よみがな

「どぜう(どぢやう)」「てふてふ」などである。
例の「おもしろ読み」の余地のある彼ら。
どういったことがあってか分からぬが、これらはそれぞれ「どじょう」「ちょうちょう」と読ねばならないとのこと。
なんでだ。
それはさておき気になるのは「本当に「どぜう」と読んでもらいたいとき」はどうすればいいのか、だ。
例えばこんな文があったとしよう。
「幼少から現在に至るまで、人は一度くらいは「どぜう」を「どぜう」と読んでしまって恥ずかしい思いをするものだ」
「しかしその恥ずかしい経験は「どぜう」を「どじょう」と読むためには必要なのである」
「しず子は思い切ってまことに聞いてみた。「レディガガって、シーハルクみたいなもの?」」
最後のは関係ないが、とにかくこの文面に出てきた「どぜう」は読み方としては全て「どじょう」となるわけであるが内容上、「どぜう」と読みたいところもあるわけである。
「@」はどうだろう。
※以下、どぜう発音してほしいところにて採用してみる。
「幼少から現在に至るまで、人は一度くらいは「どぜう」を「@どぜう」と読んでしまって恥ずかしい思いをするものだ」
@のところは「そのまま読み」で、結果「@どぜう」と読むわけ。
しかし文章ならいいが、日常的な会話にてどうしても「@どぜう」と発音しなければならないときは難しい。
「アットどぜう」っていうのもなんだし。
かといってそのまま「@どぜう」と発音してしまうと、相手が「どじょうね」と判断してしまうため、結果「@どぜう」という読みは置換されてしまうのだ。
会話中の場合、どうするか。
そんなことを考えていると、どうも日本人は今後絶対に「@どぜう」「@てふてふ」なる何かを生み出してはいけないんだろうな、と思えてきた。

覚えられなう

ひどい話なのだが、僕はどうも「一度覚えられなかった人については、ずっと覚えられない」らしく、Twitterだと「覚えられなう」とでも言うだろうか。
ともかくそんなで、とりあえず「覚えられなう」なんてもう二度と使わないから!!。
先日、へんな串に刺さった肉を食べに行ったのだが、僕はそこで「以前会った事あるはずの人物」のことを、まんまと思い出せなかった。
全然違う人だと思っていた。
ところが話しているうちにどうも「以前会った事あるはずの人物」であることが判明。
全然違う人だと認識していた僕はそのことに驚き、「まあ大きくなって」などと醜態をさらしたわけだ。
ただ、この癖?でとにかく心配なのが、「どこぞの会ったところで話した事を、次に会ったときも同じ風に話していないか」ということ。
これは非常に恥ずかしい気分になる。
まったく同じでも恥ずかしいが、少し抑揚や内容が違っていたりしてもいやだ。
なんや、おまえは時と場合によって同じ話を変えるのかい。
そんなことがあったりしたら恥ずかしいことこの上ない。
ただ今、ある話内容を変更せざるを得ない、あるいは変更したほうがいいということもあるんじゃないかという気もしてきた。
例えば「ウルトラマンセブンのウルトラアイみたいなメガネをかけてきた人の話」をする場合。
話し相手が「ウルトラマンセブンのウルトラアイ」について知識がないと判断されていれば、そこは「シャアのお面」と言い換えたほうがいいはずである。
もちろんこの例では「ウルトラマンセブン世代とガンダム世代はそれほど離れていないから、この言い換えはおかしい」という意見も出よう。
そのときは「シャア」の部分を、その人の世代に合ったガンダム作品から選ぶ事のできる「シャア枠の人」に変えるだけでよく、そう考えると「ウルトラマンセブンのウルトラアイ」の説明はどんな世代にも通じるということで、本当によかった。
まあ今回何が言いたいかというと、なんか同じ話することあるかもしれないけどごめんね、ということ。

様相

今年の花粉

とうとう目がかゆくなってきた。
すごく花粉が多いよという今年の、花粉症だ。
かくほどにかゆさが増す事は、もう十分にわかっている。
しかし今年はやっぱり花粉量が多いのか。
眠っている間に、無意識のうちに目をかいてしまっているようなのだった。
診療所の医者に言われてしまった。
「かくと、もっとかゆくなるんだけどね」
わかっている。
わかっているよ。
寝ているうちにかいちゃっているんだよ。
目をこするとレモンのかおりが出るんだよ。
こすりでかゆさを超越する挑戦なんだよ。
鼻水もひどい。
「鼻をすすると、もっとすすりたくなるんだけどね」
これは言われてないや。

ふきこぼれるまえに。

なんか分からないが「ラブホテル 差し水」っていうのが思い浮かんだ。
当方ラブホテルのやっかいになったことがなくその点残念なのだが、なかなかいいホテル名だ。
もちろんラブホテルの用途と、差し水の用途の差異がおもしろい。
しかしその差異には、「差し水」の家庭的な部分も存分に入っているだろう。
しかしこれはどうだろう。
「ラブホテル びっくり水」
これはちょっとありえちゃうよなあ。
何かが。

