしれない。
「猫に小判」
猫に小判を与えられるほどの長者。
たまたま猫のとなりに小判があった、そのさま。
猫は人間にとってかけがえのない生き物であるから、いとまを与えるなら小判レベルの餞別を与えること。
「たなからぼたもち」
田中たちにはぼたもちを与えろという意味。
たなにあったぼたもちをとりだす、そのさま。
「たなからぼたもち、ひきだしから大福、テーブルクロスの下からハートの6」という、手品の仕込みのこと。
こんな具合。
一方、他の意味を持たせにくいことわざもある。
「二兎追うものは一兎をも得ず」系のやつだ。
ああそうですね、としか言えないじゃないか。
でも、なんか考えてみる。
タクティクスオウガが終わったら。
次回。

米本来輝

さゆ、とまではいかないような、そこそこ熱いお湯が売られていないのは少し疑問だ。
今「白湯」で調べてみると「白湯ダイエット」なるものもあるらしく、その質素なおいしさも加えて結構売れると思うのだが。
よく僕はお湯を飲む。
なんだか落ち着くし、お菓子で疲れた舌を休ませてあげているようにも感じる。
しかし、ある人にとっては、それはもう精進的な何かだ。
夕ご飯のあと、茶碗にそそいだお湯のなかで白米が2?3粒ただよっているのをみて、それを輝く宝石のように感じる。
そんな何かだ。
ストイックだと、複数の人に言われたら気にもなる。
僕としてはいつもよだれをだらだら流しているつもりなのだが、そうは見えない事もあるのだろう。
口癖は「げへへおんなおんなかね」なのだが、そうは見えない事もあるのだろう。
書き初めでは毎年「スーパー衣食住」と書くのだが、そうは見えない事もあるのだろう。
もういいか。
以前、何かの本で「ある外国の人と一緒に炊きたてのご飯を食べたら、彼らは手をつけなかった。あとで聞いてみたら、ご飯粒をうじと思ったらしい」というのがあった。
この話で重要なのは食文化の違いや、ご飯を初めて見たらそうも感じるだろうということではなく、「ご飯よりもうじのほうが知名度高い」だ。
ご飯とうじで思い出されてくるのは、はちのこだ。
どこかでは「へぼ」とか言われているはず。
すごくおいしいらしいが、ちょっと僕は食べられなさそうだ。
人間も生き物であるから、本来なら食べられる物なら食べてきたはず。
でもどこかで「虫だめ」になってしまったのだろう。
まあどちらにせよ、へぼ玄人なら、お湯のなかでただよっている白米を宝石のように感じる確率が、僕らよりも少し高いだろう。
そうなら、敬意とおしんこをあげる。

発声

神社へと続く土手道を自転車で進んでいく。
その先には、昨日ずいぶんきれいに見えたイチョウの木があるのだ。
河原とこの道の間は広場になっていて、少年野球が行われていたり、犬散歩の人が集まったりしている。
通ったときは少年野球がやっていたが、実は広場が見える前から、野球をやっていることは分かっていた。
ずっと不思議なのだが、なんだか少年野球では、外野の選手が「ウェー」だか「ウォー」だが声をあげるのだ。
それを守っている間、ずっと発しているのだが、あれが分からない。
実は僕も少年野球に入っていた。
そしてその当時でも「声出せ」というコーチの答えとして、確かに「ウェー」とか言っていた。
すごく嫌だった記憶がある。
意味がよくわからないから。
バッターを威圧する意味があるのだろうか。
また「試合中に発生する声(オーライなど)を、大きな声で出せるようにするための練習」?。
ならば「意味がよくわからない」というのは僕に足らないところがあったわけで、今なら「今はわかんないかもしれないけど、声出しておくとあとあといいかもよ」と当時の僕に自ら言うかもしれない。
ただ、意味がわからないというのは未知であることであって、それが子供に与える不信感、恐怖は思いのほか大きいと思う。
誰かが教えてくれていればよかったのに。
「あれは外野たちの共鳴反応により、近くの人の新陳代謝がよくなるのだ」
とにかく、声をなぜ出すのかがわからない。
例えばプロ野球で、外野がウェーと大声を出しているところを見た事がない。
たまたま出していなかったのだろうか。
それとも聴衆の歓声でかき消されてしまったのだろうか。
言わなくても済むのは何歳からなのだろうか。
世界で初めて誕生した少年野球コーチとしては、外野は暇なことが多いから、声でも出させて集中力の途切れないようにさせたかったのかもしれない。
要は、声の内容は問わないのだ。
そのとき、初めての少年たちは、本能の赴くままにホーミー(全然違うけど)してしまったのだろうか。
それが今日では「ウェー」と発する事、のようにルールづけられてしまったのだろうか。
そうだとしても、原始の少年たちに罪はない。
我々がウェーでよしとして引き継いでしまっているのが悪いのだ。
ベンチではお母さんたちだろうか。
なぜか何組かのグループに分かれて雑談を交わしている。
まさかお母さんが「声出せと言われたらウェーですよ」とでも教えているのだろうか。
そして反社会的な持論を持つお母さんなんかは「声出せと言われたら、高音でナーと言いなさい」とかみんなと違うようになる事を教えているのだろうか。
そしてそのことがお父さんにばれて、子供が「ナーとウェーでけんかをしてほしくありません」と書いた自分の短冊を、夕方の河原にて、バットで打ちのめしたりするのだろうか。
家族というのは、僕の知らないところですごいことになってんのな!!。
な!!。

