毒りんごについて

なんとなく気になったのが「なぜ毒ケーキではなく、毒りんごなのか」であって、それは白雪姫の話。
何か毒が仕込みにくそうじゃないだろうか、りんごは。
表皮に毒を付けるのは、白雪姫が「りんご丸かじり派」であることをちゃんと知っていなくてはできないことだ。
一方、中に仕込むのだとしたら切って皿に盛りつけるパターンもあるから、少なくとも色が付いていてはまずい。
もちろん、「いただいもので何ですが、ご一緒にどうですか」も考えられるから、その点を含めてもりんごは良くない。
ケーキなら、臭いや色もごまかせそうだし、いいんじゃないだろうか。
と、ここで気付いた。
悪い魔法使いの悪さっぷりを。
要は、魔法使いは毒を口にして息絶えるところを目の当たりにしたかったのではないだろうかということだ。
りんごなら「目の前で食べる」可能性が、少なくともケーキよりはある。
姫が「ケーキ丸かじり派」でないことは魔法で判明したのだろう。
さらに「りんご丸かじり派」であることも把握できれば、あとはりんごを渡して、ちゃんと死亡するところを見届ければね、というかなり悪い企みがあることに気付く。
この考えが正解であるなら、確かにケーキよりもりんごのほうがいい。
だが、よりいいものは「おはぎ」だろう。
りんごはずっと手に持っていられるが、おはぎはそのべとべとさが気になって、「ちょっと先食べていい?」という感じになりやすそうだ。
そして、この流れの終着点はおそらく「ソフトクリーム」だろう。
毒ソフトを渡した後、少しだけ世間話。
向井理のかっこよさの話でもすればいいのである。
そうすればたちどころに相手の口の中に毒が入るであろう。
まあ、当時としてはりんごが適切なのだろうが。
となると気になるのが、「姫はりんごをもらってからどこで食べたか」である。
もらってすぐ食ったのか、小人達が帰ってくる前に少しだけ口にしたのか。
こないだのロバの耳の件もあったが、童話は何か、細かいところがもう忘れてしまっていていけない。
そもそも細かすぎるのかもしれない。

ジャカジャン

できた人間ではないのだが、やはり「感動的なバックグラウンド後でも偽物をぶっこんでくる「なんでも鑑定団」はつらい気持ちになる。
「困っていた人を助けたら、そのお礼にもらいました。」
これなら、困ってるんだからそんなに高価な物を渡せるはずもないと考える事もできる。
しかしあるのが「依頼人が人良さそうで、どうもだまされたっぽい」鑑定のくだり。
もちろん鑑定で嘘をつく訳にも行かないだろうが、他人ですら「本物であってくれ」「高値で売れたら夫婦で箱根に行ってくれ」という気持ちになるときに限って印刷物だったりするのである。
スタッフもつらいだろう。
あの番組がどのタイミングで依頼人に結果を伝えるものなのかわからないが、誰が伝えるにしてもつらい。
3000円である事を伝えねばならない。
テレ東全員つらい。
もし現代に宮沢賢治が生きていたら、この番組を見る度にあまりにかわいそう過ぎて、3000円の依頼者に何か物を送ってしまうのではないだろうか。
僕の予想だと「石坂浩二のカレンダーに宮沢賢治のサイン」あるいは「川で拾った石」である。
したがってその世界では「宮沢賢治のサインが入った石坂浩二のカレンダー」は数が多く、もちろん宮沢賢治からとは言え、川の石も数が多く、それぞれ希少価値はあまりなさそうなので、今挙げた人のほとんどは、やっぱりつらい。

茶沼

ペットボトルのお茶をまだ残しているときに、ふたを落としてしまった。
幸いな事に、そこは床がびっちゃびちゃでなく、毒の沼でもなかったため、そんなに汚れてしまったとも思えない。
しかしこの時、気になるのが、「あの人はふたを使用するのだろうか」と興味深げな周りの目。
もしかしたら、そんな目はないかも知れない。
しかし一旦そう考えたら、試されている気がして仕方がない。
おそらく正解は残った茶を飲み干すという「残茶の消化」であろうが、その量によってはなかなか難しい。
しかも、「あの人、ふたを使用するかどうか試されてると思って、慌てて茶を飲んだわ。自意識過剰」と思われるかもと考えてしまい、結局すっきりしない。
もちろんふたを使用すると、落としたふたを使用したことを好奇的に思われていると、滅入る。
もう、ペットボトルの茶でふたを洗いたくなるが、これはこれでかなりイレギュラーな行動だし、床がびっちゃびちゃになるし、そもそも水道水で洗えよ、となる。
なんでふたを落としただけでこんなに悩まなければならないのか。
こんなことなら、茶の沼で飲んでいればよかった。
となると、そもそもペットボトルのお茶なんか買わないわけでして。

