メモしたときは案外面白いと思っていたものでも、後日それを見ると自分が心配になる。
そんなものも数多い。
「かぴかぴの米粒がついていたらいやなものは何か」
かぴかぴの米粒は、その主成分であるデンプンがβ化したもので、炊いて調理した「ごはん」がもとの生米に戻ってしまった状態とも言える。
β化というところだけを見るとなんだかかっこいいが、我々の体験からしても、あまり「かぴかぴの米粒」は歓迎されるものではない。
袖などについていて、気づかず電車に乗ってしまったかと落胆しながらそれを取る。
そのとき衣類の繊維を巻き込んで剥がれるそれを見て、「食べられるかな」とすら思わぬ。
そんなものがついていたらいやなものとは何か。
メモには例が一つもない。
普通に考えると卒業証書やトイレットペーパーの三角に折られたその頂点とかだろうし、本気なら箸先だろう。
しかし冒頭に連ねたように、かぴかぴの米粒は何についていてもいやなものである。
ENTERキーについていてもいやだし、シェフが巻いているストールみたいなやつにもよくない。
歯ブラシのさきにもだめだし、冠婚葬祭のときに着用する黒のネクタイにもいかん。
スマートフォンのタッチスクリーンについていたらもうそれを使いたくなくなるし、ボーリングの球の穴付近でもそうだ。
そもそも一番そういったシーンに陥りやすい「しゃもじ」ですら、いやなものはいやだ。
こうなるとむしろ「かぴかぴの米粒がついていたら良いものは何か」という方向性も考えられるが、ここは当ブログのツンデレなところで、実はさきほど例としてあげたもののいくつかが「良かったり」するわけである。
卒業証書だと、その内容の読点(、)の箇所だけかぴかぴの米粒だったりすると良い。
「あれ俺、服部栄養専門学校卒業したっけ」
そんな気分になる。
シェフが巻いているストールにかぴ米がついていて、それを咎めた客に対して「これが本当の正装なのです」と答えられたら、どれほどの人が反論できるだろうか。
そこまで踏まえると、ストールについているのは良いんである。
いやだ、あるいは良いということなら、今の所は「右頬」とかが僕のなかでは有力だ。
これは出社した重役の頬でもいいし、変な話ミイラの頬でもいい。
「頬」なら、それぞれにいやなドラマ、良いドラマが期待される。
投稿者: nimbus7942
こねる
「モチのつける洗濯機」というものを考えたとき、「モチをつく、あるいは洗濯をするという動作に類似した他のやつはないか」という発想を、普通するものだ。
以前、餅つき機について触れたことがあったと思うが、そのときの餅つき機はパン生地こねも兼ねていたと思う。
要は、作製時の動作が似ているのだ、モチとパンは。
そうなるとハンバーグ生地も行けるのではないか。
カレーを焦がさないようにもできるのではないか。
そして洗濯をすることができるのではないか。
とアイデアが出てもおかしくないのである。
餅つき機に入りそうな衣類は靴下1ペアくらいだろうから、逆に洗濯機。
米粒の抜け落ちてしまいそうな穴をふさいで、餅米と水を少々。
ドラム式ならなんとなく、昔あった「ぽんがし」機にも見えて、効果的だ。
そして「念入り仕上げ、毛布コース」。
乾燥を終えたブザーがなり、中をのぞいた僕たちは無造作に転がっている大福を見るんである。
そしてお母さんが一言。
「内緒で小豆も入れてみたの」
いつも一手先を行く洗濯機業界。
次の標的はあなたかもしれない・・・。
包丁を使わずにイワシを三枚におろす方法。
嘘をついたら、えんま大王に舌を抜かれるというものに、何歳まで恐怖を覚えていただろうか。
そしてそれが薄れるとき、気になりだすのが「嘘をつかない人間はいないだろう」ということだ。
生まれる前、あるいは生まれてまもなく亡くなってしまった場合以外。
幼くして欲しいものを手に入れるための嘘泣きや行きたくないための嘘寝、嘘体調不良。
どれも正直な所、罪悪感を受けずにやってしまっているだろう。
この辺を無垢でクリアしたとしても、まずくてもおいしそうに食べる仕草やお世辞。
えんま大王に「おまえまずいのをおいしそうに食べたそうじゃないか」とにらまれたら、私たちの認識では「そんなあ」となるが、まあ嘘なので舌抜き対象になる。
とまあ、とにかく人は程度善悪あれ、嘘をついているものなのである。
そうすると心配なのが「舌を抜くためのやっとこがぼろっぼろ」というところだ。
