「今日、えもっちの家に、遊びに行くべ?。」
そう聞かれても、別におかしくなかった。
小学生のとき、綿に消毒液が滲みこんでいくように広がっていった「べ」語尾。
どこが発生源なんだ。
それはわからないが、由来は時代劇か。
「おらさ、お殿様に会いに行くだ。それしか皆を静めることはできないべ。」
「んだ。んだ。」
こう考えると、小学生のときの僕は、気が利いていない。
「んだ」ではなく、「行くよ」と答えたから。
「べ」の効用について、考える。
①「今日、えもっちの家に、遊びに行く?。」
②「今日、えもっちの家に、遊びに行くべ?。」
一目瞭然。
伊達政宗もそう言ってる。
①は、「うーん、今日はいいや」という余地が残されている。
②は、「うーん、今日はいいや」とでも言おうものなら、四肢を押さえつけられた上に濡れた和紙を口に張られる。
「べ」は、その田舎的な雰囲気とは裏腹に、会話の相手との間に強弱の関係を生む。
でも、これはどうだ。
③「今日、畑の様子、見に行くべ?。」
これだと、なぜかはわからないが「うーん、今日はいいや」でもいい気がする。
「いんや、今日は行がね。」と。
そうなると、次は「えもっちの家」と「畑の様子」の関係が気になるところ。
田舎具合か?。
そうならば、考えようによっては「べ、を使うことにより、相手の返答を意のままに操ることができる」かもしれない。
相手にYESを言わせたい場合
「明日、一緒に遊園地、行くべ?。」
誘うことは誘うが、相手に任せる場合
「明日、一緒に遊園地で、チュロス食うべ?。」
それぞれの期待する回答は以下。
「うん、いいよ。」
「え?、チュロス??。」
チュロス、当て馬気味に使って、申し訳ない。
今回は、いまいちだべ
評価:★★★★★
カテゴリー: 僕と評価
ネ暗トピア
ネ暗トピア
著 いがらし みきお
概要
20年くらい前の4コマ漫画。
全7巻。
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いわゆる不条理モノだが、そのオチは普遍的なものから、絶妙にズレたものと、かなり多様。
この漫画では笑うというよりも、感心させられる読者が多いに違いない。
やたら昔の作品なので、古くなった内容があるのは当然としても「感心させられる笑い」があるというのは、今でも貴重。
「これ、20年前に考えてたの?」と感嘆せずにはいられない。
今の漫画、お笑いでも「あ、これ、ネ暗トピアっぽいかも」と思うことがあるくらいから、驚き。
ブラックユーモアの代名詞として使っても、遜色はないのだ。
ただ、社会通念上、黒く塗りつぶさなくてはならない内容も少々。
本作品が復刻されるとしたら、おそらく全1巻に収まる、とは言いすぎか。
と、僕の評価対象は「本作における粘液」について。
本作品、おもしろいという人は多いけど、その原因のひとつなのかそうでないのか、登場人物の多くが粘液を出している、もしくは出す。
不条理漫画であり、しかもアングラな内容が多いとなると、出るのもしょうがないか。
その多くは「よだれ」。
よかった、よだれで。
このよだれ、たいがい口から2、3筋、流れる。
また、放射状にほとばしるパターンもあり、口が海洋生物みたくなっている描写も見られる。
もうひとつ粘液について挙げるとしたら、鼻水だ。
よかった、鼻水で。
この作品における鼻水は、上記の海洋生物方式、両方の鼻孔から垂れるダブルアクション方式、の2つで表現されることが多い。
とにかく、こんなに何かを垂らしている漫画は、あまりない。
端的にこの漫画のことを言えとなると「にやにやしながら読んだあと、手を洗いたくなる漫画」となるか。
手を洗いたくなるのは、本書を中古で手に入れたという理由だけではないのだ。
こういう漫画、最近見ないが、見ても困る
評価:★★★★★
注射器
例えばパソコンが動かなくなったとき。
何か行動して対応しようとするとき、それは大きく分けて「何かを入れる」か「何かを取り出す」しかない。
ウイルス対策ソフトを「入れる」のか。
分解して、原因と思われる部品を「取り出す」のか。
再インストールするのか。
フリーズしちゃうファイルを取り除くのか。
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注射器の最初の用途が何であったか。
気になるところだ。
血管に何かを注入するために生まれたのか。
血液を採取するために生まれたのか。
