侵入

今日は2014年の12月末なのだが、いわゆるクリスマスシーズンである。
子供の頃は、プレゼントと称したサンタさんからの善意の固まりを楽しみにしていたわけだが、最近は彼が世界中の子供達にプレゼントを配れるよう、寄付をする身となった。
だからか、あまりクリスマスというものに心が動かされる事がなくなってしまった。
しかし先日、心の揺さぶられる事があった。
それはあるイベント会場付近を歩いていたときの事。
そのイベントスタッフなのだろう、ドンキホーテで売っていそうな薄着のサンタコスプレの女性が舞台付近を忙しそうにしていた。
それは結構なのだが、気になるのが「移動する時、身を屈めていた」点である。
素人目には分からないが、もう撮影やテストをしていたのか。
だからカメラに写らないようにしていたのか。
しかしどちらにせよ、私は「サンタの格好をした者がこそこそする」のは非常に良くないと、そのとき感じたのだった。
それはどうしても「サンタは侵入者」であることが否めないという事実からだろう。
やはり、枕元に知らないおじいさんが来るというのは、セキュリティの面からしても良くない。
「寮に侵入し、女性の枕元に20分間立った後、退室」
これが、よく聞く不法侵入というのものに相当するのかはわからない。
だが、法に触れているのは間違いない。
彼が変態であっても、サンタであっても、だ。
したがって、そんなことを生業としているものが「こそこそする」ことは、みんな気付いていなかった、あるいは気付いていたがうやむやにしていた侵入という不信感を一気に思い出させることなのである。
次回
こそこそとした挙動をするとマズい人たちを考える。

大掃除

コンセントについている埃を快く思う人はそういないだろう。
実際僕もそうで、見つけたらさらっと掃除したりする。
しかし、たいがいの部屋はそうだと思うのだが、例えば本棚の後ろとか、タンスの後ろとか、なかなか手の出せないスペースにコンセントはある。
そんなアプローチできない場所の掃除はどうすればいいんだ。
すごく埃が溜まっていたら汚いし、火災の原因にもなりそう。
気になって仕方がない。
そこでおすすめなのが「年末の大掃除」である。
年末は休みがあるだろうから、日頃動かせない家具を移動させる、良い機会である。
そのチャンスを生かし、動かして掃除をするとよい。
ついでにカーペットなどの敷物の方向も変えて、「本棚に隠れていたから日焼けしていない」部分を出すのもやっておきたい。
もちろん、タンスの裏に落ちているものベスト3に入る「物差し」「小学4年生のときの絵」「破魔矢」も回収しておきたい。
そして、ここまでやるのならもう、どこもかしこも掃除すべきである。
偶然ながら、年末にはカインズホームなどの販売店では様々な掃除グッズが目立つところに置かれているから、もうほんとにどこでも掃除ができてしまう。
こんなチャンスは年末を逃しては、そうそうないだろう。
年末の休みを利用して、掃除をしてみるべきではないだろうか。
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nimbus7942
2014年 「年末の大掃除」を世界で初めて発見