冬がはじまっていたよ

今年はなんだか寒い。
そのせいか、よくわからんタイミングで関東にも雪が降ったりした。
珍しい雪を持ってきたのに。
ちょっと前のニュースなのでいつ頃か忘れてしまったが、どこかあまり雪になじみのない地方の話。
子供たちのためにか、雪を輸送してきた人がいたのだ。
しかし、その場所ではちょうど季節外れの雪が舞っていた。
輸送してこなくとも、雪が見れてしまったわけである。
なんとなく決まりの悪そうなその人。
ただ、その人を紹介するテロップはよかった。
「雪を持ってきた人」
雪を持ってきた人。
槇原敬之とか松任谷由実のシングルで、なかっただろうか「雪を持ってきた人」。
その人は残念がっていたが、十分神秘的ではあった。

森ガール

靴屋で目を引くポップがあった。
「森ガール風」
森ガール風である。
僕のイメージが間違っていなければ、それは「これから山を散歩しながらベニテングダケを取りに行きます」という感じの服装であり、昨年あたまあたりから始まった森ガール情勢はまだ息を続けているはず。
また、日本が古来より森ガール生活を送っていた事は想像に難くなく、先ほど触れた毒キノコですら食用にする術を身につけている。
日本は実戦的な森ガール排出国である。
ただ、この靴屋で僕が感じたことを考えてみると、日本の至宝たるひとつが、失われようとしているのかもしれない。
「森ガール風」
僕はこれを見て「森ガールたちには、目指すべき確固たる森ガール像があるのだ」と思った。
その、「確固たる森ガール像」というのがおもしろく感じられてしまったのである。
それは日本古来から伝わる森ガールがおぼろげになっているということである。
これはいけない。
今のうちに日本古来の森ガール像をちゃんと確定していなくてはならない。
それがまさに「確固たる森ガール像」となるべきものであるはずだから。
まだ、まだその様相は日本人のなかにとどまっているはずだ。
さっそくgoogle画像検索で森ガールを抽出。
・・・残念。
もう、たまたま森に来ていたらしいガールしかいなかった。

平和降り立つ。

最近、いくつかのイメージが突然思い出されることがあって、困る。
「ラグビーボールを取ろうと一丸となって追い、まさに取ろうとしている選手たち」
このイメージの、ラグビーボールが鳩になっているのだ。
たぶん駅のホームか何かで鳩を見たとき、そう思った事があったのだろう。
おまえらのうのうとしているが、捕まったら大変なんだぞ。
そんなことを考えたのかもしれない。
あるいはフランス料理店のシェフが高架下を自転車で通過するとき、あのたっかい帽子が引っかかったところを見たときだったか。
いやこれは見た事なかったや。
ただそんなシェフが公園で必死に鳩を捕らえようとしていることはおもしろいな、とかは思った事あったかもしれない。
飽食な日本。
いつかは食べ物が不足し、降り立った鳩を必死に捕獲することも、今後あるかもしれない。
以前も書いたが鳩は平和の象徴だ。
その鳩を賢明に捕らえ、小脇に抱えながらゴールに向かう姿勢。
置いた鳩を蹴ろうとするとき鳩は飛び立ち、やはりゴールを通過する。
スクラムへ鳩が投入される。
これらは平和への思いや活動に対して、何らかの意味を持っていると言えないだろうか。
まあとりあえずは、ラグビーがどんなスポーツだったかを思い出さなくちゃいけない。
まずは鳩が競技エリア内に降り立つところから始まるんだったな。

すやすや

最近、すやすやを出して寝ていないような気がする。
真夜中に目覚めたり、変な束縛感にうなされることが多いから。
束縛感のほうは金縛りのような気もするが、特に霊的な派生が起こっているわけでもないので「何かはわからないが動けない感じがする」だけだろう。
しかし、ただうなされるだけだと、こちらとしても面白くないため、いろいろ観察しながら寝る事にした。
するとひとつ、気づいた。
うなされる夜は必ず、寝ようとするときに耳元でざわざわ感がするのだ。
いやな話である。
僕はこれからすやすやを出したい訳で、ざわざわはいらない。
ただ、寝ようとするときに耳元ですやすや感がしても困る。
僕は感じがすることがわかるわけだからまだ寝ていない。
そのすやすやは誰のすやすやなのかと考えたら、俺より先に寝るなよという気にもなる。
まだざわざわのほうがましだ。

戦争

戦争というものを、「一見戦争に参加していない第三者」も加えて端的にあらわそうとすると、こうなるのではないだろうか。
「第三者の口と肛門を介しての、指相撲」
いやだなあ戦争って。

1万人

エジプト、反政府サイドの1万人規模デモというのを聞いた。
以前書いたかもしれないが、日本が言うところの平和だからだろうか。
いまいちデモというもののイメージがわかない。
ゆえに「1万人」の具体的数値をもってしても、よくわからない。
「1万人規模の集団下校」
これならわかる。
すごいってことだ。
もう、横断歩道で渋滞起きる。
「1万人規模の地団駄」
これもすごい。
床も心配だが、彼らをあやす1万人規模の母親も必要なわけで、大変だ。
「1万人規模のマッスルミュージカル」
これもすごい。
床も心配だが、唯一ほっとするのは、彼らをあやす1万人規模の母親が必要ないこと。
「1万人規模の飲茶」
ロイヤル・ドラゴン・レストランあたりでできるのだろうか。
「1万人規模の電球を取り付けるときに生じるねじりぢから」
1万人デモに対するイメージは、これに近い。
すごそうなのだが、どのくらい他への影響があるのか、いまいち分からないのだ。
「1万人規模の都庁を手押しで国会議事堂の前まで持ってこよう運動」
足らないよたぶん。