簡単に言うと現在20120617で、僕はディズニーシー経験者になっている。
時は5月27日。
初めてディズニーシーに行った。
そのときのことを何日かにかけて書こうと思う。
知人にディズニー好きがいて、よく音楽を聞いている。
あるいは映画を見ている。
そしてディズニーランド、ディズニーシーのことを語る。
行ったら面白いだろうな。
僕はそう思いながら、その人の話を聞いていた。
そりゃあ行ったら面白いだろう。
しかし近所にはないし、お金もかかりそう。
スタッフの人がうっとうしそう。
ならぶの?ならぶの?。
という感じだった。
しかし機会があり、行ってきたのである。
結果的に、その日は5割泣いていた。
感極まっての号泣とかではないが、いろんな意味で泣いていた。
5月27日は晴天だった。
カテゴリー: 回想
KILL、殺すという意味じゃ。
また妖怪の話で恐縮なのだが、僕が気に入っている言葉のひとつは、ゲゲゲの鬼太郎の目玉の親父が言ったものだ。
「KILL(キル) 殺すという意味じゃ」
ツイッターにもこの言葉に注目した人がいるらしく、いやあ奇遇ですなの心境。
ちょうど資料が手元にあったのだが、これは「家獣」という家の形をした妖怪の話のこと。
※家獣とくれば悪魔くんだが、鬼太郎のこの話では敵役だった。
鬼太郎に敵意むき出しで迫る家獣の煙突から、何やら煙が出てきる。
そして何やら形を成していく。
どうやら意思の表現を言葉ではなく、煙の形で表現するタイプの文化らしいのだ、家獣は。
そしておぼろげに「そう」見えた時、目玉の親父が説明してくれたのが、上記のセンテンス。
「KILL(キル) 殺すという意味じゃ」
なかなかいい。
相手に隙があるならば、使っていきたい。
しかし、なぜ魅かれるのだろうか。
それはおそらく、もう耳にする事はできない、失われた言葉だからだろう。
そこらの年齢制限のない漫画、ゲームなどに複数触れれば、もうキルなんて言葉はいくらでも出てくる。
残念ながら、私たちは生まれてすぐに「KILLという言葉を知らないこと、が失われている」と言えるのである。
それでも、家獣が襲ってくるときに親父はいつも教えてくれる。
キルは殺すという意味である事を。
そのたびに、僕はこの言葉を知らなかった頃のことを思い出せない事に対して、心締め付けられるような気分になるのだ。
願いは疎水性。
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2012年カレンダーの回想です。
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かつて「ポマード、ポマード、ポマード!!」は、口裂け女が怖がる呪文として小学生のあいだで広まった。
故にそれは、誰もが一度も口にしない不可聴の言葉でもあった。
しかし数年前、この呪文が幸せを呼ぶおまじないとしてコミックボンボンで紹介されてから、様々な場面でこの言葉を聞くようになる。
こんな嘘をつかずとも、この言葉は面白いので使っていきたいところだ。
「12月13日 うわーん!!。夏休みの宿題が全然終わんないよー!!。ポマード、ポマード、ポマード!!。」
たぶん、口裂け女が来て指摘してくれる。
「それの使い方、そうじゃないで」
しかし面白い。
もうケータイの電池切れそうだ!!。
ポマード、ポマード、ポマード!!。
お昼ごはんのお金、少し足りない!!。
ポマード、ポマード、ポマード!!。
動悸が治まらないのじゃ!!。
ポマード、ポマード、ポマード!!。
困ったときに口にするわりには、それ自体になんら期待していない感じがいい。
ちなみに今の「治まらないのじゃ」の「じゃ」は、どうにかして老人色を出したかったがために使用した。
どうかご容赦願いたい。
生BL巻き
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2012年カレンダーの回想です。
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11月12日。
「お前はまた生春巻きで欲情しているのか」
「えっ、そんなことないよ」
「わかるんだよ、お前は」
僕は欲情すると、油絵に腕を振るう癖がある。
トモはアトリエの僕を見て、そう言ったのだ。
「ちょっと待ってよ。なんで生春巻きなのさ」
「あ?」
「ほら、ここには生春巻き以外にもあるじゃない」
・生春巻き
・赤福
・やきそば
・車のキー
・コンパス
「どれで欲情したか、わからないじゃないか」
「お前、こんなかでったら、生春巻きがダントツじゃないか」
「そ、そうなの?」
「そりゃあそうだ」
「なんか分からないけど、自分のこと誉められたみたいでうれしい!!」
あの、生春巻きの薄皮から見える淡いみどり色。
ときどきえびの赤。
あれがどうしても油絵で表現できないんだ。
「あ、お前そんな顔して。また赤福のことで困ってんだろ?」
え、何それ。
生春巻きで欲情する事は知ってるけど、赤福のことは、僕自身分からないことだ。
「何、赤福って。ぜんぜん困ってないよ」
「分かるんだって、お前は」