kk

それほど親しくない人との会話でも、相手の人柄やシチュエーションから「何かイケる!!」と判断が下されれば、試したくなるのが人というものである。
「SMはどのくらい?」
「いやあそれがあまり」
「実は僕もなんです」
相手がいい人でよかった。
さっきどこかで「下ネタで引く人増加」みたいな記事を見たから、なおさらいい人。
しかし今回考えたいのが、このあとやはりというか。
それほど会話が続かなかったときにぽつりと僕の口から出た言葉である。
「ふうっ・・・、SM・・・か・・・」
よく、会話が途切れた時に「ふーん、そういうことね」や「なるほどねー」みたいに、蕎麦における小麦粉のような「つなぎ」を使うことがある。
そういうふうに、SMって使えるっけ。
「そういうふうに」使ってしまった瞬間、違和感を覚えたのである。
たとえば「ふー、あかぎれ、ね・・・」と口にすれば、それはそれまでの会話があかぎれの話題で、十中八九相手があかぎれで苦しんでいるわけである。
さりげなく「ちゃんと話聞いていたよ」とアピールも可能。
そして何よりも、「私にあかぎれのネタ、あったっけ」と話の継続を目的とした回顧が表現できている。
「ふうっ・・・、SMか・・・」
残念ながら僕の脳をほどいて紐状にし、薄い塩水ですすいでも回顧できるようなSM体験はない。
さらに気になるのが「SMにおいて、思い出し笑いみたいなものがあるのか」という点だ。
SMを回顧し、「あのときのろうそく、熱かったー」とか「私の生涯で最高のkk(※1)だったわ」など、ありうるのか。
これも分からなかった。
僕は、意図せず発したこの言葉に気になる点や不明点があることに感動した。
そしてすぐ相手に伝えたところ、「こいつは何を言っているんだ」という顔ではなく、あいまいに笑みを浮かべた。
やはり、いい人である。
※1
kk
亀甲縛りの略。
あくまで個人的な印象だが、縄のみしかない場合、この着用が一番防御力高そうな気がする。

引き潮

リステリンを10分ほど口に含んでからそれを吐き捨て、麦茶を飲む。
すると、麦茶の味が変に感じた。
詳細は不明だが、おそらくリステリンの強度により口内が変化。
味の弱いものはその余韻に負けてしまうのだろう。
僕は麦茶が飲みたかったのだが、余韻に負けた麦茶は形容しがたい、腐ったのかと勘違いしてしまいそうなくらい、いままで飲んだ事のない何かになってしまった。
リステリンが引くまで、待つべきなのだろうか。
それとも強い麦茶を探しにコンビニまで行くべきなのだろうか。
確か、釣瓶がCMに出ている麦茶はカフェインゼロだった。
おそらくだが、強い麦茶はカフェインがたくさん入っているだろう。
ベリベリカフェイン。
見た事がない。
スポーツ飲料っぽい「DA・KA・RA」という銘柄の仲間として「やさしい麦茶」というのも販売されていた。
もうこれは強くない。
せめて「DA・KA・RA」が「KA・RA・DA」だったら、何か強そうな気もするのだが、惜しい。
こんなアナグラムを許容するのなら、可愛らしいCMの幼女も「ムギちゃん」ではなく「ギムちゃん」と変換されてしまい、何だか税務署の萌えキャラの様相。
「義務ちゃん」は何となく「義務じゃん」のように考えられ、それは「納税、義務じゃん。ちゃんとしなよ」冷たくあしらわれているようで、ある意味強い。
と、そうこうしているうちに、リステリンは引いてゆくのでありました。

もなか

このあいだ(2014年7月)、テレビを見ていると「キャプテン翼もなか」というのがやっていた。
おそらくキャプテン翼に何かしらゆかりのある場所なのだろう。
もなかに「キャプテン翼」のキャラクターが焼印されていた。
こういった商品を目にする度にどうしても考えてしまうのは「もう少し何かできないか」である。
仕方ないのだ。
生産性を損ねる訳にもいかないだろうから、形を翼君にする訳にもいかないのだろう。
そもそも「もなか」では翼君のシャープな髪型や手足先などを表現するのにも限界がある。
ただ、焼印かー、と考えてしまう。
要は、翼君のかわりにサザエさんが焼印されたら、そのもなかは「サザエさんもなか」に変わってしまうのである。
少し、節操なさを感じてしまう。
僕が危惧するのは、この流れが許容されてしまうとなると、もっと節操ない「もなか」が出てくるのではないかという点だ。
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あだち充 出身地名物
「かずやもなか」
「たつやもなか」
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これはかなり節操ない。
ゆるゆるである。
しかし現在、これほどではないにしても似たような方法で節操ない事になっている例は多いのではないだろうか。
恐ろしい事である。
現在、おそらく「かずやもなか」「たつやもなか」はないと考えている。
今後作るのは結構な事なのだが、せめて「かずやもなか」には享年を印字するという「もう少し何かできないか」に対する姿勢を見てみたい、と考える者である。

