ポップ

「公の場」。
そんな言葉が気になるモラトリアムな年頃も、いつかかつて、ありました。
普段の会話でちょろっと使うとまあまあおもろいが、一方で「どこへんが公の場とそうでない場に分かれるのか」は色々考えさせる。
その意味を調べてみると「ある特定の個人だけの場所ではないところ」などとなっているが、何となく分かる。
例えばどこかのスクランブル交差点の真ん中を、誰かが所有しているとは思えない。
あそこを所有するとなると、強力な私兵や、だいたい800mくらいの身長を持つ必要がある。
あそこは「公の場」であろう。
そうなると、例えばそこに普通乗用車で居座ってみたらどうだろう。
こんなところで車を止めるなと言われるが、こう言い返すのである。
「しかしこの車の中は俺のものだ」
これで、そこは「公の場ではないほうの場」に成り得たのだろうか。
もちろんこれはおかしい話で、ただ「公の場」を占拠しているのが人体から車体になっただけ。
この迷惑者は「公の場でないほうの場」を持って来たつもりだろうが、簡単に「公の場」はそれを包括する。
「公の場」は無尽蔵だ。
しかも、スクランブル交差点を行き交う人々が車内をのぞくだろうから、そういう意味では車内も「公の場」に浸食されてしまう。
これでその車が何かしら医療を目的とした特殊な車で、ちょうどこの迷惑者が胃カメラ検査なんかをしていたりしたら、もう大変だ。
彼の胃も「公の場」になりかねない。
こう考えてみると、「公の場でやってはいけないこと」というものがいかに大切なのか、分かる。
車内でポップなダンスをやられるのも困るし、胃の中にポップなアートをスプレーで描かれるのも困るのである。

トローチング

僕はバファリン子供用の、オレンジ味が大好きで、頭痛があるわけでもないのに食べて、よく叱られた。
その、バファリン子供用の過剰な摂取は、何かしら現在の僕に影響を与えているのかそうでもないのか。
それは分からないが、驚愕したのは「今でもトローチを噛んで食べてしまう」ことに気づいた今冬のある日であった。
喉に違和感をおぼえたとき。
トローチは、母方の祖母に言わせると「喉がすーっとする」。
また、咳が収まったりと、トイレットペーパーのミシン目くらい、活躍する。
それにしても、母方の祖母ほど「喉がすーっとする」要素が多い人間もいないだろう。
確か、サイダーを飲むとき、いつも「喉がすーっとした」と口にする。
ハッカ飴をなめても、そもそもすーすーしないタイプの飴であったとしても、「喉がすーっとした」。
あの調子ならうどんをすすっても「喉がすーっと」するだろう。
言い換えれば、彼女はあまりに普段「喉がどろっどろ」なのだった。
それはさておき、トローチなのだが、あれは妙においしい。
よく味わってみると少々漢方薬のような、妙なかぐわしさを放つが、何かおいしい。
いや、あれは漢方薬だろうか。
もっと無機質な、まあ何か病原菌を殺してくれそうな。
そんな風味だったような気がする。
とにかく、トローチは、噛んではいけない。
しかし噛んでしまったのなら、せっかくだからよく味わってくれ。
そしてその味が何だったのか、教えてくれ。
何の味に似ていたのか。
ただ、もしあまり味がしないようなら、それはあなたの舌が病原菌ってことだろうけどな!!。

