園芸店や雑貨屋さんで見かける事があるだろうか。
「幸運のよつばのクローバー」
品種改良なのかもともとそういう種類なのか。
その葉の多くが「よつば」になっていて、それは伝承的に伝えられている「幸運」というものの、まさにそのものなのだった。
しかしこの商品を見るたび、僕はなんともいえない気持ちになる。
「そういうことじゃ、ないでしょう?」
よつばのクローバーが幸運を象徴することに文句はないが、それは「よつばのクローバーは珍しい」という事柄が根本であるがゆえのことだ。
その「幸運のよつばのクローバー」は、よつばがわっさーなっているため、珍しさが損なわれている。
そこに何かしらの希少さを見つけ出そうとしても、それは叶わないのである。
ただこの「幸運のよつばのクローバー」と「幸運」というものが結びつかないかというと、そうでもないだろう。
幸運は希少であることが条件であるが故、どこにでも存在するもの。
みつばを探しだそうとすることに、話題性がないわけじゃない。
投稿者: nimbus7942
ゆけどこまでか。
JUDY AND MARYの「LOLITA A-GO-GO」をよく知らなかったので、JUDY AND MARY好きの友人に怒られてしまった。
くそう。
そんな話をしていると、他方から「昔、マッハGoGoGoというアニメがあった」との声。
そんなものもあったのか、と。
しかしここで僕はひとつの事実に気づかされる。
「Goは3回まででよい」ということである。
例えば「LOLITA A-GO-GO-GO-GO-GO」だったらどうだろう。
分からない。
なんか分からないが、原宿とそこへ通じる路線の電車内が大変なことになりそうな感じ。
終電後の原宿の路上にホワイトブリムが点々と落ちていそうな感じ。
GOがたくさんあるとそうなってしまうのである。
「マッハGoGoGoGoGoGoGo」だったらどうだろう。
確かにマッハはすごい。
僕らが思っているよりも、ずいぶんと速いのだマッハは。
しかし「GoGoGoGoGoGoGo」では、ちょっと行き過ぎで、急ぎ過ぎはないだろうか。
ある意味「生き急ぎ」でもありそうだ。
確か「マッハGoGoGo」は車のレースを題材としたアニメだったように思う。
「マッハGoGoGoGoGoGoGo」はその車のチーム員や観客からは発せられる可能性はあるものの、程度というものもある。
この点でも、「マッハGoGoGo」は程よい「Go」であり、それは3回なのだった。
「Go」は3回まで。
僕もこれから生きていく中で、優先度高めにしていきたいことである。
不吉な4のイメージアップ2
昨日からのつづき。
【あらすじ】
なぜか嫌われる数字の「4」。
その尊厳を取り戻すため、どのようなことをすればいいのだろうか。
=====
1:「4位」が、一番よい商品が獲得できるようにする。
おそらく一番人気のある数字は「1」であろう。
それは「1番」「1位」に見られるように、優れているという意味が込められているから。
そこでその威光を「4」に適応するべく、とにかく行政的な対応から「4、最高」という認識獲得を目指してはどうだろうか。
「ベスト3にわざと入らない順位として、最高位」であるという位置づけでの「4位」。
「能あるタカは・・・」ニュアンスでどうだろうか。
2:人気アイドルが15秒間、ノートに「4」と書き続けるCMの作製
なんだかんだいって、未だテレビの影響力は絶大である。
その観点から「4」への悪印象を払拭する狙いのCMである。
ただ「4」を書き続けるところに何か病的なものを感ずるのであれば、例えば新作映画のCMに見られるような「すっごく感動しました」みたいなことを素人風の出演者に言ってもらうやり方なども考えられる。
「今まで気にしていなかったけど、よく見てみたらすごくよかったです、4」
3:ピカチューの背中の模様が「4」になっている
ある時点から、ピカチューの背中の模様を「4」にする。
子供の頃から「4」に対する印象を良くすることが狙い。
確かに「4の模様」へ移行した場合、違和感や抵抗がないとは言えないが、政府(4イメージアップには政府の全面的な協力が必要)としては「え、今までずっと4でしたよ」という姿勢をつらぬく事で解決できるはずである。
5:新作ドラマで登場人物たちが「愛してる」の隠語として「4」を使用する
ピカチューが子供たちへの情報操作なのだとしたら、こちらは中高生をターゲットにしている。
イメージとしては、別れた恋人が残す最後の封筒に入っていた「4」の手紙である。
6:「3」と「5」のイメージダウンをはかる。
相対的に「4」のイメージをアップさせる。
人生における、多くの「3~5のいずれかを選ぶシーン」において「4」を活躍させることができるのだ。
「この花壇には、パンジーが5株くらい植えられる」
4株になるのである。
なお、「3」と「5」のイメージダウンには「3あるいは5を書くときは、血がたれる感じを出すこと」という条例の制定でいけるだろう。
7:リモコンや携帯電話の「4」のボタンを押すときのみ、クイズの正解音がなる
確実に印象よくなるだろう。
