グラタン

僕がオニオングラタンスープをあまり好きではない理由は、グラタンと言いつつクリーム的なものがなく、あれではコンソメスープにチーズトーストが浮かんでいる。
ただそれだけじゃないかと失望した経験があるからだ。
同じ理由でチーズフォンデュも好きではなかったが、これは昔食べたものがワインでチーズをといたものだったというのが原因。
とろけたチーズのみを用いる事を期待していた僕は、このまがい物のチーズフォンデュがおいしくなかったこともあり、むしろ嫌いになった。
ワインでチーズをとくものが本格派なのかネイティブなものなのかはわからないが、ともかくだめだった。
しかし近年、カマンベールチーズの外側を器にして、その中身をとろとろにして食べるというチーズフォンデュの存在を知ってから、例えこれが簡易版なのだとしても、人それぞれ自分の好きなチーズフォンデュを創造してよいという事に気づかされた。
愛に色々な形があるように、チーズフォンデュにも色々な形がある。
ということで、僕のオニオングラタンスープを模索するべく、まずはグラタンの作り方を習う事にする。

爽やかテイスト

このあいだ量販店で見かけた「氷砂糖」にはこんなフレーズが印刷されていた。
「心にすみわたる爽やかなテイスト」
「すみわたる」だったか「しみわたる」だったかは曖昧だが、どちらにしてもちょっと「氷砂糖」を過大評価し過ぎなのではないかと思った。
「テイスト」というのも、少々無理がないか。
しかし一方で、「氷砂糖」の持つ無垢さ、清純さにも気がついた。
確かに、氷砂糖は口に含むと優しい甘さのみを出してくる。
他の無用な風味などは出さない、何かの結晶のようなそれは、野球少年がただ野球にいそしむ姿、マネージャーのドラッカーをただ読みまくる姿や逃げ場をなくした猫が全然通れなさそうな隙間に頭を何度もがんがんやる姿。
そんな一途な姿勢を思い出させる。
そう考えると、大げさなキャッチコピーと本人の純朴さから、なんとなく氷砂糖のことが昔のアイドルのように思えてきた。
うろ覚えだが、昔のアイドルは確か全然通れなさそうな隙間に頭を何度もがんがんやっていたというし。

新橋にて帽子屋。 その2

【あらすじ】
新橋駅に出てた路上販売の帽子屋が、最近いない。
=====
見なくなって一週間あまりが経過し、あの外国人はもう国に帰ってしまったのだろうとあきらめた。
確か、カナダの国旗が飾られていた。
あの、カナディアンマンの顔の70パーセントほどを占める楓の葉。
ホットケーキにかけると魔法のようにおいしくなるメープルシロップ。
僕にとってカナダはこのくらいの引き出ししか無いのだが、もしあそこの帽子屋で帽子を買っていたなら、「カナダ、鹿のもこもこした帽子」。
これが追加される。
それにしても、なぜあの人は路上で鹿の帽子を売っていたのだろうか。
もしかしたら鹿の帽子はカナダでは違法なのではないだろうか。
さすがに日本で鹿の帽子が違法、ということはないと思うのだが母国で違法だから、何となく路上販売を行い、何かあったらすぐに逃げられるようにしていたのではないだろうか。
というか、何かあったから逃げてしまった状態なのだろうか。
そもそも、カナダで鹿というのは、もしかしたらトナカイの事なのではないだろうか。
と、帽子屋がないせいでそんな憶測をしながらそこを通り過ぎる日々に、ついに終止符が打たれた。
知人の話によると、その帽子屋は路上販売する時間を変えたらしい。
僕はその時間にはそこを通らないのだ。
ちょうど知人と出会っている最中がその時間という事で、試しに行ってみるとあった。
鹿の帽子屋だ。
もう次はないと思い、一番気に入った帽子を手に取る。
え、7500円?。
これは、何日節制の限りを尽くさねばならないのかね。