俺とお前とむぎばたけ。

「どうぶつの森」で、なぜか部屋いっぱいに「むぎばたけ」が置けないようで悲しい。
一部屋に置けるものの数が決まっているのだろうか。
とにかく、懸命に集めた「むぎばたけ」が寂しく洋なしのクローゼットに置かれっぱなしになっている。
ひとつ気になる事があるのだとしたら、その部屋の真ん中には「UFO」を置いている。
意図はしなかったのだが、結果的にミステリーサークル的な何かが、「むぎばたけ」で部屋を満たす事を妨害したのかも知れない。
などと、「どうぶつの森」をやってない人には何の事を言っているのか分からないかもしれないが、重要なのは「昔、UFOがむぎばたけにミステリーサークルというのを作っていたらしい」ということだ。
幸か不幸か、一時は終末思想と相まって未知というよりは恐怖の対象にすらなっていた「ミステリーサークル」だが、近頃はそもそも話題になる事もなく、ああそんなものもありましたね、くらいになってしまった。
ひとときはあんなにどきどきしてテレビを見ていたのに。
僕はおそらく、徒歩3分のところで「ミステリーサークルできたよ!!」と話題になったとしても、たぶん行かない。
これは「未知のものに対する好奇心」が失われているとも言う事ができ、そう聞けば何かさびしいことのようなことでもあるが、一方で僕に言わせてみたら「未知のものは、昔はもっと未知未知していた」。
おそらく、昔は「ミステリーサークルは未知のもの」だったのだが、今では「ミステリーサークルはミステリーサークル」であって、訳が分からないものではあるのだろうが、未知というにはあまりに是非問わず詳細が調べられてしまった。
それが魅力の減少に繋がったのだろう。
なんたってだいたい円形だし、だいたい麦が倒れている。
そして夜、光る飛行物体が飛んでいたり、あるいは棒と紐を持った人々が畑に入っていったり。
そして何よりも、どうぶつの森ではむぎばたけが部屋一面に置けないってんだから、ほんと。

君の名は。 その2

昔読んだ本をまた読みたいのだが、タイトルが分からない。
こういうのはたいがいの人にあるだろうが、対象の本によっては救われる可能性もあろう。
「タイトルは分からないが、桃太郎が猿と犬とキジを連れて鬼退治に行く」
確実に桃太郎の鬼退治の話で、タイトルは覚えてなくても比較的速やかに目的の本にたどり着く。
みんなが知っている本であればあるほど、タイトルさらには内容も覚えてなかったとしても見つけやすいのだ。
上記桃太郎だって、「タイトルは分からないが、人が動物を連れて鬼退治に行く」でも結果は桃太郎であって、内容があいまいでもイケそうだ。
「タイトルは分からないが、最後に猿のイオナズンで鬼が一掃される」
こんなでも、最終的には桃太郎に「到着」できるだろう。
知名度は本人の記憶違いも是正可能だ。
それなのに、この世のなかにはなぜこんなにも「昔読んだ本をまた読みたいのだが、タイトルが分からない」が多いのだろうか。
という疑問のひとつの回答は「その本、みんな知らないしなあ」になる。
その感覚は、僕にいつも「そんな誰も知らないものをこしらえるんじゃない!!」と「みんな全部知っとこうよ!!」とふたつの気持ち悪い考えを持たせるのである。

君の名は。 その1

昔読んだ本をまた読みたいのだが、タイトルが分からない。
こういうとき、どうすればいいのだろうか。
確か文庫本で友人に借りたもの。
上下巻に分かれていたと思う。
原作は外国の方で、ややメンタリティというか宗教的というか。
そんな内容を取り上げていたと思う。
オチは、なんかキーパーソンが光りながら崩れ消えてしまうというもので、確か高次の世界へ行ったんスよ。
そんな終わり方だったように思う。
ストーリーや世界観はともかく、なまじっか内容を覚えているものだから、もう一度読んでみたい気もする。
しかし何だったのか。
説明する材料にも乏しい。
友人に聞いてみるか。
「昔貸してくれたやつで、上下巻に分かれている、最後人が消えちゃうやつ」
もうちょい、何か欲しいところ。
こういう「タイトル覚えてないけどまた読みたい本」というのは、似た類いのCF曲などとともに、人の心をつかみ続けるもので、専用のサイトもあるくらい。
そのなかに、キーワードを埋めていくとどんどん絞ってくれる機能なんかないだろうか。
こう、入力するところが10個くらいあり、そこに歌詞なり、流れていたCFの種類などを入力していくと、どんどん対象を絞ってくれるのだ。
となると、僕の知りたい本は「人が消える」「上下巻に分かれている」「友人が貸してくれた」というキーワードになり、最後はいらないか。
もう少しがんばると「スピリチュアル」「高次の世界」とかも行けるか。
そして残った入力欄には、あいまい検索として「友人が消える」「友人が上下に分かれている」「友人の世界」とかを入れて、楽しむか。