ポンチョ

日本人にとってはどうも抜けた感じだ、ポンチョという言葉は。
しかし、なかなか便利なところもあって、最近よく着ている。
まず、袖に相当する部分がなく手を外に出しにくいため、日常生活の多くの動きを制限される。
少なくとも鍛錬に時間を要する。
この点は、便利ではない。
そしてあまり着ている人を見ない。
なんかだらしなく見える。
これも便利な点とは離れているか。
あれ、あんましないな便利な点。
僕が便利だと思う唯一無二のことは、「手の動作がばれない」である。
これはポンチョがマントのような構造だから、例えばポンチョの中で上着のボタンを開けようと、あやとりしようと、寒さを凌ぐために腕組みしようと、汗の具合を確認するため脇に手を入れようと、外見では気付かれないのである。
いや、少しポンチョがこんもりするかも知れないが、少なくとも「自分今脇に手を入れてます」を全面的に押し出さなくてすむ。
これはいい。
こないだ助かったのが、たまたまその日は「勝手にチャックが開いてしまうズボン」を履いていたのだが、計3回、誰にも気付かれる事なく、ポンチョの中でチャックをクローズする事に成功した。
もちろん、これはクローズの回数であって、「チャックが開いているかどうかを確認するため、股間に手を当てる」動作も含めると、なんて多くの「普通やっていては恥ずかしい事」を気付かれる事なく行えたか。
素晴らしいの一言に尽きる。
これが僕のポンチョに対する便利な点の話である。
ただ、もう一つ何か挙げるとすれば、「ポンチョ着たガウチョがガスパチョ飲んでてほしいな」って思ったりする。
なんかずるいな、チョは。

連名

高校の物理か何かで「ボイル=シャルルの法則」というものがあった。
確か理想的に振る舞う気体の体積とか圧力に関する、むずい式だった気がする。
ここで気になるのが「ボイル=シャルル」のところである。
この法則を発見したのが「ボイル=シャルルさん」と名字と名前だったらよかったのだが、確か別人。
ボイルさんとシャルルさんである。
このとき、多くの人は「なぜシャルルの方ではなく、ボイルが先なのだろうか」と考える。
この法則にたどり着くまでの労力が、ボイルさんの方が多かったのだろうか。
より重要な式を探したのだろうか。
五十音順ではシャルルなのに。
確かに、ボイルとシャルルの順番も気になるところだが、一方で「連名」である。
こういう風に表現したか、と感心する。
ところで話は変わるが、「ギャラン(ガラント)反射」というのをご存知だろうか。
これは「赤ちゃんの背骨の左右どちらかをなぞると、そっちの方向に尻を振る」という、原始的な反射の一つとして知られているものらしい。
何となく「宇宙刑事ギャバン」を連想させ、ああ確かにギャバンもギラギラ銀色で反射していたな、と感慨深くなる。
何かでこの「ギャラン反射」を知り、他にもそういった赤ちゃんが示す反射はないかと調べてみると、「モロー反射」というのもあった。
これは「落下や音に対して抱きつくような動きをする反射」のことで、おさるの時代を経験したほ乳類にみられるものなのだろう。
で、すなわち「ギャラン=モロー反射」とは「赤ちゃんの背骨をなぞりながら激しいダンスを踊ると、赤ちゃんが尻を振りながら何かに捕まろうとする」反射のことであり、なんだか、なぞっている方、尻を振っている方どちらもちゃんとしろよ、と言いたくなる事必至である。
ちなみに「ギャバンモロ反射」となると、もうこれはギャバンの体色である銀色が良くない、ということで何ら懸念点はない。