「赤福の余ったあんこを使って、油絵を書きたいんだろ?」
「いいよちょうど赤福もあるし」
そうだったのか。
僕は油絵に腕を振るうと、赤福に赤褐色を求める癖がある。
おまえこわい。
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2012年カレンダーの回想です。
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10月9日 あなたの忘年会の出し物が、勝手に「カステラこわい」に決まりました。
「カステラこわい」のなかで、一言でも「紅茶が怖い」って言ったら、なぐるぞ。
先輩はこう言うと、ごつごつした握りこぶしを僕の顔に近づけてきました。
僕が所属するゼミの忘年会では、みんな出し物をする決まりがあります。
ほとんどは自己申告で出し物が決まるのですが、その会議に出られなかった者は勝手に決められてしまうのです。
僕は運悪く風邪をひいていて、決められてしまったのが「カステラこわい」でした。
僕はさっきの脅迫にすっかり肝を冷やしてしまい、もうこれはオリジナルストーリー。
主人公が最終的にカステラの角に頭をぶつけて死んでしまう話にしようと考えました。
しかしそれだけでは話として面白くありません。
話の途中、実際にカステラを頭にぶつけてみようと思いつきました。
デパートで高いカステラを買ってきて、さっそく角を頭にあててみました。
カステラは柔らかくてやさしく、僕の頭を気遣ってかのようにほろりと崩れていきます。
こんなやさしいカステラの角で死んでしまう。
ある意味こわいと言えなくはないでしょうか。
忘年会が来るまで、僕は何回もカステラを頭にぶつける練習をしました。
カステラは粉となり、僕はふけがたくさんあるように見えました。
また、糖分は髪を固まらせ、ドレッドヘアのようになりました。
そして周りの人は僕を避け、ひそひそと内緒話をするようになったのです。
僕はそれが嫌でしたが、忘年会までの辛抱です。
ついに忘年会の日がやってきました。
僕が意気揚々と教室に入ると、いきなり3人の生徒に捕まりました。
僕は暴れようにも四肢を押さえつけられて動けません。
すると、ある一人がよくわからない丸い機材を持ってきました。
そしてそれに頭を突っ込まされ、同時にスイッチが入りました。
軽いエンジン音を出しながら、風が出ているようないないような。
すると押さえつけていた一人が僕の頭をかきむしり始めました。
すると、僕の周りにモヤのようなものが発生してきました。
どうやらわたがしのようです。
どうも高いカステラを頭に当て続けていたせいか、ざらめが僕の頭の中に大量に混入していたようです。
それを知った同級生が、それ目当てにわたがし製造機を用意していたのでしょう。
僕の頭の周りのモヤは、どんどんその濃さを強めていきます。
いや、違います。
何か黒いものも混じっています。
どうやら僕の髪の毛のようです。
髪の毛がわたがしに絡めとられ、いっしょくたになっていきます。
僕は現状をほとんど理解できないまま、こう何度も叫んでいたと言います。
グレーのわたがしこわい、と。
俺の屍を飛び越えてゆけ。
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2012年カレンダーの回想です。
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圧倒的な結果を目の当たりにしても、人はまだあきらめない、あるいは何か違う事で代替しようとする。
例えば、育てていた花の上に、飼い犬がおすわりしてしまったとき。
押し花は避けられない状況だとしても、あなたは犬をどかすのではないか。
「何おすわりしてんねん!!」
あるいは楽しみにしていたシュークリーム。
子供に使って食べられてしまった。
あなたは子供をこう叱るのではないか。
「何舌なめずりしてんねん!!」
例がよかったかどうかは分からないが、9月で気に入っているのは23日。
「跳び箱が自爆スイッチなのは仕方がない。せめて飛び越せる奴で押してくれ。」
「何自爆スイッチの上でどっこいしょってなってんねん!!」
飛び越せない奴の場合。
そう叫びたくなる事必死だ。
それはガス漏れした部屋でタバコを吸おうとするような、お葬式でマナーモードを解除しておくような、電車内でたくあんを背負うような。
無頓着もいいところの雰囲気。
叫びたくもなる。
しかしそもそも叫べるかは、また別の問題。
爆発しちゃうから。
ただ、とにかく無頓着すぎるのだ。
それならばまだ、飛び越せる奴の方がいいというのも分かる。
ところがやはり自爆するのは変わらない。
だから、飛び越すだの飛び越さないだのは、ただの一種のこだわり程度のもの、とも言えなくない。
飛び越せたかどうかも分からないわけだから。
「跳び箱は自爆スイッチだが、その先のマットはその爆発動作を解除する」
これならより、飛び越せる奴で押してくれと言えるのだが。
夢なら崖を、見下ろすことも。