亡くなった人が来る度に抜くものだから、だ液によってやっとこが腐食。
すぐに使えなくなってしまうだろう。
こうなると、地獄省(憶測)ではこういう対応をとらざるを得ないことは明白だ。
「えんま大王が「いままで嘘をついたことがあるか」と質問し、そこで嘘を言わなければ舌抜きなしとする。」
そこで嘘を言わなければというのは、結果的には「私は嘘をつきました」というのが正解なわけである。
しかしどうだろう。
えんま大王に「いままで嘘をついたことがあるか」と言われたら、もう人間観念してしまうのではないだろうか。
「すいませんついていました」と。
するとこの対応は観念した人たちの吐露により、たいがいクリアされてしまうのである。
やっとこは錆びずに済んだ。
しかし舌抜きは全く行われず、鬼たちの間で受け継がれていたその技術のほうが、錆びていくだろう。
あるいは舌抜きがなくなるので、鬼たちの仕事は手抜きぎみになる。
それも困る。
地獄の権威とギャグの質に関わる。
ということで、現在の地獄省では「舌抜きは抽選」が採用されているのではないだろうか。
確かめる術ないですけど。
誰もいなくなったって。
日本では「そして誰もいなくなった」という名の、アガサ・クリスティの推理小説がある。
とことわるのもどうかと思うくらい、有名らしい。
「そして」だ。
この接続詞は、一般的にはその前に何か文章があって、それに付け加える形で更なる文章を紐づけるときに使用する。
ただ、この「そして」の前に文章はない。
それはタイトルであるからかもしれない。
そもそも原題はまた違うらしいし。
しかしかなりいい雰囲気を出している。
小説の内容がまさに「10人くらい人がいましたが、結果いなくなりました」ということで、しかもそれが一人ずつなものだから。
で、話は変わるが、この「そして」に、接続詞たる役割を思い出してもらうべく、勝手に「前の文章」を考えてみる。
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「奥さん、あっちの魚屋の方が安いらしいわよ」
「そして誰もいなくなった」
館内放送で、かわいそうなぞうの朗読が始まった。
「そして誰もいなくなった」
お母さんは身支度を済ませると玄関にかぎをかけ、会社に向かった。
「そして誰もいなくなった」
街頭テレビで、ついに力道山の空手チョップがはなたれた。
「そして誰もいなくなった」
「ちょっと、誰かいない、ねえ・・・。なんだよ、みんなどこ行ったんだよ・・・」
「そして誰もいなくなった」
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どうだろう、ちゃんと誰もいなくなっただろうか。
あらすじで遊ぶ。
2時間ドラマの1時間目あたりで挿入されるあらすじコーナー
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【あらすじ】
湯のぼせ警部の白石まさひこは、美人新聞記者の夏目とともに訪れた別府温泉街で知り合った骨董商多田貫の死体を偶然発見。
そのとき現場に落ちていたべっ甲の櫛が事件に関係しているとにらんだ白石は、三重県にある多田貫の実家で後家に一目惚れする。
一方別行動の夏目は旅館いまなぎにて高級懐石料理に舌鼓を打ったその夜、第二の殺人に遭遇。
そこで包丁を手に立ちすくんでいた板前の伊近が連行時に口にした言葉「りんみょ、まるかりよーて」から、白石がのぼせてしまっていることに気づく。
連絡を受けた白石は後家に必ず戻ってくることを伝え、お守りにと自分の胸毛を2本託し、夏目と合流するために京都へ向かう。
そんな白石を超望遠トレーサーで監視する衛星軌道上の宇宙船ガーダ。
不適な笑みを浮かべる地底帝国首領のアバハグ。
そして奔走する白石をあざ笑うかのごとく、第三の殺人が福建省のとある農家の納屋で起こる!!。
引き続き「湯のぼせ警部白石の事件簿 スペードのエースは眠らない」
お楽しみください!!。
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これなら。
ファンになりたい。2
昨日からのつづき。
【あらすじ】
何かのファンになりたい。
