来世がいっぱい。

今年の5月ごろに、ある場所で野生のカブトムシの幼虫を5匹ばかりつかまえてきて飼っていて、気づけば4匹は成虫で生まれていて、もう1匹はどうやら成虫後に逃げてしまった。
そしてその4匹もさすがに11月ともなればもう死んでしまっていて、そう今は9月17日ではなく11月10日で僕は泊まり明けだ。
そんなカブトムシたちは、飼育ケースの土の中に卵を産んでくれていた。
これはうれしいことなのであるが、その事に気づいたのは既に土の中にキャラメルコーン状の幼虫が大量に発生していることがわかったときで、結果卵は見ていない。
僕は卵のまま越冬するのかと思っていたのだが、そうではなかった。
まだ成虫が生きているときにもう生まれてしまっていた。
透明なケースからちょい見えする幼虫はおもしろいが、やはりイモムシタイプのやつなので、外気日光には弱そうで、こちらの心情的にもあまり触りたくない。
そんな要因が重なって、いったい何匹いるのか、ぜんぜん分からない。
もう、たぶん来年5月くらいまでわからない。

難解

「ジョジョの奇妙な冒険」という漫画には「エニグマ」という登場人物がいて、その人は「恐怖した相手を紙の中に閉じ込める」ことができる。
劇中にて主人公のしぐさを観察。
恐怖したときの「くせ」を見せた時、見事に紙の中に閉じ込める事に成功していた。
本当にそんな能力があったら、まあ便利な事は便利なのかもとぼんやりしていると、気になるセリフがあった。
どうも「物」も閉じ込める事ができるらしく、例えばラーメンをファイルすることができるというのだ。
おそらく「物」を閉じ込めるときは「恐怖のしぐさ」なんてものは考えないでいいのだろうが、どうだろう。
もし「物」でもそれが必要だった時、例えばの「ラーメン」。
「ラーメン」が見せる「恐怖のしぐさ」とは何だろうか。
そんなことを考えた時、間違いないのは「ラーメンが恐怖のしぐさを見せるとき」が「すすられるとき」以外には考えられないということである。
まあ、確かに茹でられているときも湯切りも怖そうだが、やはり食べられてしまうときが一番怖いに違いない。
見せているはずなのだ、ラーメンは。
すすられるときに恐怖の仕草を。
おそらく「エニグマ」はラーメンをすするふりをして恐怖させ、紙に閉じ込めるのだ。
したがって、ラーメンをすするときに白目むいて下を見ているやつは十中八九エニグマなので、要注意だ。

こぼれだまシフト その2

昨日からの続きです。
【あらすじ】
「こぼれだま」ってなによ。
=====
「隠し球」が「隠し球」以外の何者でもない点に対して、「こぼれだま」はちょっと気をつけなければならない。
それは一見、たいがいの球技にありそうなところである。
例えば、僕が「こぼれだま」は「サッカー」あってこそ生まれた言葉だと先日記載したが、そのサッカーについて。
一般的にサッカーでの「こぼれだま」は、敵味方がこんがらがってしまったときに、追っていたボールが両チーム意図せぬ方向へ転がっていく。
調べていないがそういう感じのことだろう。
球技において球というのは、得点に絡む重要なものであるから、両チームが意図しない状態というのは、もう「球が球の仕事をしていない」ようなものである。
さて、サッカーをこう、45分とか見てみよう。
このとき、我々は球が「仕事をしている時間」と「仕事をしていない時間」を明確に分ける事ができるだろうか。
要は、どこからどこまでが「こぼれだま」で、どこからどこまでが「芸術的なパス」なのか。
難しいのではないだろうか。
しかし、サッカーにおいてこうも明確に切り分けられない「こぼれだま」であるが、やはり「サッカーが生まれたあとにこぼれだまが生まれた」と僕は考えたい。
ラグビーを見てみよう。
あれはよく知らないが、なんとなくサッカーっぽい規模のスタジアムで、サッカーっぽく大人数で球を抱いたり追いかけたりするスポーツだったと思う。
僕は、ラグビーについては、球は100パーセント「仕事をしている」と断言する。
それは、あの球の形状を見れば分かる。
あっちいき、こっちいき。
そもそも「両チームの意図しない状態」を維持しようとしているのだ。
だから、「球の仕事をしていない」ことが仕事のようなもので、あいつはとにかく全力で仕事をしている。
土曜日も仕事してる感じだ。
で、サッカー以外でのこぼれだまをこう思い出そうとしてみると、ほらやっぱり爆笑問題が思い出されちゃうので、終わりに。