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2012年カレンダーの回想です。
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「思い出深い夢」というものはありませんでしょうか。
僕にはいくつかあって、多面体のなかにいたり、夕暮れ時の田んぼを歩いたり、階段のすごく長いデパートにいたり、ヘビに追いかけられたり。
いろいろあります。
カレンダー8月のなかで「これは夢で見たいなあ」というものを挙げるとすれば、27日。
「40代くらいの男性が駅前でひっくり返って「ライ麦畑でつかまえてー!!」と、だだをこねています。」になるでしょうか。
当たり前のごとく、あくまで「夢でみたい」という感じです。
実際は見たくありません。
彼がだだをこねている理由はいくつか考えられます。
口にしている作品が多くの若者に影響を与えたものですから。
しかしここは、それを見ている人に沸々とわき起こるある感情に着目したいところです。
すなわち「なら、ここじゃないよ」です。
だだをこねている男性。
「ライ麦畑でつかまえてー!!。ライ麦ー!!」
それを見ていた駅員さん、周りの人はこう考えざるを得ません。
「ここじゃないところに行くべきなのに・・・」
「ライ麦畑へ行くべきなのに・・・」
しかし男性がだだをこねるのも無理ないかもしれません。
それは「ライ麦畑でつかまえてもらう」ことが難しいからです。
まず、日本に「ライ麦畑」はあるのでしょうか。
僕はよくわかりません。
そもそも「ライ麦」とは何なのでしょうか。
僕はよくわかりません。
そしてそのよくわからない「ライ麦畑」には、人はいるのでしょうか。
男性の手を強くにぎって、つかまえてくれる人が。
などという触れ方はもう、だいぶ恥ずかしい「ライ麦畑でつかまえて」。
夢の中ということなら、せめて男性の近くで転びそうになることもできそうなものなのですが。
そして彼女は、湯を沸かし始めた。
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2012年カレンダーの回想です。
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7月27日は「気になる人に、麦茶と称してめんつゆを飲ませる事で恋愛感情を形成しようとしました。」ということで、いわゆる吊り橋理論。
以前も触れた事がある。
それにしても、今思うと季節的にも「めんつゆ」がいい具合で、我ながら何だかちゃんと考えていたんじゃないかと感心する。
しかし、どうだろうという点もある。
それはまさに「吊り橋理論」のところで、もし「麦茶とめんつゆのくだり」にそれを求めるなら、飲む前に既にそれが麦茶ではなくめんつゆだということを知られていなくてはならないのではないかという疑問だ。
確実にめんつゆだとわかっているのに、それを麦茶として飲まなくてはならない。
どきどき。
そんな相手を見て、どきどき。
これなら何だかそういうことにもなりますか、と思う。
しかし麦茶と思い込んでいてのめんつゆだと、「どきどき」よりも早くに「ぶわっは」が来てしまうだろう。
片方、すなわちいたずらを主催した者は「どきどき」だろうが、被害者は何せ吐くのである。
こうなると「ぶわっは」は生理的認知要因としてはどうなのだろうかという点が不明だ。
正直心理学的なものはない気もする。
緊張でも、興奮でもなさそう。
しかし人間というものは、何がキーとなって感情が芽生えるか、わからないところもあるだろう。
だから飲ませたまえ、めんつゆを。
いや、このさい「めんつゆ」でも「麦茶」でもいい。
自分もそれが何か、わからないようにして、二人で飲んでしまえ。
そうすれば何かの共有にはなるだろう。
「ぶわっは!!。好き!!」
「なら、まずは君の艶めいたくちびるから流れ出る茶色の液体の名前を教えておくれ。」
こうなるこうなる!!。
言い勝ち。
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2012年カレンダーの回想です。
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「ゆとり」という言葉はいかに便利なものであるかを、「ゆとり教育」は示した。
すなわち、友人同士での会話で、相手への返答として「それってゆとりじゃね?」と言っておけば、あとは相手が自らの経験則から「ゆとり」というものを適切にカテゴリ分け。
たいがいおもろいこと言ったことになる。
今年流行の「ステマ」も既にこの部類に入っており、完全に同様の使い方ができるだろう。
何となく話題がなくなったときにでも試してみるといい。
「ちょっとトイレ行ってくるから待っといて」
「それってゆとりじゃね?」
→
「いいじゃんよ待ってくれてもよー」
→
なれあいの形成
「数学の池田って、いっつも靴のかかと踏んでんだよ」
「それってゆとりじゃね?」
→
「あ、そうか。そうかもね」
→
友人関係の向上
「帰り、マクド寄ってこうぜ」
「それってゆとりじゃね?」
→
