にじみ出る個人。

先日、「公の場」というものについて記した。
例え自分の車の中であっても、その車がスクランブル交差点のど真ん中に停まっていたりしたら、それはもう「公の場」なんですよ。
優しく説いた。
この話は「公の場」の枠なき広大さを示しているのと同時に、上記のような「公の場化」の対抗策はないものかと疑問を生じさせる。
絶えず、「公の場」というものは我々個人が持つ範囲、領域よりも大きいのだが、それでも何か。
何か策とか、面白い何かがないだろうか。
例えば、上記の例で、まんまと車内は「公の場」となってしまった。
ここで、車内のプライバシック(たぶんない)な雰囲気を、どうにか外に出す事はできないだろうか。
①車のドアから、ふんどしが長めに出ている。
ここでは、個人的なものの最主力をふんどしにしてみた。
それを車外に出す事で、どうにかして「公の場」に一矢報いたい。
とはいえ、もう書いているときから無理な事はわかっていた。
先日あるいは今回書いているように、公の場でやることは全て公の場の範疇になってしまうのである。
「公の場」でやっている以上、そうなるのはもうどうにもならない。
終わりのない旅。
はんこの見つからない居間。
道の途中からビニールを敷いているので、球が永遠に大きくなっていかないふんころがし。
ラビリンス。
公の場。
しかも、この例だと、おそらくふんどしは赤いだろうから。
そんなものが外に出ていると、どちらかというと道行くひとびとはふんどしと認識するよりは何かエマージェンシーなことを想像してしまう。
結果、やはり車内はのぞかれてしまい、「公の場化」はむしろ加速する。
もっと、考え方を変えてみたい。
何かおもしろいのないかなと、何も浮かばず次回へ。

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