玉虫色の洪水

家にいるとき、僕が好きなスタイルは以下のとおり。
イヤホンを片方の耳にだけつけて音楽を聴く。
両手は携帯ゲーム機でふさがっている。
あぐらを掻いたその上にはてきとーな雑誌。
目の前では好きな映画を流す。
娯楽の王か娯楽の奴隷か。はたまた自分に正直な聖徳太子か。
「娯楽に真剣です」というキャッチコピーが付きそうなスタイル。
自分に対して容赦ないアミューズメントが展開されます。
ポイントなのは、これらのどれもがあんまりモノを考えさせない内容でなくてはならないこと。
それを踏まえたうえでのチョイスでも結構疲れます。
また、お察しのように、それぞれの内容はどうしても希薄になります。
よって、上記の「聖徳太子」はいろんな意味で勝手ながら辞退いたします。
最近、こんなことができなくなってまいりました。暑いですしね。
僕が今、家でできることといえば、クーラーをつけてアイスを食べることくらいです。
ほんと、こんな体になってしまって・・・。

MajiでKoiするその刹那

かねてより、僕は「東京ラブストーリー」という歌がすばらしい力を持っていると考えています。
聞いたことがない人には申し訳ないのですが、この曲には途中に「テケテーン」という音が入ります。
なんとなく電車の中で目があった男女。
このシーンで「テケテーン」となると、100点です。
歌詞の、「あの日、あの時、あの場所で君と会えなかったら・・・。」という内容にもぴったり。
こないだ、僕はコンビニで裏からジュースを補充する女性店員と目が合いました。
「テケテーン」。
ツタヤに行くと、だいたい同じ女性店員に対応してもらいます。
「テケテーン」。
カルタで手が重なり合った瞬間。「テケテーン」。
百人一首で手が重なり合った瞬間。「テケテーン」。
大富豪で手が重なり合った瞬間。「テケテーン」。
・・・大富豪は触れ合わないか・・・。
こう書いていて思いましたが、「テケテーン」な展開を望むなら、カルタ、百人一首はお正月のテレビで見るような白熱ぶりは厳禁です。
札で札を洗う戦場に、恋は芽生えません。
そこそこやんわり、ゆっくり。
そう考えると、カルタ、百人一首はいわば「和製ツイスターゲーム」であることが分かりました。
来年の正月は、みんなで奥ゆかしくツイストだ!!。
それにしても活字にすると落語としか考えられないですね、「テケテーン」。
追記
「ツイスターゲーム」がどうしても思い出せなかったので検索しました。
キーワード「カップル ゲーム 敷く 触れ合う」
出ませんでした・・・。

彩られる記憶、腐食する記憶。

ソニーのハンディカムか何かのCMで、こんなのがありました。
夕焼けの土手を自転車をひいて歩く女子学生(ミカ)。
何かに引っかかって転んでしまったところにやさしく手を伸べる男子学生(ユウ)。
触れ合う手。
見つめ合う二人。
そんな出来事を外国人のおじいさんが見ていました。
そのおじいさんは神か何かであるらしく、それを見ながら言いました。
「人間はおかしなものだ。大切になるだろう出来事を記録せず、記憶にたよるのだから。」
ごめん。全体的に曖昧です。特に「夕焼け」から5行分、かなり憶測入ってます。
名前付けた意味もありませんでした。
だいぶ昔のCMなんですが、心に残っています。CM通り、記録にはないんですけどね。
皆さんそこそこ生きていたと思うので、記憶というものがいくらでも変わってしまうという事実は承知されていることと思います。
ちょっと例が出ない人でも、「同窓会、学校内、昨日の晩御飯、プロポーズ」というキーワードであら不思議。
実際プロポーズをしたことない人だって、「あなたからプロポーズされた、おまえからプロポーズした。」的なぬるいドラマ展開を感じることでしょう。
どうしても、記憶というのは変化するようです。
たぶんこの「変化」は、「事実」という点からすると明らかに「劣化」です。
でも、しょうがありません。「人間だもの」。
「人間だもの」。方向性が危ぶまれたらこれで行こうと思います。
まー、劣化しようが何しようが記憶があればどうにかなります。
そんな記憶のおかげで生じるものもありましょう。
困るのが、記憶すらないというところでしょうか。
最近、物忘れがひどいんですよ・・・。
とりあえず読んだ人、上のCMで登場したルミコとケンヤのラブストリを心の中で育てといてください。
記録、可よ。

あの?、モノポールってありますかね?