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考えてみると、例えば僕は「夕食ファン」ではないだろうか。
ほとんどの場合で、毎日夕食を欠かさない。
その必須な感じが「ファン」ではないだろうか。
しかしこういう反論があるだろう。
「ファンは生きていく上で必須でないのに、それを欠かさないようなことを言うのだ。本当に必須なものは「しかたない」だ」
必須なものは愛好の対象外である、という考え方だ。
この考え方だと「呼吸ファン」や「見ファン」「触ファン」なども「ファン」ではないというレッテルを貼られてしまう。
しかし本当に、必須なものは「しかたない」だけなのだろうか。
すでに挙げているように、呼吸は生きていく上で必須だ。
しかし「さわやか高原での深呼吸」はどうだろう。
必須プラス何かの影響で、それは「しかたない」どころか好んでやってしまうのではないか。
あるいは見ること、触ることは必須に近い。
だからといってその全てをしかたなしにやっているとは到底思えないのである。
もちろんこれらを細分化することで、前提を保持しようという考え方もできる。
「今挙げられた例は、深呼吸ファンであり、好条件下でのみ見ファン、触ファンである」
「それらは必須ではないから例外的にファンと見なせるが、やはり呼吸、見、触自体はファンとは見なせない」
「消費ファン」はどうだろうか。
生きていく上で、消費者たる我々にとって消費は必須で、毎日その才能をいかんなく発揮している。
それは単に「しかたない」のだろうか。
例えばデジモノステーションとか?。
いやあ好んじゃうけどなあ。
必須じゃない消費なのか?。
本当にそうかなあ。
ファンになりたい。
社会人としての世間話で言われているらしいのが「宗教、政治、野球は持ち出すな」で、もちろん例外その他多そうだけど、案外的を得ているのだろう。
どれも個人的、かつ理由はともかく固執しやすいものばかり。
そのなかでも一番「軽め」と思われるのが「野球」だろう。
「ファン」と呼ばれる彼らは、歴史上で球団間に起こった事件ですらあたかも自分たちの問題であるかのごとく扱うことがある。
それが重度である可能性も考えると、むやみに「ドアラきもい」とかは控えた方がいいのである。
いや、ドアラきもいは褒め言葉か。
先日、「ファン」という言葉を使ったとき、自分はあまり何かのファンであったことはないなと、がっくりした。
ゲームは好きだが、最近は30分くらいやればもう十分という気分で、1日1時間のノルマも達成できない。
読書もあんがいだが、最近は発売日に買うような本を、そもそも調べない。
何かのファンなら、その対象の挙動に一喜一憂、もう少し日々が楽しいような気もする。
知人がアイドル狂時代だ。
口を開けばももクロももクロであり、楽しそうだ。
今から僕もファンを始めることができるだろうか。
ファン初心者に向いている「対象」はなんだろうか。
いろいろあるからな、対象。
そのなかでも一番「重め」と思われるのが「宗教」だろう。
「信者」と呼ばれる彼らは、歴史上で教団間に起こった事件ですらあたかも自分たちの問題であるかのごとく扱うことがある。
それが重度である可能性も考えると、むやみに「ビブーティむせる」とかは控えた方がいいのである。
いや、「ビブーティむせる」は褒め言葉か。
器官の病を治しそうという点において。
ということで、ここで「ビブーティ」を例に出すということはまぎれもなく「重め」と僕が感じているわけで、とにかく「宗教ファン」は敷居が高い。
運転
青信号になって横断歩道を渡っていると、背後から「運転代わるよ」という女性の声が聞こえてきた。
振り返ると、乳母車を押す旦那さんにかけた言葉のようだ。
僕はその夫婦のファンになった。
僕らは何をどこまで「運転」と表現してよいのだろうか。
そのことに気づかせてくれた。
例えば、これも夫婦関係ではあるが「夫の手綱をにぎって」という表現を聞いたことがある。
これだけでも十分「運転」に値するだろうが、ちゃんと言い直してみる。
「夫を運転して」
微妙でまずは使えないだろうが、ニュアンスは損なわれていない。
「夫をうまくあやつって」だ。
かぶと虫は、おしりを指でこちょこちょすると慌てて前進する。
そのやり方では、進行方向をある程度意図的に操作することができる。
このかぶと虫は、運転されているのだろうか。