こぼれだまシフト その1

僕が最近、これは確実だなと思えるようになってきたことは「こぼれだま」という言葉は「サッカー」が生まれたあとの言葉であるということだ。
あの、「こぼれだまを誰某がシュート!!」という、あれである。
当たり前なことではあるが、結構意識していないと忘れがちな感じもする。
意識が必要である。
そして同時に、「こぼれだま」の定義はなかなか難しいのではないかという点についても気になってきた。
例えば野球の「隠し球」。
これも「こぼれだま」と同様、「野球」が生まれたあとの言葉であろう。
それはそうだ。
もし、「野球」が生まれる前から「隠し球」というものがあったとしたら、それはどんなものか。
想像すらつかない。
いや、うそである。
想像つかない訳ではないが、想像した多くが、語るにはあまりに爆笑問題の二人に足を向けて眠られないことであり、申し訳ない。
まあそれは置いておいて、「隠し球」はわかりやすい。
まず、人類の半分がね。
ああ、置けていない。
それはひからびて引っ付いたみそ汁のわかめのように、僕の心にへばりついてしまった。
それでも涙をこらえてそれを置き、「隠し球」がいかに定義しやすいかというと。
それは「隠し球の行為」以外に「隠し球」と言えるものがない、というところだ。
野球選手、主に守っている方のチームの誰かが、おもむろに球を隠すのである。
これ以外、「隠し球」に相当する行為は、日本では知られていない。
すなわち、今日あなたがすること全ては「隠し球」ではないとほぼ断言できる。
かなり突飛な事をしてくれてもかまわない。
それも「隠し球」ではないから。
そういう点でも、我々は「隠し球」を「隠し球」以外のものに勘違いする事はない。
ところが「こぼれだま」である。
っていうか、長くね、これ。
次回。

イスラム帽子を探す、西荻窪で。

調べてみたが、布状のイスラム帽が見つからない。
しかし今回の僕はしつこかった。
自分でも感心するほどの調べにより、何なら西荻窪のアラビアンな雑貨を売っている店があることを突き止めたのだ。
ここを知るには多大な犠牲を払ったのだ。
多少の電気料金、睡眠時間。
イスラム帽があってもらわなくては困る。
だがなかった。
きらびやかな雑貨はあったが、イスラム帽はなかった。
しかも店の奥から出てきた店員さんが笑顔だ。
用事のないお店の店員さんがやさしいのは、もう申し訳なさすぎて心が苦しいのである。
すまない異国の店員さんよ。
あなたが僕の求めるイスラム帽をかぶっていてくれたら、「それほしいんだ」と言えるのだが。
僕には彼にイスラム帽を示す手段も思いつかず、店をあとにした。
夏は夜。
夏のいいときにはまだ時間があるので、このまま吉祥寺まで歩く事にする。
そちら方面の商店街を歩いていくと、面白い店があった。
何やら奇妙な形の鞄やオブジェが並んでいる。
それは主に虫をかたどったもので、男の子にはうれしいねえ。
よくできていたので店内をうろついてみると、帽子が売っている。
それは僕の求める帽子ではなかった。
布状ではなく毛糸。
しかも何やらもこものの装飾。
それでもツバのない、かといってニット帽ほど深くもない。
イスラム帽と呼べなくもない帽子。
買ってしまった。
その帽子は全然悪くはないのだが、なんとなく傷心の購入。
センスのいいお店の紙袋が夕陽に照らされた。
布状のイスラム帽探し。
イスラム圏のゲームなら「旅立ちの村」で50Gくらいで売っていそうなのに。
ともかく今回の散策を顧みる限りは、それはどうもライフワークにもなりそうな雰囲気なのである。

イスラム帽子を探す

ディズニーシーのキャストさんがかぶっていた帽子がサイコー過ぎて、これはちょっと本腰を入れて探してみるかとネットで調べてみた。
というのも、その形状の帽子(サムネイル参照、すぽっとかぶるヤツ)の名称が今まで分からなかった。
そしてそれほどちゃんと探していなかった。
調べていくと、名前が判明した。
「イスラム帽」というらしい。
僕がずいぶん長い間かぶり続けていた帽子はイスラム帽だったのか。
少し感慨深い気持ちになっていると、なんと専門サイトを見つけた。
なんてすてきなんだ。
と、かなりすてきなのだが、肝心の「ディズニーシーのキャストさんがかぶっていた帽子」的なものがない。
それは確か布状の素材だったのだが、このサイトにあるイスラム帽は全て手編み状である。
布状のものはないのだろうか。
確かに。
確かに簡単な形状だから、手作りという選択肢もないことはない。
布状のやつを作ってしまえばよいのだ。
しかし、僕には妙な消費者気質のようなものがあり、できれば購入したい。
そして、購入という事は売られているということで、それは需要が複数あったことを示す。
布状のやつが僕の個人プレイではなく、一般的にも認められたものと言い換えられるのだ。
よって購入の過程を踏みたい。
しかしないのだ。

