プロビデンス その2

僕の目は、もうジャニーズジュニアはみんな同じ顔としか認識できない。
みんな、男前の男子達だ。
いいのか、こんなに男前の男子達がいて。
しかしそれの区別ができないのである。
男前A
男前B
男前C
男前で因数分解、あるいはギラで一掃できてしまう。
こういったことを考えるとき、別の観点で物事が見られたらなあと常々思う。
そうすれば、物事はよりはっきりと区別できるのではないか。
例えば、ちょうど昆虫の持つ「複眼」。
いくら高性能とはいえ、2つの目では確証が得られなさ過ぎる。
人間は何をやっているのだ。
2つで何もかんも済ませようとしやがって。
ともかく、そのくらい目があれば、ジャニーズジュニアも区別し放題ではないか。
昆虫という事で、可視光の幅も増えそう。
「あ、あの子はちょっと体温が低いので、体調が優れないのだろう」
「あ、あの子は胸元が紫外線を吸収して黒く見える。胸元に自信があるのだ」
この調子なら、フリーメイソンっぽい「全てを見通せる」こともできるんじゃないか。
そんな気もする。
だが、一方でこんな考え方もある。
ある作家は、ゾウの考えている事をアリが理解してしまった時、そのアリは狂ってしまうのではないかと考えた。
最近のインディジョーンズのネタバレでは、最後に膨大な知識を教えられてしまった人がうっきゃあってなってた。
どちらも、何か許容量を超えるものがどっと来た時、大変な事になってしまうことを示唆している。
僕の望んだ複眼は、その視覚情報で僕を狂わせてしまうのではないか。
そう感じた。
そういえば、ムカシトカゲを思い出す。
彼らの頭頂部には光が感受できるらしい感覚器が、目とは別に存在している。
しかしそれは、生後半年くらいで鱗に覆われてしまうのだ。

プロビデンス その1

僕は、人並みには「目」を信じているが、必要以上には信じないようにしている。
言い換えると、あまりにおかしな事を見てしまったときは、錯覚として「まあそんなこともありますかネ」とふわふわさせる。
例えば今、DASH島でTOKIOが楽しそうにキノコを嗅いでいるが、これは「ああTOKIOがキノコを嗅いでいるな」と信用する。
しかし空に葉巻型の巨大な宇宙船状のものが浮いていたり、夜の山道を下半身だけの人が車の前を横切ったり、モニタからツインテールの少女が出てきたりという場面に遭遇したならば、もしそれが本当だったとしても信用しない。
「目の表面に極小の葉巻型のゴミがついてるのではないか」
「そりゃあときどき、夜の山道を下半身だけの人が横切る事もあるよな」
「いやあ、住民票どうしよう」
錯覚としていることもないようだが、ともかくふわふわ。
必要以上に信用しないというよりは、事の重大性に気づかないようにするだろう。
とまあ、ありえないことを例に出した事を申し訳なく思うが、とにかく目というのは信用ならない。
僕の目は、もうジャニーズジュニアはみんな同じ顔としか認識できないから。

はい、レッドブル。

今思ったのだが、あるゲームの敵が「エナジードレイン」という技を使ってきて困ったことがある。
それはせっかくプレイヤーが一生懸命に敵と戦ってあげたレベルを下げてしまうという、再度レベルを上げる手間を考えると、現実の生活にも少し影響を与えるというもの。
これは困った。
この「エナジードレイン」というものはゲームではレベルを下げるというものだが、ゲームやその怪物の伝承的には「年齢を取らせる」という意味合いを持つものであるらしい。
「その敵に触れられると歳を取ってしまう」
何の映画かは分からないが、そんな感じのをいくつか見た事ある気がする。
となると気になるのは「その敵がカブトムシの幼虫をお手玉したら、どんどん成虫になって飛んでいってしまう」ということで、これは何だか楽しそうだ。
お手玉がどんどん飛んでいってしまうわけなので、敵に手下に絶えずカブトムシの幼虫を供給してもらわねばならないが、それはそれで楽しそうだ。
あるいは「ワインがおいしくなった」や「赤ちゃんに触ったら大人になって返り討ちにあった」などもあってたいへんそうで、それなら敵にタイトルのような声でもかけてあげたくなる事、まあ必至ではないけど。