しかし一方で「なりすぎ」による憎悪感が発生する可能性があるため、「運がいいとなる」くらいにするとよい。
8:ポーカーのルールを「4が出たら一律勝ち」にする
「4」はどんな数にも置き換える事ができるというルールにする。
数を引く事すらできるので、21を目指す事が容易。
「ポーカーフェイス」という言葉が「4」のためのみにあると変化するくらいの劇的な方法である。
ただしポーカーは世界的に知られているトランプゲームなので、この方法には世界的な「4」運動が必要。
9:一般的なカップ麺の待ち時間を4分に設定する
新しい麺の開発さえできれば実行可能。
・・・
今まで挙げた例は、効果は高いだろう。
しかしその実現度にはいささか疑問が残る。
まずは「4、悪いやつじゃないよな」という考えに補正していく個人レベルでの努力が必要となるだろう。
以上。
不吉な4のイメージアップ
昨日からのつづき。
【あらすじ】
なぜか嫌われる数字の「4」。
その尊厳を取り戻すため、どのようなことをすればいいのだろうか。
=====
「4、嫌われる原因を考慮してイメージアップをはかる」を考えてみよう。
実は、なぜ「4」が避けられる数字なのか、よく知らない。
「シ」と読める事で「死」を連想させる。
これしか思い出せない。
正直、小学生の下校中話題のひとつくらいにあるもので、だじゃれである。
以前書いたかもしれないが、1文字のだじゃれというのは、もう自然発生的な何かであり、それをユニークなものとしてとりあげることすらはばかられるべき。
他に何か決定的な「4、やだよね」感を発するものがあるはずである。
ここで、生物の本能とも言うべきある性質に注目してみよう。
「鶏は弱い個体をみんなでいじめる」
ある社会的構造において、何かのバランスを保つシステムとしてそういったものがあるらしいのだ、にわとり。
「しっぽの切れたトカゲは村八分あつかい」
とかげに「村」があるのかどうかがかなりアヤシいが、まあ話としてはそんなこともありますか、という感じ。
話を戻すと、いまいち嫌われる原因の見つからない「4」という数字は、もっと些細(死に通ずる発音、などよりもより些細)なことが原因で嫌われるようになってしまったんじゃないかと思えるのだ。
「4は他の数字より弱かった」
にわとりの件である。
数字に強い弱いかを定義するのは難しい。
その用途が多岐に渡っていて、数字の存在意義自体がその用途そのものなので、数字唯一の個性である大小を強弱に合わせる事はあまりに無理があるわけだ。
ということで見た目で考えてみると、僕個人として「4」は結構強い部類に入る気がする。
なぜかと言われても困るが。
「4のしっぽは、いつも切れている」
とかげの件である。
ここで難しいのは「数字のしっぽ」がいったい何なのかという点だ。
「数字のしっぽ」。
これだけだと、解釈しやすいように書かれた数学書のタイトルみたいになってしまう。
さらには数字の強弱を考える以上「各数字のしっぽ」「各数字の、しっぽが切れた状態のかたち」なども知る必要があり、もはや収拾がつかない。
やはり見た目で考えるべきだ。
と、これまた僕の見た目印象だが「4」は他の数字よりもしっぽが多いくらいなんじゃないかと思う。
しっぽ、切れてないよたぶん。
「4、嫌われる原因を考慮してイメージアップをはかる」のは、その嫌われが何に由来するのかがわからないため、軽く頓挫した。
ここはとにかく4が好まれるような活動を行っていく必要があるようだ。
次回へ。
なんて不吉な、数字だ4。
眠れなくて、目を覚ます。
ケータイを手に取ると4時44分。
不吉だ。
今日は4日で、やはり不吉。
ケータイを置こうとして、そこにはちょうどめがねも置いてあったようで、それもろとも床に落ちて大きな音を立てる。
早朝に大きな音を立ててはだめだ。
落ちる瞬間、ケータイへ「すまんお前もうすぐ落ちるぞ」と教えてあげられたなら、少しは心の準備ができただろうか、ケータイ。
眠れそうにないので机に向かう。
指先が痛い。
寝ている間に爪でも噛んでしまったのだろうか。
それともダークフォースみたいなものが指先から勝手に放電したのだろうか。
ふとんは紫色に染まっていない。
ベビーローションを手に取ると、必要以上にどばっと出る。
出過ぎたクリーム、あるいは歯磨き粉をうまく容器へ再注入することはできないのだろうか。
あれ、歯磨き粉って言い方古そうだ。粉のところが。
今のチューブのやつはなんて言うんだ。
話は全然違うけど、歯磨き粉をフリスクの容器にみっちり詰め込んでおいたら、「ウォータリングフリスク」として認識できなくはないんじゃないだろうか。
朝5時。
何か、運を使い果たしてしまったような。
叶わないものにここ数年の運をベットしてしまったのような。
なんだか、4時44分から不幸の連続である。
そしていま、朝5時。
5時に寝ていないってのも、どうも。
ということでまずは4を不吉なものではないという考え方にシフトする予定。
次回
「4」のイメージアップ戦略
心、寄り道をする。
A:これは小さい頃からの癖なので、どうしようもないんですけどね。
A:自分の考えがコントロールできない、っていうか。
B:というと?