四字

面白くないと思っていた。
三寒四温
八面六臂
五臓六腑
この、数字部分を入れ替えてみたらどうなるか、という考えについて。
四寒三温
六面八臂
六臓五腑
どうにもならない。
いや、どうにかなってしまっていそうなものもある。
六面八臂
六臓五腑
このへんだ。
八面あったものが六面になってもいいのか。
あるいは六腑あったものが五腑になっていいのか。
わからない。
わからないが、とりあえずこう並べた四字熟語たちの縦の数字部分を足したら、16になることはわかった。

あとはかんたん。

こう日々生きていると、これはコラボしてはだめだな、と思うものがいくつか存在することに気づく。
例えば、築地市場とリトルマーメイドのコラボは、少し難しい。
何かと言われると困るが、難しい。
同じ感じで、築地市場と猫カフェも想像しにくい。
なんだ、築地市場はコラボしにくいな。
一方、「爽健美茶」と「サントリーウーロン茶」のコラボもだめだろう。
あれはほぼ同じだから、コラボしているのかどうか分からない。
このように、コラボに向かないものに対して、コラボに向くものもあるかと思う。
まず思いつくのが劇団四季だ。
何と合わせても、それを昇華してくれそうだ。
劇団四季「ブルーレット」
「ちゃんと置いたか?」
「じゃあ、あとは生きるだけだな」
僕の考えたラストシーンである。

裂傷

倒れない、落ちないように、既に考慮されているとはいえ、植木鉢が通行する人の頭より高いところにあるのを見ると心配になってしまう僕にとっても「布製の植木鉢」というのは魅力的だ。
「割れない」という売り文句は、重さはともかく怪我もさせにくそう。
そんな植木鉢があるんだねえ。
しかし、この「割れない」というのは、そんなにはっきり言っていいものか。
これはこれで心配になってしまった。
氷点下になる地域でこの植木鉢を屋外で使用すると、土壌の水分も含んだこの布製植木鉢は、割れたりするんじゃないか?。
そんなところで屋外にパンジー植えるかどうかは、あくまで購入者の自由だから。
ん?
割れたりするんじゃないか?。
早く答えてくれないと、そんなこと言ってる僕の口元、血だらけになろうが!!。

ハーフベーコン

スーパーで買い物をしていると、ベーコンが売られていた。
以前は、僕はベーコンを軽視していた。
固いし、塩っからい。
しかし程よく火を通して、目玉焼きと一緒に食パンの上に乗せたりすると膝が震えて立っていられなくなるほどおいしく、他者も「ベーコンは膝が笑ってしまうほどおいしい」と理解しやすい。
それからベーコンを見直した訳だが、一方で買う事もない。
そんなおいしいものをいつでも食べられると思うなよ。
自分の体に対して律しているのである。
先日もベーコンが売られていることを確認し、これでもし耐えられなくなったときでも「食パンの上に目玉焼きとベーコンを乗せたものが食べられる」と安心していると、あるものに気づいた。
「ハーフベーコン」と銘打たれたそれは、確かに半分にされたベーコンが厳かにラップされている。
そんなものだった。
僕は、塩分が半分という事ならともかく、そのものがハーフになっている必要があるのかと疑問に思った。
ハーフが必要なら、「全長のやつ」を半分にすればいいじゃないか。
一方で、そのハーフの大きさは食パンの上に乗せるのにちょうど良い大きさのように思えた。
まないた、包丁を持ち出さずとも食パンベーコンが実現できる。
これは、一種の「おもてなし」と言えるのだろうか。
「全長のやつ」を半分に、しておきましたよ。
それをラップして売っておきましたよ。
あとは食パンと目玉焼きがあれば、「食パンの上に目玉焼きとベーコンを乗せたもの」ができますよね。
僕は「食パンの上に目玉焼きとベーコンを乗せたもの」がかなり認知されていることに満足しながらも、ベーコンにこれ以上の「おもてなし」を行える余地はあるのか、と心配になってきた。
ほんと、心配になってきたんだよねー。