考える。

「考える」だか「考えろ」だか。
そんなことが書かれた帯が付いている文庫本があった。
正直なところ、本を読むのは何も考えたくないから読むこともあり、なかなか難しいところだ。
しかしもっと複雑なのは、この帯が付いていないものだ。
たまたまその帯のついた本が「これ売り出してます」みたいなコーナーにあったのだが、そのなかでただひとつ、なぜか向田邦子の文庫本だけが、同等に陳列されているにもかかわらず「考えなくていい」ことになっていた。
確かに「考える」という帯がついたものは重厚な面持ちだ。
そんななかでその帯が付けられていない本は、その分余計に考えなくてよさそうに見えるのである。
その本が一番売れている。
この本屋は、わかってる客が多い。

入力

もう、さっきから「由美かおるの入浴シーン」というのを「由美かおるの入力シーン」と打ち間違えている。
そもそも「由美かおるの入浴シーン」というのは、あまりに(なにかの)定石すぎて、使うのはためらいたくなる。
しかしまあいいかということで、先日「由美かおるの入浴シーン」というのを使うことにしたのである。
そんななかでの「由美かおるの入力シーン」。
ちょっと色気が程度を超えている感じもする「由美かおるの入力シーン」。
また、「由美かおるの入、力シーン」とすると、なんかもうすごい。
それにしても今日は由美かおるが多い。
3人の由美かおるが入浴し、3人の由美かおるが事務員の役でパソコンを打っている。
そして1人のロボ由美かおるのスイッチが、入れられた。
当方、健全な方を選びました。

アイキャッチの余韻

なんてことで前日までアイキャッチどうこう、を書いていましたが、ずいぶんなものを忘れていた。
水戸黄門だ。
最近やっている水戸黄門を見てみた。
僕の見たタイミングでのアイキャッチは「置かれた印籠を、斜めから見た」というものだった。
・・・いいんじゃないか。
すごくいい。
昔は確か御紋のアップだった気がする。
それが、印籠を置いて斜めから見ちゃうんだもの。
夢広がるわ。
必然的にふたの開いた状態を斜めから見るアイキャッチもあるだろうし、上空からの映像で、脅威のズームで印籠が!!、というアイキャッチもいい。
びちゃびちゃになっている印籠も味があるし、電子顕微鏡で見た印籠の表層やX線による非破壊検査の結果を簡潔に示すのもいいだろう。
黒光りした部分に指紋がつきまくっていたりしてたら臨場感がわくだろうし、全然違うものとのコラボ、例えば印籠と計算機なんてのも、なんだ水戸の隠居はインターナショナルだなと感慨深くなる。
もちろんここまでいかなくても、印籠をさまざまな角度から見せるアイキャッチというだけでも、アイキャッチが、さらには水戸黄門自体がもっと面白くなるのではないだろうか。
大昔の少年向けスパイ道具図解のように、いろいろな機能を図示してもいい。
おそらく嘘なのだろうし、サイズ上どうしても十徳ナイフ臭がするかもしれない。
しかし夢はある。
図示するとなると、助さんだか格さんだかが、どこに印籠を隠し持っているかどうかを示してもいい。
助さんの全身像と、その胸元に向けられたやじるし。
番組終盤が楽しみになるじゃないか。
印籠をごみに出すとき、どう分別するかの図解もいい。
「印籠についていたふさふさは燃えるごみだったから、これも燃えるごみだ」
知識になる。
もちろん印籠でないものもクローズアップしてみたい。
かざぐるまは既にあるかもしれない。
こう、くるくる回る感じで。
しかしあまりにかざぐるまがたくさんあると、なんか恐山なので、数は気をつけたいところ。
八兵衛はだんごか?。
両手にだんごを手にした八兵衛はハイパーモードだろうし。
そこで、ここではオールスター総出演という事で印籠とかざぐるま、そしてだんごをそろえてみよう。
なんか、広告だ。