「そう?。じゃあ帰るか」
→
夕ご飯をちゃんと食べる
おもろいばかりでなく、有用なことが発生するようだ、「ゆとり」使用。
それにしても「斜体」はいい。
そこに注目させることができるのがいい。
「何をお前が斜体になることがあるのか」
そんな気分にさせてくれる。
この話でポイントとなりそうなのは「相手が行う適切なカテゴリ分け」だろう。
すなわち、こちらが発した言葉のちゃんと意図を組んで読み取ってくれるか、だ。
例えば上記の「ゆとり」。
友人同士の会話なら問題ない。
厳格な教育者老人同士の話なら別かもしれないが、普通は「話題を好転させるための、汎用性の高いキーワード」として汲んでくれる。
したがって、どう間違っても「ゆとり世代への批判」にはなりえない。
言葉が持つ抽象的なイメージを使っているだけで、そこからはそれに実体を与える事を相手に期待している。
そしてどんな実体を相手が作るのか、信用しているのである。
僕はこの、webシステムというかクラウド的というか。
「とりあえず投げたから、あとはそっちでいい具合にしておいて」というのが、大好きだ。
以前書いた「かすみうまっ」。
これは「仙人は霞を食べている」という、ちょっと仙人をばかにしている逸話?を元にしているわけだが、このことを会話の相手が知っていようが知っていまいが、それはいい。
正直、生きていく上で致命的に知らなくていい。
仙人を目指す人だって「結果的に食ってました」と気づくわけだから、結局は知らなくていい。
大隠は朝市に隠るという言葉もあるから、結局食わないという方向性の仙人もあり得る。
ただ、期待しているのだ。
「かすみうまっ」が相手のカテゴリ分けを通り抜け、全く新しい「かすみうまっ」になって帰ってくることを。
「かすみうまっ」
「あそこ、なんかみんな並んでる!!」
「かすみうまっ」
「そう言うよね。でも、6:4でパシフィックじゃない?」
「かすみうまっ」
「えっ、カマドウマ?」
こういう回答って、サイコーだ。
そしてもし「かすみうまっ」で、相手が恐ろしく卑劣悪辣なカテゴリにそれを区分してしまった場合、その理由を聞いて納得してから、間髪を入れずに謝る用意がある。
6月17日。
ゆとり教育が、敗者復活の場を奪いました。
一方で我々は「ゆとり」という、友人間で汎用性の高い言葉を得ました。
傾斜1度の覚悟
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2012年カレンダーの回想です。
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5月14日は「爆破スイッチが平地から、なだらかに設置されています。」となっている。
世の中にはバリアフリーにしてはいけないものもあるという、良い例である。
と捉える事もできるが、これを思いついたときのイメージは「緩慢な崩壊」だった。
これは以前から、ちょこちょこ触れてはいるのだ。
いつ触れたのかは思い出せないけど。
でも思い出せなくても分かる。
僕らは直接的で目の前にある崩壊には抵抗があるし、打ち勝とうと努力できる。
しかし、鍾乳石が少しずつできていくような、岩が少しずつ風化して砂になるような、雨水が岩を穿つような、かわいい店員さんがレジに来るタイミングを計ろうと少しずつラーメンをすするような。
生傷がしみるので少しずつ風呂に入るような、シロアリが大きな蟻塚を作るような、頭髪に少しずつ白髪がまざるような。
懐石料理に金粉を少しのせるような、歯の再石灰化のような、ミルフィーユのような地層ができていくような。
3歩あるいて2歩さがるような、アマラとカマラが言葉を覚えるような、ディスガイアのレベル上げのような。
三十三間堂を紙やすりで仕立てていくような、吐息でトンネルを掘って脱獄するような、エアーズロックを削り節にするような。
オレンジジュースがオレンジとオレンジじゃない部分に分離する瞬間を見守るような、世界中の書物を集めて復元して図書館を作るような、サグラダファミリアが一般住宅として流行りだすような。
自動小銃の分解する手順を覚えるような、百人一首決定戦で和歌を読む人が次の歌を読むまでのあいだのような、エクセルがフリーズして、いるようないないような。
今日人類が初めて木星に着いたような、賽銭をためて宇宙旅行をもくろむような、いつのまにか少女は。
そしていまのような。
あれ、なんでしたっけ。
そうです。
アマラとカマラです。
正直、彼らのことを思い出すなんて思いもよりませんでした。
もう、全然忘れていました。
ちなみにアマラとカマラは、ドリランドの隠しキャラです。
すいませんうそです。
ドリランドやったことありません。
ドリランドはビックリマンチョコのシールみたいな絵だなあと思いました。
ビックリマンは集めていた事があります。
集めていたやつはもうどこかに行ってしまいました。
もう今回の話をどう収束すればいいのかわかりません。
もう寝たいのです。
外は雪が降っています。
僕らは直接的で目の前にある崩壊には抵抗があるけど、打ち勝とうと努力できないときもあるのかもしれません。