かすかな味

ひとし「なあ、鳩って食べた事ある?」
いやあ、食べた事ないなあ。
外国では食べるんだっけ?
ひとし「そうなんだ。大人の鳩だったけど、おいしかったな」
どんな味だった?
ひとし「そうだなあ。少し乳の風味がするかな」
え?
ひとし「母乳だよ」
え、ちょっと待ってよ。
確か何かの本に母乳の味のする肉の話があったけど。
鳩もそうなの?
ひとし「まあ、そうだった」
それって、あれ?
ピジョンミルクとかけてたりする?
ひとし「えへへごめん。実はそうなんだ」
・・・よくわからないけど、たぶんピジョンミルクって人の母乳の味なんかしないんじゃないかな。
ひとし「・・・まじで?」
あれからひとしは行方不明になり、学校、地域含めて大騒ぎになった。
あまりに突然の失踪だったから、探しようもなかった。
しかし今年。
あれからもう15年が立とうとしているとき、ひとしから年賀状が来た。
「あけましておめでとう。結婚しました。ほんとだ」
あ、あのやろう!!

免許

本日は正直なところ10月の24日で、全然9月の10日じゃない。
そんなある日、電車のモニタでクイズ形式経由でこういうことを知った。
「どこぞの町ではかっぱ捕獲免許がある」
僕がこれをよくないなあと思うのは、この時点で「かっぱ、ほんとはいないよね」感が出てしまっている点。
要は発行している市町村にとって、かっぱはあくまで「捕獲されるかされないか」程度で、言い換えれば「いるんだかいないんだか」。
そして未だ捕獲されていない訳だから、まあいないよね、なわけである。
確かに、かっぱは難しい。
僕も7:3くらいでいないんじゃないかと思っており、7:3は肉じゃがのじゃがと肉との最も良い割合であることが知られていて、この符合は興味深い。
ともあれ、かっぱは難しい。
しかしながら、その免許の発行元が「まあいないよね」と考えてどうするのか。
いる。
いますよ。
見た事ありますよ。
さっき、駅のホームにいましたよ。
お弁当箱からきゅうりの汁が出ていましたよ。
スタバで頭のお皿にはちみつかけていましたよ。
このくらいのことは、発行元の役人さんは言うべきだ。
だから「かっぱの捕獲例はまだない」なんて情報は必要なく、どちらかというと「かっぱと和解した例はまだない」の方がいい。
免許なんてものも、ここはひとつ「かっぱ保育士」とか、かっぱ前提のものを考えた方がいい。
かっぱウェディングプランナーなんてのは、かっぱが卵胎生なのかどうかも考える必要があって面白い。
ただ、これだけはだめだろう。
「かっぱ鑑定士」。
黄桜の件を思い出せば鑑定にそれほどの技量は必要なさそうだし、かっぱで町おこしをしようという人たちからしてみれば、それはかっぱのプライバシーを軽視しすぎているものだから。

鼻痛い

喫茶店などで見かける紙のナプキンがある。
あれは一体なぜあんなに固いのだろうか。
もちろん、本来の目的が鼻をかむことではないのはわかる。
しかし、鼻が垂れるとき、「鼻セレブ」に代表される優しいティッシュが手元にないというのは誰もが経験している事で、国語の教科書にも紹介され間近という噂だ。
そんなときに拭くものがあれば、誰もが試してみるじゃあないですか。
そして試してみたら、あれだ。
吸わない、入らない、鼻痛いの三重苦だ。
鼻水をあまり吸わないし、ごわごわで鼻の中に入りづらい。
そして、そうこうしている間の鼻の痛さだ。
なんなんだあれは。
僕が言いたいのはそれだけだ。

なぜか台北 その54

【あらすじ】
台湾旅行。
=====
あとは、である。
あとは、お土産に勧められるがままにジャーキーや変な絵柄のトランプを買ったり、そのジャーキーが空港で没収されるんじゃないかとひやひやしたり、パスポートを写真確認のところで「お前、nimbus?」と妙に聞かれたり。
多くの旅行者が経験した、通過儀礼のようなイベントのみである。
そして空港からはバスで近所の駅まで行き、そこからタクシー。
タクシーのおばさんに「とにかく誰某の先生に似ている」と絶えず言われ、「そうか誰某の先生に似ているのか」と思いながら帰宅したのである。
台湾には2日くらいしかいなかったわけだが、ホテル周辺だけ見てもその町並みは油絵のようにぼこぼこで面白く、そして腹を満たす手段はいくらでもある。
土曜の早朝から活動的で、なんだか元気だなあ。
そういう印象を持った。
ともあれ、僕は帰ってきた。
2日の旅行でこう、54回もどうこう書くというのは正直飽きてしまったが、一方でそんなに1回を長く書くのもめんどうくさい。
要はめんどうくさい。
そんな感じで54という数字で終わる事になった。
なんなんだ、この中途半端な数字は。
まあ、僕が少年野球のときの背番号は52だったから、そこと何かしら関係があるのかも知れない。
「54-52。あと2人、誰かが死ぬ」
とかありそうだ。
「54-52。2人、まだ台湾から帰ってきてない」
とかありそうだ。
「52-54。2人、このなかに反物質人間がいます」
反物質ってなんでしたっけ?。