歯ぎしりのくだり、少し遠いの巻。

うちの猫が、もう16歳くらいになるのだが、歯ぎしりをするのである。
こう、ホットカーペットに寝転がっていると、猫がよってくるだいたい10分ほど前から寒くなってくる。
やはりカーペットに接している部分とそうでない部分の温度差が激しいからだろうか。
余計に寒い。
そうなると我が家も大したもので、近くにフリースの小さい掛け物が用意されている。
でもこれを掛けるのなら、その前に必要なものを身近に置こうと、茶を入れたりタブレットとその充電器。
軽いスナック菓子などを用意する。
こうして、僕のまわりは必要なものが京都の町のように整然とならび、商いをできそうな状態になる。
そうしてから10分後くらいに、猫が来る。
なんと、我が家には恐ろしい事に「こたつ」の文化がない。
これは以前からずっとそうだったというわけではなく、ずいぶん昔は、冬にはこたつがあったのだ、うちにも。
しかし、あまりに「家族が動かなくなる」という至極当然の現象により母親が激怒。
以来、住人がこたつに触れる事はなくなった。
猫は来ると毛繕いをし始める。
自分の体から甘い汁でも出ているのか、というくらい綿密に、そして毛の色が変わるくらいにだ液が出ている。
まず、猫は甘い味が分からないと聞いた事がある。
本当だろうか。
「甘さ」は「栄養」の味である。
確かに「苦い」「すっぱい」など、体に害のあることを示す味覚と比べてみたら、それを感じ取る機能の優先度は低いかもしれない。
しかし、昔飼っていた猫は「あんこ」が好きだった。
「あんこ」はもう調味料として砂糖の代わりに使用して良さそうなくらい甘い。
「味はしないけどとりあえずなめといた」可能性もあるが、この例からするとちょっと「猫は甘さが分からない」には納得できない。
とはいえ、これ以上の論はないため、おそらく隣に来た猫の体からは甘い汁は出ていないのだろう。
いや、甘い汁は出ているかもしれないが、彼女はそれに気付く事なく、ただなめているのだ。
そういえば、猫が自分の体をなめるのは「日光浴でできたビタミンを摂取している」というのも聞いた事がある。
これもどういうことなのか。
確かに、日光浴は体に良いと聞く。
しかしその理由は「ビタミンが分泌される」ということだったのだろうか。
僕にとってビタミンはほぼ「野菜」が作り出しており、動物性の食品でそれが摂取できるとしても、それは野菜が作ったものを溜め込んでいるだけと考えており、もうカゴメと八百屋のプロパガンダは甚だすごい。
しかし、そんなビタミンが、動物から産出されるとは。
少なくとも猫からは、にじみ出ているということなのだろうか。
すごいぜ、猫。
ということで、まあ何かと言うと、年経た猫が枕元で歯ぎしりをする様は、もう化け猫以外の何物でもなく、ビタミンを摂取するために猫をなめる人がいるとすれば、もう化け猫に取り付かれた人以外の何物でもないのです。

カモネギ2

昨日からの続き。
【あらすじ】
「鴨が葱を背負ってくる」
それほど魅力を感じない。
=====
つまるところ、もっと例えるのにいいものがあるでしょう?、ということなのかもしれない。
考えてみる。
牛の飼料にコショウが配合されている。
もちがきな粉の砂場で遊んでいる。
みかんが冷凍庫に入りたがっている。
ラッパーが向かっている商店街にアップテンポな曲が流れている。
母の日に里見浩太朗が公民館に来る。
とりあえずこんな感じだ。
あと、なんだかんだいっても「何かいいこと+宝くじ当たる」みたいにすればたいがいうまく行きそうな気がする。
「さやいんげんのすじがきれいに取れて、宝くじが当たる」みたいな。
一方、せっかくなので「泣きっ面にハチ」的なのも考えてみる。
雪で滑って尻モチをつき、写メ撮られ。
疑似餌な上に釣り針。
カバンの中でリップクリームのふたがはずれ、カイロが破れ。
加害者に、睡眠薬と間違えられて毒薬を飲まされ。
落としたケータイがレールの上に乗り、電車。
とりあえずこんな感じだ。
ちなみに、ラッパーがアップテンポな曲に対してどう出るものなのか、知りません。

カモネギ

いいことが重なる事、いいことがさらにいい事を引き起こすさまなどを「鴨が葱を背負ってくる」というらしい。
鴨が葱を背負ってくるのは、大変助かる。
しかし、そこからどうするのか、という気がして仕方がならない。
「あーあそこに、葱背負った鴨がいるね」
「ほんとほんと」
「あれ、今目の前通った鴨、何か背負ってなかった?」
おそらく、このことわざを作った人は、上記のようなシチュエーションではない。
もう少し根源的な内容を託したはずなのだ。
すなわち食欲であり、鍋やそばを想像していた。
しかし現在、鴨が葱を背負っていたくらいでは、それを捕らえて食べてしまおう、という人はあまりいないと思う。
今よりも食事事情が厳しかっただろう、なんか昔。
そのころにはこのことわざを聞いただけでよだれほとばしる世間だったかも知れない。
あるいは、僕が思っている以上に鴨と葱の鍋は愛されていたのかも知れない。
ともかく、僕にしてみれば「鴨が葱を背負ってくる」というのはちょっと、「踏切の警戒標識がいまだ汽車」というのに似て、ちょっと違和感を感じる。

星座占い

朝の星座占いを見る度に、13番目の星座があればな、と思う。
それは昔あったへびつかい座のことではない。
「ファービー座」とか、実際にはない星座でいい。
そしていつも13位。
最下位を陣取ってもらうのである。
人々の業を全て引き止めてくれるだろうファービー。
たぶん電池足らない。