人間、誰だって何かを探しながら生きるもの。
いつか書いたけど、中世の騎士達は失われた「聖杯」を探し求めるのがひとつの理想だったらしいし、僕たちは赤い糸で結ばれた人(だいたい異性)を探し求めている。
「タイムボカン」というアニメは、ダイナモンドとかいうのを見つける旅だし、うちの廊下で寝ているネコは、実は夢を探している。
僕にも探しているものがあります。
まずは懐中時計。
シンプルなのに加えて、とにかく秒針が動くときの音がでかいヤツを探しています。
「ここまで有無を言わさず時を知らせ奏でるのか!!。」という感じのを探している。
見つかったらうれしさもひとしおだろう。
そして帽子。
昔のコントなどで中国の人がかぶっているような六角形のヤツ(パコってかぶれそうなやつ。キョンシーのではない)で、とりあえず無地で濃い緑色でと、読み手を考えない、日本語を崩壊させるほどの要求。
これだけ制限をかけてしまってはなかなか見つからないのも仕方がない。
けど、見つかったときの喜びはふたしおだろう。
次に棒磁石。
これはそこそこ量販店などで見かけますが、「これぞ!!」というものはあまりありません。
Uの字の磁石は邪道だ!!。
最後。ずいぶん昔から探しているもの。
それは「ルパンの水着」。
知らない人は申し訳ないけれど、シマシマ模様のイカした七分袖だ。
これは、ない。
男性用のところにも、女性用のところにもない。
姉も探している。
どこかで見たら、連絡求む。

連鎖する物語と楽しみ

上下巻が発売されている小説を読もうとする時、下巻から読む人は島耕作(イメージ)くらいでしょう。
つまり、時間がないのであらすじみたいなものと結果を読むわけです。
そんな人はあんましいないと思います。
上巻がないと下巻の内容が分からなくなったりするからです。
この例では「上、下」と、上を読む必須性が明らかになっていますが、それが明確に提示されていない場合、どういうことになるのでしょうか?
昨日、映画「時をかける少女」を観に行きました。
一度このブログでもぬるく語ったことがあります(http://nimbus7942.blog66.fc2.com/blog-entry-27.html)。
原作と比較して、ある程度は踏襲しているものの登場人物の名前や性格はほぼ原型を留めていません。
隣で見ていたコ(残念なことにどっかのアベック)がビビるくらい涙目になっていた僕は、映画館を後にしたとき思いました。
「男一人で映画を観るのは悲しいなぁ」
違う。
十分に面白かったです。原作を知らなくてもほぼ困るところはないと思います。もちろん、原作を知っているとにやりとする場面もちらほら。
しかし、僕の中では、さらに映画を面白くする要因が一つありました。
実写版の「時をかける少女(たぶん80何年かの)」です。
これのラストはちょっと悲しめ。原作にはない内容。
古い映画です。
これを見てないとよく分からんところがあったっぽい。
「少なくとも原作と昔の映画を見てないとよく分からんところもあったなー」と思ったわけです。
ただ、お客さんの中に初老のご夫婦がいるのを見たとき、今回の「よく分からんとこ」をよく分からんとこにする必須性というか、必然性というか、商業的というか、みたいなものを少し感じました。
それはたぶん過去の映画と、それを見たことがある人に対する救済みたいなものだと思います。
欲張りな映画だなー。
先ほど書いたように、単発でも面白い映画でした。
面白かった人はその後、原作読むでしょ?、実写版も見るでしょ?、そしてもう一度これ観なくちゃいけないから、楽しみ増えてうらやましいなー。
一応「上、下」の関係はあるものでも、それに興味を持ちさえすれば、それほど順番は意味を成さなくなるようです。
それにしても映画の人はずるい。
こんなことしたら。
こんなことしたら、僕もまた原作と昔の映画を見て、映画館に行っちゃうじゃないか!!。
*ちなみに勝手に僕が感じたことなので、ほんとの思惑なんかはぜんぜん分かりません。