A:自分の考えに逆らって、勝手に最悪を想像してしまうんです。
A:例えば歩道で小学生がこちらに向かって歩いてくる。
B:ええ。
A:すると、その子が転んで車道へ出てしまう事を想像してしまうんです。
A:もちろんそんなことはない、と考えるんですけど、別のところではその事態がどんどん悪い方向に向かっていく。
A:最後には、自分の上着をどうかけてあげるか、まで行き着いてしまうんです。
B:それはなんだか大変ですね。
A:混雑している駅のホームで、電車の警笛が聞こえてきたら、もう大変です。そんなことにはならないって思うのに、一方では最後の言葉は何にしようか、なんて考えてしまう。
B:心配性なんですかね。
A:だけならいいんですが。
B:ちなみに今はどうですか。
A:今はだいじょうぶです。特に何も悪い発想は出てきていません。
A:けど、何かきっかけができてしまったら、わからない。何か心配になってしまうかもしれません。
B:たとえば?
A:えー、たとえば、今カーテンを閉める音が聞こえたら、最終的には動物病院で泣いている感じになります。
B:けっこうなドラマが展開されるんですね。
A:勝手に想像してしまい、しかもそれが最悪の出来事に行き着いてしまうんですから、つらいです。
A:もし香水のかおりがしてきたら、たぶん「宇宙人め、生体実験ばかりするな!!」で終わりますね。
B:じゃあ、今わたしがあなたに対して拳銃を向けたら、どうですかね。
A:さっき考えていた「最後の言葉」を、別の言葉に考え直すと思います。
B:電車で来たんですね。
スクーター
家に、ほとんど乗っていないスクーターがある。
レトロな雰囲気のもので、なかなか高価だったもの。
しかし乗らない。
そもそも使用するほど、遠くて線路が行き届いてないところへ行く事がないわけだが、同時に怖かったというのがある。
一度乗ってみたら、怖かった。
それは「特に何もせず、グリップをぐりりとやるだけで走る」ことへの違和感だった。
車はどうか。
車はすごく大きくて規模もでかいことが見て取れるので、「まあアクセルを踏めば進むくらいのシステムは携えているのだろう」と思える。
しかしどうだスクーターは。
ほぼ自転車じゃあないか。
しかしぐりりとするだけで、すーっと進む。
やたら進む。
少しの労力ですいすい進む事が、信用ならない。
なんかあるんじゃないのかと疑う。
アクション映画では、たいていの車はエンジンをかけたときに爆発する。
スクーターのグリップに手をかけるとき、そんなことを思い出す。
爆発はいやだ。
死んでしまうし、周りにも迷惑がかかる。
タイヤから刃が出るのだろうか。
グリップのぐりり度合いによって刃の出方が変わるのである。
意味はわからないが、とりあえずそれはもはや交通手段としてのスクーターはどこにもなくなってしまい、ただ刃が出入りする仕組みの、何かだ。
しかしスクーターは何かの仕組みに落ち着く事なく、ちゃんと進むのだった。
その素直さが、また怖く。
レメゲトン・プルソン
古の悪魔達は、今はまた別の力を獲得した、かも。
その、別の力とは!!。
※「レメゲトン」カテゴリのスタンスについて
【プルソンさんのソロモン時代】
ライオンの頭を持つ男性の姿をしていて、手にヘビを持って、熊に乗って現れる。
子供の姿で登場することもあるという。
隠された財宝を見つけ出すほかに、過去と未来のことを召還者に教授する。
【現在のプルソンさん(予想)】
ヘビそのものが現在のプルソンである。
プルソンに言わせてみると、現在の姿とソロモン時代の姿は全く変わっていないという。
そのことが示すのは「ライオン男の手に持たれていたヘビがプルソン本体で、ライオン男と熊はたまたま」ということである。
プルソンは続ける。
「なんか知らんが、たまたまライオン男に捕まっていたとき、召還されてしまったから、これですよ」
プルソンは、ライオン男に持たれている印象の流布が、気に食わないのだ。
「しかもそいつが、なぜか熊にまたがるんだもの。もうわけが分からない」
プルソンにとって、ライオン男も熊もなじみではないのである。
「そもそも、そんなにライオン男がいないでしょう」
「それに、そんなやつにまたがらせる熊もよく分からない」