やる気スイッチ、ジャンプ。青春。

幼児向けの玩具として「電車の模型」がスーパーのレジ横スペースに売られていた。
模型とはいっても、細部にこだわったようなものではなくディフォルメされた、ちょうど「プラレールの電車」のようなそれは、JR中央線のものだった。
今では銀色の、なんか冴えない電車色になってしまったが、3年ほど前は軽快なオレンジ色で、その模型はそのときの色をしている。
そして厳かも大胆に「中央特快」をうたっていた。
ある種の人々にとって、中央線の「中央特快」の存在は日々の生活において最重要キャラクターのひとつであり、それは意味合い的にも用途的にもちょうど「マリオのBダッシュジャンプ」くらいの重要度。
違うのは「日々の生活においては「Bダッシュジャンプ」で超せない穴はまず空いていない」ことくらいで、そういう点では僕が知らないだけで案外空いているのかも知れないし、空いていてもすぐ誰かが埋めてくれるので日本のインフラは非常によく整っているのかもしれないし、やはりまず空いていないもので、人間にBボタンがないのはそういう穴が空いておらずBダッシュの必要がなかったからだとも言えそう。
それはさておき、「中央特快」のあの速度。
あれは多少寝坊してもそれをカバーできるという魅力を、主に大人達に秘めさせている。
しかし、なぜ幼児向けの玩具で「中央特快」なのだろうか。
幼児にはその最たる部分である「寝坊をカバー」のことは、少し難しいのではないだろうか。
そこがセールスポイントにはならないのではないか。
ともかく、僕はひとつまた、気づかされる事になった。
「中央特快」
なんとなく、強そうなのである。

黒衣の男達

「ごめんね」
と書かれたノートを残して、彼女は姿を消していた。
これはかなり辛いが、一方でこれはどうだろう。
「同性愛者の人が一緒に温泉につかる事は「混浴」なのだろうか」
と書かれたノートを残して、彼女は姿を消していた。
何か難しいことを言っている。
そして姿を消した事について、考えてしまう事が複数あり、困る。
・本当に「混浴」なのかどうかの現地調査として、旅に出た
・彼女は本当は「彼」だったのではないか
・「とうとう気づいてしまいましたね」
謎の組織に拉致されてしまった。
あるいは、自分が知らず知らず「混浴」状態の温泉につかっていた可能性のあることに、彼女は我慢できなかったのかもしれない。
どうであれ、自分で書いたというのなら、ここはとりあえず「ごめんね」とか残してくれればいい。
かなりゆずっても「結果、ごめんね」だ。

寄らば出す。 その3

昨日からのつづき。
【あらすじ】
ドクヤガエル、フキヤガエルを傷つけずに、毒矢用の毒を採取しよう。
=====
例えば、彼らにとって分泌する毒が人間にとっての涙のようなものなのであると仮定する。
するとまず試したいのは「彼らをスプーンの上に乗らせたうえでドラえもんの「おばあちゃんの思い出」を聴かせる」というもので、話が終わってカエルが去ったのち、スプーンの上には毒液がたまっているという算段。
まあそういった方面。
非常に分かりやすく、楽だ。
だから僕にしてみれば、彼らの毒は「人間にとっての涙のようなもの」であってほしいし、そこへかわいそうな話やカエルが大変な話を投下していきたいところだ。
だが、おそらくではあるが「彼らにとって分泌する毒が人間にとっての涙のようなもの」というのはありえず、では何なんだろう。
ありそうなのは「自分の保湿のために出す液がたまたま毒」だった、というもので、するとまず試したいのは「彼らにきな粉をかける」というもので、彼らを救出した後のきな粉は完全な毒きな粉になっているという算段。
まあそういった方面。
非常に分かりやすく、なんとなく毒きな粉は毒きのこと語感が似ていて、やはり楽だ。
だから僕にしてみれば、彼らの毒は「保湿のため」であってほしいし、そこへバームクーヘンやスコーンを投下していきたいところだ。
だが、おそらくではあるが「彼らにとって分泌する毒が人間にとってのドクターシーラボ」というのはありえず、では何なんだろうというのは、まあ「保湿というよりは保身」であろう。
するとまず試したいのは「彼らの目前で何か料理の準備をし出す」や「今年の干支の話をする」というもので、自分が調理されてしまうのではないかと身の危険を感じた彼らが思わず毒液をしたたるほど出してしまうのではないかというのもので、この話まだ続ける?。