スイカバー

チョコレートは溶けてるっぽい状態が一番おいしいと考えているため、本当に「スイカバー、種を表現したチョコ」には閉口する。
何を考えているのか、と思う。
オリジナルであるスイカだって、種は捨てる部分じゃないか。
種無しでいいじゃないか種無しで。
怒りの収まらない僕は、近くの湖までドライブすることにした。
スイカバーを志村けんが食べたらどうなるのかな。
種の部分は食べる方?飛び散る方?。
未熟な種を表現するためにホワイトチョコも入れたらいいのに。
スイカバーを集めて球状にできないかな。
湖について、ダムや貯水の事を教えてくれる小さな博物館を歩いていると、怒りは疑問へと変わっていく。
鮎の産卵を紹介したコーナーでその疑問は一つになった。
「なぜ生物は生き、子孫を残し続けていくのか」
答えはともかく、なんとなく「種はないと困るな」と帰路につく。
コルヒチン処理で染色体異常のスイカが少しかわいそうな気がするし、一方で遺伝子操作されたコーディネーターはむしろ種できちゃったみたいと、遺伝子と種の関係は複雑すぎて、帰路また怒りが湧いてくる。
そういうことで僕は、少しだけ遠回りして帰る事にしたのである。

目目連

漫画を読んでいて「眼科」の看板がやたら背景として出てきたら、それは「ああつげ義春が好きですか」となる。
それか登場人物全員目を患っている。
もしかしたら登場人物の目が30個ほどある世界かも知れない。
モンスターズインクに出てなかったか「眼科の看板」。
あるいは看板に妖怪目目連が宿っている可能性もある。
「目目連」というのは「障子の格子紙ひとつひとつに目がついている」ような風貌で、たいそう気持ち悪い。
考えた人は趣味が悪い。
気丈な人が「目目連」の目をひとつひとつ取って、眼科医に売り払ったという話もあるらしいが、この話を考えた人も趣味が悪い。
と、今気づいた。
「壁に耳あり障子に目あり」って、完全に「目目連」のことじゃないか。
このことわざも趣味が悪い。
考えてみると、モンスターズインクに出てくる目のたくさんあるモンスターも、ぎろりと全ての目が同じ方向を向く時、気持ち悪い。
ピクサーも趣味が悪い。
憶測で大変申し訳ないのだが、つげ義春は趣味が悪そうなので今回、趣味が悪くないものは何もない。
「目目連」が障子にたくさんの目がついているものだから、「壁に耳あり障子に目あり」を考えると、壁には耳がたくさんついている。
ほら、これもなかなかの趣味の悪さ。
ただ、なんとなく前衛的な芸術に見えなくもない。
ダイソンの掃除機のコマーシャルとかに使えばいいと思う。

ミッシングリンク

新宿の眼科医に軽症を負わせたとして逮捕された、自称マングローブの徳光容疑者は調べに対し、「ランドルド環をつなげようとした事を咎められたから」と容疑を認めています。
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「いつになったらファウゼン域(※)がなくなって、ちゃんとした環になるのかな、って」
「ずっと考えていたんです」
警察:だからって医者を叩くなんてだめでしょう?
「ちょっと本気になってしまって」
警察:まあ、こんな事件を起こしちゃったんだから、少し自粛してもらわないと。
警察:その間は、ちょうどあの環の隙間のような期間になるんでしょうね。
警察:あなたの人生において。
「いや、それはそもそもないですよ」
警察:というと?
「輪廻じゃあるまいし。人生は環じゃない」
「もし間違ってたら、来世であなたに土下座しますよ」
「来世に足があるならね」
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数十年後
占い師:あなたの前世はマングローブです。
「まずい!。どっちの!?」
※ファウゼン域
ランドルド環の隙間の部分のことで、うそ。