無血開城を目指すキミに。

こないだ褒め言葉について書いたので、今度は褒めてない言葉を考えてみました。
1.「君のニックネームは「わたぼこり」ってことが学級会で決まったんで。」
2.「あなたほど改良しがいのあるサンプルは、そうはいない。」
3.「君のせいでBボタンが引っ込んだままになってしまったよ。」
4.「お前の現在地点、「おさかな天国」じゃねぇか!。」
5.「猿ぐつわ似合いそうだね。」
6.「何気安く存在しているんですか。」
7.「どうしても君とは貿易摩擦が発生するなぁ。」
8.「やーい。お前の母ちゃん fall’n love !!。」
9.「お前が夢に出ることだけは、制御しているから。」
10.「もう「笑撃」を使うのは十分やっただろう?。」

月見草

1.キミは燦然とかがやく太陽のような存在だね!!。
2.君は闇夜にひかる月のような存在ですね。
あなたならどっちを言われたらうれしいでしょうか?。
両方、存在とかのある要素が秀でてますよ、というのを言っているんだと思います。
1は元気そうだけど、何か風情がない。
2は儚い美しさ炸裂だけど、何か暗い。月なんかは自分で光ってないもんね。
とりあえず、僕はどっちも言われたことがないんですが、どっちがより褒めてるんでしょうか。
もちろん言う人、言われる人、そのシチュエーションはあんまり考えないことにして、なんですが。
これは重要で、例えば悲劇を演じる役者さんは太陽だと言われると毎日ろうそくの灯りで暮らし始めるだろうし、楽天イーグルス野村監督に「闇夜にひかる月のような存在だ。」と言われたら、その人は「おまえもな」と言いたくなるでしょう。
こういうのを抜きにするとどうなのかなぁ。
ひとつ確信があることは、「太陽のような存在」がうれしい人はさみしがり屋さんで、「月のような存在」がうれしい人は、やっぱりさみしがり屋さんだということです。
褒められて、それにうまいこと慣れてる人は、オトナです。
だから、「すぐにカッとなる」ことに対しての
1.鍋のような存在だね。
2.やかんのような存在だね。
3.なべやかんのような存在だね。
では、オトナは3で心揺さぶられるはず。
慣れてないもんね。

それは許されない感情にも似た

「言葉」というのは、コミュニケーションツールとしては危険なものかも知れません。
「聞き違い」「空耳」というものがあるからです。
例は「タモリ倶楽部」を見ればよいでしょう。
また、それの上を行く問題として「イントネーション」があります。
字では同じで、イントネーション頼りに区別するというのも、結構危険な気がします。
昔、「ボキャブラ天国」という番組がありまして、タレメガネさんが司会をしていました。
歌の1フレーズくらいをうまいこと変える番組です。
その番組で何かの歌のフレーズ、
「さよならと書いた手紙」というのが
「さよなら、都会、たてがみ」と変えられていました。
当時、このフレーズを用いたネタでは
「さよならと書いた毛ガニ」
というものが既にウケていた上、そもそもこのネタ自体がいまいちだったため、微妙な空気に。
僕には最近、どうしても「違うのにそう聞こえてしまう歌」ができてしまいました。
それはこころの歌として僕の12chで特番が組まれる「JUDY AND MARY」の「ガールフレンド」という歌。
「新しい歌できたよ。青い果実にも似た。」というフレーズです。
ここが、どうしても「青い果実ニモ煮た。」となってしまいます。
ディズニーごめん。
マーリンごめん。
木梨さんごめん。
僕の頭の中ではニモ煮られちゃったよ!!。
しかも、青い果実と共に。
ちょっとクセがあるんじゃないかとかすら考えちゃうよ!!。
煮られてなんかいない、煮られてなんかいない。
願いもむなしく、何回もそう聞こえてしまう。
僕は海水浴で、人懐っこいクマノミと遊んだことがあるのでなおさら悲しい。
僕はどうしてもそう聞こえてしまうので、煮た煮られてないを繰り返しながら生きていくしかありません。
皆さんは「ファインディング ニモ」を見るとき、ちゃんとニモが煮られていないことを確認してください。
確認し続けてください。
よろしくお願いいたします。