新橋にて帽子屋。 その1

新橋駅の近くで、何だかもこもこした帽子を売る外国人が出没している。
値段は見えず、何か鹿の皮の、ちょうどイヌイットがかぶっていそうな帽子。
今、「イヌイット」を「犬一頭」と打ち間違えて、ああこうやってなぞなぞは生まれてくるんだなと感心しながらも、まあ帽子が路上に並べられている。
そこを通るたびに、気にならない訳ではないが「こんなにもこもこした帽子はいらないか」と考えていたのだが、最近こつ然と帽子が路上に並べられている事がなくなった。
そう書くとそりゃあ普通は帽子が路上に並べられていることなんてそうはなく、あるとすれば帽子屋が転んでばらかしてしまったのが奇跡的に奇麗に碁盤上に配置されたのか。
あるいはたまたま帽子をかぶっていた団体さんがフグ毒にあたってしまい、昔の民間療法を思い出したおじいちゃんの指揮のもと、頭だけ出して体は全部土に埋められてしまったシチュエーションのとき。
そのくらいしかなく、要は「帽子が路上に並べられている事がなくなった」とは、その外国人がいなくなってしまったということなのだ。
こうなると俄然、気になってくる。
なんだかんだいって帽子屋の横を通り過ぎるのは楽しかった。
僕は、あの帽子を要していたのではないか。
そしてその帽子屋はいない。
なんだか、是が非でもあの帽子を手に入れたくなってきてしまった。

お願い致します。

ということで、先日のブログは「以上、よろしくお願いします。」で締めたのだが、これがけっこう気になる。
世間、特に会社の中でなのだろうか。
メールの最後にはこれを付ける事が一種の礼儀だというのだ。
しかし、例えば先日のブログは「以上、よろしくお願いします。」で締めたわけだが、あの内容でどう「よろしくお願い」したのか、僕はわからない。
おそらく相手もわからない。
このわからなさは、一般的なメールにも通じると思う。
例えば「最近寒いっすね。今度鍋でも食べますか。以上、よろしくお願いします。」というメールの場合、まず「っすね」というところから相手が先輩あるいは「っすね」で比較的たやすく操作できる年上だということがわかるが、この場合の「よろしくお願いします。」は一体何なのだろうか。
相手に対して、寒さをどうかしてくれるよう頼んだのだろうか。
それとも、鍋のセッティングをお願いしたのだろうか。
先輩あるいは比較的たやすく操作できる年上に対して、このようなことをほいとお願いしていいのだろうか。
大人の判断となると、「寒いから鍋でも食べますか、という問いがあったことを気に留めといてください」ということにでもなるのだろうが、時としてこの文面は「以上、よろしくお願い致します」などと「致します」がついたりして、ちょっと厳か過ぎやしないかと心配になるくらいの返信もあったりなかったりで、いやいやあなたが比較的たやすく操作できる年上だって言っている訳ではないっすよ先輩。

さえずる価値 その2

完全憶測!!
うちのインコが人のまねをしない理由
一位
インコの世界では「おはよう」が「バルス」みたいなもの
二位
インコの世界では人の言葉を喋るのは人間に対して迎合し過ぎだと敬遠されている
三位
完全にコピーできているが、まあ人の前でさえずることでもないしな、と考えている
四位
人の「おはよう」の「は」のときの表情が大好きなので、人まねをすることで「おはよう」の顔をしてもらえなくなることを恐れている
五位
実はよく喋っているが、人には聞こえない音域
六位
一度、ご主人の前で喋ろうとした瞬間にご主人がどこかに行ってしまった事があり、それを今でも気まずく感じている
七位
ちゃんとインコ語で「おはよう」と何度も言っている
八位
ちゃんとインコ語で「今そういう気分じゃないんで」と何度も言っている
九位
ちゃんとインコ語で「私はカゴの中の小鳥。大空への飛躍を胸にそのときをただひたすら待つ」と何度も言っている
十位
インコの世界では「おはよう」の概念が無い
以上、よろしくお願いします。

さえずる価値 その1

インコやオウムなどを見かけると、うちで飼っていたインコを思い出す。
「インコちゃん」と名付けられた彼女は少々畸形で、それが原因かは分からないが売れ残っていた。
かわいそうということでもないが、我が家は以前も小鳥を飼っており、まあカゴもあるしと購入。
足が変形しているため止まり木に移るのが大変そうなのだが、それ以外はちゃんとセキセイインコなのだった。
さて、セキセイインコというものはコロコロとかわいい声で鳴くが、一方で人の言葉のものまねもよくする。
「インコに何を喋らすか」
ある人種ではそれだけで一日のうち二食をまかなえることで知られる、コストパフォーマンスあふれる議題である。
我々はよく、インコちゃんに向かって「おはよう」だの「こんにちは」だのを、口の動きが見えるように話しかけた。
どこかで聞いた話によると、インコというのは最初相手がどのような音を発するのかを覚えるため、じっとそれを聞く、のだとか。
自然下では集団で生活する彼女らとしては、さえずる事、相手のことを覚えるのは必須のコミュニケーション能力である、のだとか。
口の動きも見られるのなら、より覚えるのも速いのではないか。
そんな我々を、インコちゃんはさえずらずにじっとこちらを見ていた。
しかしインコちゃんは一向に言葉を喋らなかった。
ただ、じっとこちらのことを見ている。
しばらくはただ覚えるのに時間がかかっているのだとばかり思っていたが、あるときふと思った。
「おまえら、うるさい」と思っているのではないだろうか、と。
そんなはずはない。
あんなカラフルでごまのような目をした生き物がそんなことを考えるか。
しかし一方で、何も喋らない事により、飼い主に自分の意志「おまえら、うるさい」を伝えようとしていたとするなら、それはインコちゃんの恐るべき才能である。
「無い事で、何かを表す」
「雄弁は銀、沈黙は金」というのがあるが、インコではより効果的なのだ。
次回、他の理由を考えてみる。