どちらの用途を目指して生み出されたにしても、もう一方の用途もほぼ同時に気付かれ、活用されたに違いない。
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先生「はい、ジェシカちゃん。痛くないですよ?。お薬を入れるだけだからね、・・・あ。」
看護師「先生、どうかしましたか?」
先生「おい、見ろよ。注射器って、ほら。吸えたりもできるぞ・・・。」
看護師「あ、血。」
先生「そしてほら、また入れられる。」
看護師「まぁ・・・。ほらジェシカちゃん、出し入れ自由よ。出し入れ。」
**********
・・・
注射中に気付かれたのではないと、願わずにはいられない。
出し入れ自由
評価:★★★★★
深夜特急〈2〉
深夜特急〈2〉マレー半島・シンガポール (新潮文庫)
著 沢木 耕太郎
概要
ベトナムやマレーシアを著者が訪れ、うろうろする。
旅先の人に会ったり、会わなかったり、バスに乗ったり。
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地に足の着いた旅行記を目指した、という感触。
そして読み物としても成功している。
風化してしまっている内容もあるらしいが、水を飲むようにするする読める。
ところどころの感傷的な描写は、読み手がどれほど「家⇔学校、勤務先」以外の道を経験しているかによって、印象が変わるか。
と、僕の評価対象は文庫版で6巻まであるうちの、2巻になる。
本書には人とのふれあいだけでなく、他国ならではのスリリングな場面も多く記されている。
それが読むスピードを高めるわけだが、一番スリリングな場面は、実はあとがきっぽい場所にある「対談」。
著者の沢木耕太郎氏と、不器用でおなじみの高倉健氏との対談にある。
この中で、高倉氏は「自分の死」について、すこし触れている。
「いまだったら、アクアラングで潜ったままぜんぜん出てこないというのがいいですね。」
「なんだかカリブ海に潜りにいったまんま上がってこないよ、というのが一番いいですね。」
潜ったまま、浮いてこない高倉氏。
・・・お、おもろい!!。
本書の何ページを読めばいいかを問われたら、間違いなくここを挙げる。
高倉健がシュノーケルをくわえる。
評価:★★★★★
からぶき
狭義として、乾いたぞうきんで床を拭くこと。
学校での掃除の時間、たいていは濡れたぞうきんで床を拭いていた。
生徒が横に並んで、いっせいに。
濡れたぞうきんで床を拭くと、その表面はほのかに湿り、うわばきの底に心地よい抵抗が生まれる。
その上で足を止めるとき、「きゅっ」といった具合にぴたりと止まる。
このとき、床の上のほこりは完全に取り払われ、掃除がうまくいったことを実感していた。
しかし、掃除は時として「からぶき」で行われる。
不満だった。
からぶきなんかで、ほこりが取れるものか。
床の上の汚れは、みずぶきなら水分が汚れを溶かしだし、拭き取れるだろうが、からぶきだと、単に汚れを広範囲に広げるだけなのではないか。
この不満は、からぶきもみずぶきもしなくなったせいか、ずっと変化することなく続いていた。
だが最近、からぶきもいいのではないかと思うようになった。
からぶきのよい点は、拭いたあと、からっとしていること。
拭いたあとに、拭く対象となった汚れが全くなくなったような印象を与える点にある。
当たり前だが、それがよいことと思えるようになったのは、つい最近。
逆をいうと、みずぶきで拭いたあとの湿り気が、ちょっとだめなシーンもあることに気づいた。
昔から、からぶきとみずぶきは、ちゃんとすみわけできていたのだ。
しょうゆをからぶきすれば、そこにはもうしょうゆはない。
評価:★★★★★
僕と評価カテゴリについて
別ブログとして「僕と評価」というのをやっていましたが、こちらにまとめてしまおうかと。
書く内容にはそれほど困らない程度のゆるさだったのですが、思ったよりも自分に引き出しがないこと、よくパスワードを忘れて管理画面にログインできないことがあり
さきほどパスワードをしたためたメモを発見し、まとめるに至りました。
評価と銘うっておりますが、まあ適当です。
ただ、たいがいのものに「個人的におもろい思うこと」を見つけることができる長所もしくは短所があるため、基本高評価となりますため、その点ご了承ください。
また、正直なところ当方、「僕と評価」と当ブログ内容をほとんど覚えておりませんため、なんかどこかがかぶっていたらごめんなさい。
以上。
追記
ここんとこの更新停滞が解消されちゃうな。。。