ジムノペディア

高円寺では毎年、夏にお祭りがあります。
「東京高円寺阿波おどり」。
駅前すぐの道路で行われ、これを見るために当日はかなりの混雑を見せます。
阿波踊りを「ちゃんと」見ていない人はぜひ。
ありゃーいい。
地域や年齢特定の人だけやる見るってのはもったいない全米No1です。
僕のある先輩が阿波踊りのファンでなかったり、高円寺の阿波踊り祭りに誘われなかったら、僕の人生はテトリスのないゲームボーイみたいなものだったでしょう。
僕も詳しくはありませんが、「阿波踊り連盟」みたいなものが各地域に存在していて、愛好家が日々練習に励んでいるようです。
とにかく、大勢の人が阿波踊りをしているだけでも迫力があります。
また、うまく踊れる人はとにかくカッコいい。
そこらにいそうなおっちゃんが何とも言えないステップを踏む。
おーい。ここに人間国宝候補がいるぞ!!。
そして何よりも、全員の動きがすごく統制されています。
動きに強弱やテンポ変化のある連盟も結構あるのですが、その統制具合がいいと、感動的ですらあります。
「心が揺さぶられる」という言葉がありますが、時としてそれは比喩とはなりません。
踊りの抑揚が物理的に心をつかむ。直に伝わってくる感じ。
プロレス好きな人は知っているかもしれないけど、「ストマッククロー」という技があります。
何か、お腹の上からダイレクトに胃袋を締め上げるらしいです。
ある意味祭りにふさわしくない技ですが、印象的にはこのたとえがぴったりかと。
祭りのあと、僕の手元に大量の餅があったら確実に全員に配っていたでしょう。
とにかく楽しいものですが、帰りの駅はだいぶ混むため、肉体的に疲れます。
そして、感化された人たちによる「ふしぎなおどり」が大流行するためか、精神的にも疲れます。
けど、見とけ。

ともだおれ

母親を連れて買い物に出たのだが、車の助手席に乗っている女性が誰なのか、分からなくなった。
いや、女性なのだろうか?。
かろうじて、ヒトという概念は損なわれていないようだ。
そのヒトは親しげに「今日の夕飯は何にしようか?」と私に話しかけた。
最近、どうも調子がおかしい。
さっき、何故自分の母親をうまく認識できなかったのだろう。
もちろん、すぐに「ヒト」は「母親」の全てを取り戻し、完璧な「母親」となった。
新聞などを読んでいると、ふと、読み慣れたはずの漢字が分からない。
いや、分からないというよりも「お前、そんな形だったっけ?」という気持ちになる。
人間というものはモノを捉えようとするとき、その部品に加えて、その全体像も把握するらしい。
だから、パーツは同じでも場所が違えば違うものとして認識することができる。
しかし今、私の中では全体を構成していた部品たちの自己主張が強くなってきたようだ。
芸術に携わる仕事ならば有益だったかもしれない。
だが、字を書くことが仕事の私にとって、原稿の文字達が躍りだすような現状は耐え難いのだ。
7942「って、お向かいの鈴木さんが言ってたよ。」
母「まぁ、怖いわねぇ。」
7942「あ、あれ?。ど、ドナタデスカ?」
母「よしちょっと鈴木呼んでこい」