のりしろ時代

実は、スコーンが大好物である。
甘くないのが好きであるが、一方で結構甘いのも大丈夫なので、かなりの範疇のスコーンが好きである。
「あれこれ、甘食じゃない?」
そのくらいのも平気だ。
スコーンと紅茶があれば朝食は四半世紀は持つと思うが、僕は朝食を摂らないので、実質生きているずっと、スコーン紅茶で朝食はまかなえるはず。
その上死んでしまったら朝食はいらないのでこれ、永遠に僕の朝食はスコーン紅茶でよいことになり、最近生まれた赤ちゃんで既にスコーンと紅茶をたしなんでいる者がいるとするならばそれはもう僕の来世で、前世が生きているのに来世がいていいのかはよくわからないが、今まで隠していたが本当は、僕は甘食も好きなのです。

気持ち

今、これを書いているログイン画面内にて「いぬのきもちクイズ」というバナー的なものが見えており、そこには「体をブルブルするとき、犬はどんな気持ち?」と問うている。
僕としては、それには「体をブルブルしたい気持ち」と答える他ないが、それは「成人男性がたばこを吸っているとき、彼はどんな気持ち?」という問いに「たばこを吸いたい気持ち」と答えているようなもので、それでは超絶コミュ生物、人間をやっていくには多少こころもとない「気持ち判断力」と言わざるを得ない。
できれば「今日は何となく早く帰ろうかと思っていたが予想外の仕事が発生した上に結婚記念日がおとといだったことを思い出した。さらに20年ほど前、幼なじみが引っ越しするときにちゃんとさよならを言えなかったことなども思い出した。そんな状態でエクセルで資料を作成しようとするが、何かの拍子でカーソルが65535行目に移動してしまう事が、もう3回も起きていて、もう全てがいやんなる気持ち」という事くらいは、知れたらいいのにね。
ほんとにいいのにね。

泡を抱いて眠る

絶えず正解を選択し続けていきたいとは僕の口癖のようなもので、イメージではそれに成功し続けていればもう資産家で7人の妻がいてトイレが黄金でできているはず。
今そうなっていないのは少なからず正解を逃してきたからなのだろうがこの「正解」。
それは周りにとっての、自分にとっての。
常に2つ存在している事に、遅ればせながら気づいてきた。
例えば僕は、周りにあまり話題がなさそうだと判断すると、恐ろしく喋るのだが、これは少なくとも僕としては「周りに対する正解」を目指している。
この喋りで何か話が転がれば、多少の傷はご褒美のようなものである。
しかし一方で、この状態は自分にとっての正解と言えるのか。
そんなことを考え出すと不安になってしまう。
正直、恐ろしく喋りはするが、その内容は充実しているとは言えない。
それは複数人に対する話題であるから、あまり立ち入った話であるとかローカルものは汎用的でないと判断しているからであるが、それにしてもあーた、僕のそういう話は虚空過ぎていて。
多分叩いたら結構いい音する。
もしかしたら、「周りに対する正解」を求める事が多くなりすぎて、自分の正解が分からなくなってしまったのか。
そう思わないでもない。
そこにきてこの「自分に対する正解」というのは恐ろしい事に、羞恥心や鈍感さなど、自分のせいによって邪魔されてしまうことが多い。
それに気づいた時、取り留めのない、取り返しのつかない気持ちを胸に秘めて眠るしかないわけだが、これまた恐ろしい事に、今「僕に対する正解」というのはその「寝る」ということに他ならず、それは最近帰る時間がおそ過ぎで睡眠時間が4時間ほどしかないことと、そんな地獄のミサワのセリフのようなことを吐いてどうするん?というこれまた恐ろしいもうひとつの正解もどうにか回収しようとする欲張りな僕。