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寄らば出す。 その2

昨日からのつづき。
【あらすじ】
ドクヤガエル、フキヤガエルって名前、なんかかわいそう。
毒の採取=殺害っぽいし。
=====
分解しやすかったり、熱に弱かったりするのでなければ、彼らの毒は人間には作用しないはずだ。
というのも、彼らの毒で狩った獲物を人間が食べて死んでしまうようでは、この流れに勝者はいない。
関係者全員死亡で、それでも勝者を考えるのなら、それは分解者だろう。
一方で、その毒が人間に多少也とも効いてしまうのであるなら、人間としてはカエルを触れたくはないだろう。
となるともう、毒の獲得方法は「ドクヤガエルを見つけたら、矢でちょい刺す」以外に考えられない。
その矢で獲物を射て、倒したら矢の刺さった場所付近を除去したりする。
それにしても、やはりそうなってしまうのだろうか。
「矢でちょい刺し」
カエル達の体長を考えると、それはもう全身裂傷に等しい。
あるいは「ちょい刺し」どころではないかもしれない。
カエルを矢で刺しぬいておいて、それをそのままシュッとやる。
大きな獲物を狙っている場合は、矢に何匹ものカエルを刺しぬくかもしれない。
それが矢先の毒量と比例するのかは分からないが、壮観ではある。
矢につらぬかれた、たくさんの小さなカエル。
矢、本来の用途を考えると「たまたま石の上に小さいカエルが連なって座っていた」みたいなことがない限り、そんな光景は見られないだろう。
まあどちらにしても、カエルにとってはあまりにも悲しい感じ。
次回、殺さずにドクヤガエル、フキヤガエルから毒を取ろう。
じゃあ本当に殺して毒を取っているのか、は知りませんが。

寄らば出す。 その1

小さい頃に両生類とは虫類の図鑑を買ってもらった。
それを気に入り、ずいぶんと眺めていたものだ。
さまざまな種類が載っていたが、そのなかでも僕がよく見ていたのはカメのところで、今もカメを飼っている。
そして今日、カメではなくてカエルの話だ。
僕がこの図鑑で、カエルの事で気になっていたのは「ヤドクガエル、フキヤガエルは、毒を取られたら死んでしまうのか」ということだった。
たいがい極彩色の彼らは1センチくらいで小さいが、かなり強い毒を皮膚から分泌する。
それを、現地の人は狩りに使用するらしい。
それがどんな動物を狩るときに使うのか。
その毒は人間には作用しないのか。
そもそもすぐに分解されるから、食べても問題ないのか。
様々な疑問があるが、それにしても「ヤドクガエル、フキヤガエルからどうやって毒を採取するか」だ。
分泌するだけで事足りるのか。
彼らの体の小ささから考えると、どうも彼らを殺さなくては十分な毒を採取できないような気が、子供ながらにしたのだった。
ちょっと悲しい。
その上、この和名だ。
以前も直接すぎる動物名について触れた事があるが、これもそう。
「ヤドクガエル」
「フキヤガエル」
だそうだ。
矢だ。
彼らの存在意義は、矢だ。
「フキヤガエル」なんて、カエルそのものを詰めて吹いてしまいそう。
「スポーツ吹矢」のイメージを損ねるからやめてくれと、スポーツ吹矢の偉い人に言われるにちがいない。
そのうえ「毒採取時に殺されてしまうかもしれない」訳で、確かに幼少の僕が彼らが気になるのは仕方がないと言ったところ。
次回へ。