チョロQを引く子供に対して「僕にも運転させてよー」
英単語としての「drive」なら全ていけそうだが、あくまで日本語としての「運転」。
それも「車の運転」の「運転」だ。
バナナシュートはどうなんだろうか。
あれは、サッカーボールを蹴り具合で曲げるのだろう。
繰気弾は。
ドラゴンボールに登場するヤムチャが放つ、操作できる気のかたまりだ。
タイピングは。
「キーボードを運転して」でぎりぎりいけるような気もする。
自分はどうだ。
いや、これはむしろ他のものよりも「運転」が合いそうだ。
ネタが浮かばない。
そんなとき「俺は自分を運転できているのか」と思う。
すると背後から聞こえるのだ。
「運転代わるよ」
何かが起こりそうだよストーリー アンリミテッド
ヒロユキが12歳の頃、そのいとこのヨシミは、ATMの順番待ちで横入りされていたっけ。
サトシはそう思った。
ヨシミの同級生のカズヒロは「ここまで知名度が高いのなら、「アツはナツい」を辞書のギャグの項目例として載せてもいい」と思っていたし、カズヒロと苗字が同じなタカヤは、ガンダムの股間についているVマークをビクトリーのVではないな、と考えていた。
カラオケでアンコールの本当の意味を模索していくことが趣味だったトモミはタカヤのことを知らなかったが、耳かきのスコップ部分のカーブ角度にはこだわりたいと思っていたし、その弟のツバサは4回目の手術をした。
そんなツバサと同じ肺活量のハムドが防人だった頃、学校の一緒だったシンジはアナログアンテナで水脈を見つけ出すことが、ナミはジャンプ中キックからのめくりが得意だった。
ナミのめくりを実学的に学んだハルゾウは「みこすり半劇場というものの中では、とにかく「半」の部分が気になる」と言っていたが、その将棋友達のゲンジは、基本的に無傷だった。
ゲンジのクローンのオサヨは気の強い女性で、厚着をすることで自分を大きく見せようとしていたけど、それを愛おしく見ていたヘイハチはアシンメトリーヘアだった。
この二人は間違いで手錠を片手に付けられた状態になっちゃって。
オサヨなんてずっと長袖で手錠を隠そうとしていたけど、その結果、ただの仲良し風になっちゃってた。
その時代、ショウジは野球の審判をしていて、ボールパーソンからもらった直後にそのボールを捨ててみたいと思っていたが、ピッチャーをやってたトモキは、ボークの意味が分からないので、とにかくてきぱきやっていた。
そんな僕らが、鍋パーティーをすることになりました。
よろしくお願いします。
注
何かが起こりそうだよストーリー
何かが起こりそうだよストーリー リターンズ
何かが起こりそうだよストーリー プレリュード
何かが起こりそうだよストーリー プロローグ
何かが起こりそうだよストーリー ノクターン
何かが起こりそうだよストーリー エチュード
昔は遊び道具は自分で作った。
昔は遊び道具は自分で作った。
そういって悲しそうな笑みを浮かべる人もいるだろう。
その笑みが「今はなんでもあるから、そんなことしないだろう」というものに起因するのなら、遊びざかりの子供たちの周りに「お手軽お遊び」を与えていない大人たちに責任があるのではないだろうか。
あるいはそんな心配自体が無意味かもしれない。
将来は「昔はよくプログラム作ってゲームしたっけな」
さらに将来は「昔はよくFXで小遣い稼いでたっけな」
最近は「調子の悪いプレイステーションは立てて起動すると読むことがあったっけな」
ところで、実は子供はいつだって遊び道具は自分で作っている。
誰でも覚えがあるはずだ。
自分ルールというものを。
いつか書いたかもしれないが、僕は「前の自転車にライトを当てて反射板を光らせると1点」であり、「マンホールを踏むと1点」という自転車時のルールがあった。
四角いマンホールは4点。
床の木目が迷路になったことのある人もいるだろうし、棒状の植物と空き缶があれば相応の球技が誕生するだろう。
そういった点では、昔と今で違うのは「より面白い遊びへ更新される頻度が高い」という点だ。
その結果「自分では作れないものに更新されてしまう」ことが多いわけだ。
ただし「自分で作れるものに更新される」ことがないわけではない。
それは、大人に粘土を与えればわかる。
けっこう、持つのである。
累計30000点目を軽自動車で獲得する、ファンファーレはエンジン音に消えて。
今粘土がないので、こんな感じ。