「もう本当に、わけが分からない」
本来の姿というべきか。
プルソンは特に何の展開も発生せずに、熊にまたがったライオン男から解放され、現在に至る。
「そりゃあ誰だってライオン男のほうに目がいきますでしょうよ」
「それにしても、何もなしにただ自分を放して去っていったのも、困りますよ」
「自分を放して去るとき、すっごいゆっさゆっさなってました」
「熊は乗りにくいのか、すごくゆっさゆっさしなくちゃ乗れないみたいなんですよ、彼」
「そんなんだったら、熊なんかに乗らなきゃいいのに、って思ってましたけど、今はちょっと懐かしさもありますね」
「ただ本当に、わけが分からなかったけど」
能力はもちろん、脱皮した皮を財布の中に入れておくとお金のたまる事で、現代では特に召還しなくても春先、勝手に目の前に現れたりする。
ただし悪魔なので、ヘビだからといってもいじめたりするといけない。
プルソンをいじめると、どんなに財布の中にヘビの皮を入れておいても、全てかわはぎに変わってしまうため、結果的にお金が貯まらなくなってしまう。
財布にかわはぎが入っていると外食ばかりしてしまうという効果もプルソンは発揮しているため、お金はたまらないし太るしと、かなり悪魔的な仕返しとなり、注意。
「ヘビをいじめると下腹が育つ」
現代版プルソン研究家、談。
画鋲その2
昨日からのつづき。
【あらすじ】
画鋲を落とした。
そのとき、なんか気づいた。
「画鋲を落としたとき、人は2つ、探し物をする」
=====
画鋲を探し出したとき、人はもう一つ、探し物をするんである。
「画鋲の刺さっていた壁の穴」
壁の質にもよる。
頑丈な壁なら、画鋲の刺さっていた穴に再度画鋲を投入することができるだろう。
だから探すのである。
一方で、ちょうど壁のやわい箇所に穴があった場合は、そこに画鋲を刺しても十分な固定感を得られない可能性がある。
壁の穴は増えてしまうが、新規開拓が必要な時期なのである。
ただし、こういう人もいるかもしれない。
「画鋲を探し出した。せっかく画鋲が見つかったのだから、何かピンナップでも貼るか」
この場合の「画鋲をなくしたときの、2つの探し物」は、以下の通り。
画鋲
ピンナップ
先日書いたように「画鋲を落とすシーン」はたいてい既に何か貼られていたものをどうかするときであり、それを差し置いての、いきなりのピンナップ登場はいささか唐突すぎる。
しかしその何かに飽いた上での画鋲落としなのであれば、心機一転、ビールを手にした水着女性のポスターを探そうという気にもなるわけである。
このポスターを貼るとき、前の画鋲のあとを利用するかどうかは、気分次第。
また、こういう探し物もあるだろう。
画鋲
画鋲をまとめているケース
画鋲がお役御免になったとき、私たちは家のどこかに「画鋲をまとめているケース」があったことを思い出す。
しかしこれがなかなか見つからないことは、みんな経験ずみ。
見つからない場合、どうするか。
画鋲だけを、もともとついていた壁の穴に戻してしまうのである。
それは画鋲としてかなり残念な、意味のない状態。
そしてこの意味のない状態が、より「画鋲が落ちたときの存在感」の増幅に一役かっているわけでして。
画鋲その1
カレンダーをはがすとき、それを止めていた画鋲が外れ、床に落ちてしまった。
「画鋲は、落ちたときが一番存在感ある」
今まで気づかなかった。
壁あれば画鋲は当たり前のようにあるわけで、それを注目しようとなんて思わなかった。
あるときは「ああ画鋲がついているな」くらいだったし、またあるときは「はえがいるな」くらいだった。
それが落ちたとたん、とにかく画鋲しか見ないようなモードになるんだもの。
「画鋲が落ちているらしいエリア」
その捜索に労力を割かない人間はいない。
いたとしたら無休ではだし生活をしていて足の皮が大変な事になっている人か、その後そのエリアに人が立ち入る心配がないことが分かっている人。
あるいは痛みを快感に変換できる人だ。
僕は快感コンバートできないし、足の皮は人並み。
たいがい毎日そのエリアに立ち入るから、もう、すぐ画鋲探しを始めた。
「画鋲が落ちているらしいエリア」なんかに寝てられないから。
次回
「画鋲を落としたとき、人は2つ、探し物をする」