生前完全攻略

昨日から。
【あらすじ】
個人的な空間。
例えば車内など。
しかしその車が交差点などの「公の場」にいるとしたなら、その車内も結局「公の場」になってしまう。
「公の場化」。
日本。
そんな「公の場化」を阻止し、どうにか車内の個人空間を守る術はないのだろうか。
=====
②交差点に停まっている車の中から、お経が聞こえてくる。
これは結構守れていそうな気がするが、どうだろうか。
「こんなところで車内葬(たぶんない)するなよ。公の場だろ」という意見も出そうだが、一方で「まあ葬儀中だから中をのぞいたりするのはやめておこう。そっとしておこう」とプライバシーな部分が尊重される。
そんな雰囲気も得られそうである。
これは単に個人的な部分が強いだけでなく、「厳かファクター」という人間の根源的な部分を最大限に利用した、数少ない「公の場化」抑制方法と言えよう。
③市長、区長などになり、たいがいの公共施設を自宅周辺に密集して建設する。
権力の暴利か。
あるいは人類積年の夢か。
「公の場」を掌握する、力づくの大技である。
シムシティーなどでなら十分可能だろう。
④「公の場」になりそうな箇所を前もって所有しておき、そこにお墓や記念樹などを用意する。
ある意味、②と③の複合技。
ある程度の先見の明が必要な事と、実際「公の場」になりそうなときにそこから移動しない、できない意志の強さ。
しかし結果的にはそこが「公の場」にならなければいけないなど、敷居は高い。
だが実現すれば、例えばお墓なら、交差点の真ん中で線香をたいたりお花を飾ったりしたとしても、誰も「公の場なのに」とは思わないだろう。
あなたもその後、そのお墓に入るのだとしたら、なおさらその雰囲気を満喫できるかも知れない。
「ここ、スクランブル交差点の真ん中だってのに、俺埋葬されてるよ、うへへ」
「公の場化」の完全阻止である。

にじみ出る個人。

先日、「公の場」というものについて記した。
例え自分の車の中であっても、その車がスクランブル交差点のど真ん中に停まっていたりしたら、それはもう「公の場」なんですよ。
優しく説いた。
この話は「公の場」の枠なき広大さを示しているのと同時に、上記のような「公の場化」の対抗策はないものかと疑問を生じさせる。
絶えず、「公の場」というものは我々個人が持つ範囲、領域よりも大きいのだが、それでも何か。
何か策とか、面白い何かがないだろうか。
例えば、上記の例で、まんまと車内は「公の場」となってしまった。
ここで、車内のプライバシック(たぶんない)な雰囲気を、どうにか外に出す事はできないだろうか。
①車のドアから、ふんどしが長めに出ている。
ここでは、個人的なものの最主力をふんどしにしてみた。
それを車外に出す事で、どうにかして「公の場」に一矢報いたい。
とはいえ、もう書いているときから無理な事はわかっていた。
先日あるいは今回書いているように、公の場でやることは全て公の場の範疇になってしまうのである。
「公の場」でやっている以上、そうなるのはもうどうにもならない。
終わりのない旅。
はんこの見つからない居間。
道の途中からビニールを敷いているので、球が永遠に大きくなっていかないふんころがし。
ラビリンス。
公の場。
しかも、この例だと、おそらくふんどしは赤いだろうから。
そんなものが外に出ていると、どちらかというと道行くひとびとはふんどしと認識するよりは何かエマージェンシーなことを想像してしまう。
結果、やはり車内はのぞかれてしまい、「公の場化」はむしろ加速する。
もっと、考え方を変えてみたい。
何かおもしろいのないかなと、何も浮かばず次回へ。