泡を抱いて眠る

絶えず正解を選択し続けていきたいとは僕の口癖のようなもので、イメージではそれに成功し続けていればもう資産家で7人の妻がいてトイレが黄金でできているはず。
今そうなっていないのは少なからず正解を逃してきたからなのだろうがこの「正解」。
それは周りにとっての、自分にとっての。
常に2つ存在している事に、遅ればせながら気づいてきた。
例えば僕は、周りにあまり話題がなさそうだと判断すると、恐ろしく喋るのだが、これは少なくとも僕としては「周りに対する正解」を目指している。
この喋りで何か話が転がれば、多少の傷はご褒美のようなものである。
しかし一方で、この状態は自分にとっての正解と言えるのか。
そんなことを考え出すと不安になってしまう。
正直、恐ろしく喋りはするが、その内容は充実しているとは言えない。
それは複数人に対する話題であるから、あまり立ち入った話であるとかローカルものは汎用的でないと判断しているからであるが、それにしてもあーた、僕のそういう話は虚空過ぎていて。
多分叩いたら結構いい音する。
もしかしたら、「周りに対する正解」を求める事が多くなりすぎて、自分の正解が分からなくなってしまったのか。
そう思わないでもない。
そこにきてこの「自分に対する正解」というのは恐ろしい事に、羞恥心や鈍感さなど、自分のせいによって邪魔されてしまうことが多い。
それに気づいた時、取り留めのない、取り返しのつかない気持ちを胸に秘めて眠るしかないわけだが、これまた恐ろしい事に、今「僕に対する正解」というのはその「寝る」ということに他ならず、それは最近帰る時間がおそ過ぎで睡眠時間が4時間ほどしかないことと、そんな地獄のミサワのセリフのようなことを吐いてどうするん?というこれまた恐ろしいもうひとつの正解もどうにか回収しようとする欲張りな僕。

五分五分

僕にはウィンドウショッピングという文化があまりなく、しれっと店内に入って、一周したらさっと出てくる。
そんな感じで時間をうまく潰す事のできない難民である。
ただ、それが悪い事ばかりなのかというとそうでもなく、気に入ったものがあれば迷う事なくそれを買う。
その潔さたるや自分がほれぼれするほどで、おいおいそんなに何も考えずに買っていいのかい、と自問してしまうほど。
先日も、都内の電気機器とメイドが五分五分の場所にて、帽子屋を発見した。
僕は最近、とにかく布状のイスラム帽を探しているからそこでも探そうと思ったが、一瞥して既にそれがないのがわかった。
ならばもうここに用はないと立ち去ろうとしたとき、ひとつ目を奪う帽子があった。
それはツバのある、いわゆるキャップ的なものだが見てくれはワーカーキャップのように素っ気ない。
ただ、耳を隠すひらひらがついていた。
これはすぐ買った。
なぜかは分からないが、気に入ってしまったのだ。
おそらく、僕の気に入った点は耳を隠すやつのついている帽子は、たいがいもこもこしたやつだが、これはもこもこしていない。
その一点に尽きる。
僕の考えでは、寒くもないのに耳を隠す必要はない。
それなのに、たいがいの耳を隠すひらひらが付いている帽子は、それがもこもこしている。
イヌイット的な、例の帽子の類い。
冬ならともかく、あれがもこもこと主張している帽子を、僕はあまり好かない。
何をもこもこしているのか、と。
そんな中、その店で見つけた帽子のひらひらはあまり主張がない。
見てくれも地味だし。
どうであれ、その日はこの帽子の出費により他の何物もスルーしなければならない事態となってしまったのだが。
そもそも、耳を隠す必要があるのかと言えば、なかなか難しい。
ただ、よく見ると、耳は驚くほど官能的な形をしている。
だから、それを出したい日も、隠したい日もあるというのは、そう不自然な事ではない。